2017年は「インターネット福祉」が影響力を失っていく兆しを見た年だった。
「福祉」をやるのは難しい。福祉の受給者は、金銭的に報いることができないどころか、往々にして受けている恩恵を認識する能力が欠落している。手を差し伸べてくれる人を貶したり嫌ったりもする。だから生半可な気持ちでは支援者になることができない。
2ちゃんねる、ニコニコ動画、Twitter、はてな村など、日本では「インターネット福祉事業」が大きな影響力を持っていた。
※「インターネット福祉」は「厄介なインターネット」と言い換えてもいい。
後から振り返れば、福祉的なものが大きなビジネスになり、一時期は日本を席巻するコンテンツにまでなっていた時代が異常だった、となるのではないだろうか。
「インターネット」という言葉も、すでに古臭い匂いをただよわせつつある。
ニコニコ動画
今年、僕が最も大きな喪失感を感じたのが、ニコニコ動画の衰退だ。
会員数が減り始め、頼みの綱だった大幅アップデートは非難の嵐で、kawangoがトップから退いた。
しかしニコニコが衰退していくのはわかりきったことでもあった。ニコ動のようなサービスが存在していること自体がおかしなことなのだ。
詳しくは以下のエントリなどを見て欲しい。(ちなみに書いたのは僕ではないぞ。)
(く)への反応に観る「美しいが儲からない」と「醜いが儲かる」の差
スマホ対応まともにやれとか、嫌がらせみたいな措置をやめろとか、速度や画質を向上させろとか、一理あるのだろうけど、そもそもそういうレベルの話でもない。
ニコ動の価値は、本来なら無料でしか使わない層のユーザが金を払う「場」を作り上げたところにある。普通じゃないことをやっているわけで、普通にユーザービリティ向上しても苦しいことは目に見えている。
ニコ動が盛り上がること自体が「まっとうではないこと」だった。そしてそれが成り立つ背景には時代的なものがあり、時流が変われば衰退は必然。いつかは撤退する必要のあるものだ。kawangoがそんなことをわかっていなかったわけがない。
(く)の発表は、ニコ動のシステムを使ってユーザーが代表を口汚く罵り、見ていられなかった。しかしこういう層に有料登録させて金を払わせ続けていたということこそが、サービスの価値の左証でもあるだろう。情弱を騙すわけではなく、厄介なやつらに文句を言わせながら金を出させるという偉業を成し遂げた。
今より日本が衰退してから過去を振り返ったときにその価値に気づくだろう。「YouTubeに敗けた」とまで言われたサービスが日本に存在したのだ。みんながYouTubeよりニコニコ動画を見ていた時代は確かにあった。
これから、うまく縮小していい感じの位置に収まってほしいな、と思う。
kawangoがすごいのは、インターネット福祉の文脈の次のステップとしてN高を運営していること。すぐに結果は出ないだろうし成功する保証もないけど、長期的には大きな影響力を持つ事業になる可能性がある。
インターネット福祉の巨大な牙城であるTwitterも、代替サービスとしてのマストドン立ち上げなど、今年はいろいろあった。
アカウントが雑に凍結されたりしてみんな怒ってるみたいだけど、「日本人はTwitter人口多いんだからもうちょっと配慮しろよ」というのもおかしい気がする。
Twitterのような無料のサービスにおいて、インターネット福祉的な使い方をするヘビーユーザーは、たくさんいてもむしろ負担でしかなかったりする。サーバー代かさむし、広告踏まないだろうし、出してる広告の内容に文句つけたりスポンサーいじったりするし。
Twitter運営側からすれば、平和に交流して普通に気になった広告踏んでくれるようなユーザーに使って欲しいだろう。ファイティングポーズとってるようなやつは基本的に迷惑。
つぶやきをまとめて記事にするTogetterのようなサイトにしても、Twitter社の利益にほとんどならないどころか、ユーザー層悪化させて不利益になってる可能性も高い。まとめサイトなどもそうだけど、勝手につぶやきをまとめて載せられるかもしれないのって一般人からしたら嫌だと思う。
「ネットは不特定多数が見ている怖い場所だから発言には気をつけろよ」というパブリックなインターネット像があるのだけど、結局、要求が高いわりに金を出さないユーザーがそこに残って、ちゃんとコンテンツの価値を認めて金を払ってくれる良客は別のところに行ってしまう。金を出さない客は彼らのことを「情弱」と呼んで馬鹿にするのだけど、これから発展していくのは金出してくれるユーザーを抱えたサービス。
Twitterは米国企業なのに福祉マインドが高く、社会インフラとしての責任感も理念も十分にある思う。それゆえに経営が傾いていて日本人ユーザーがやたら多いのかもしれない。日本基準のお客様マインドで文句言いまくっても、Twitter側からすれば「なんやこいつら」って思うだろう。
今後、Twitterがますますエロ絵を弾圧したり、ユーザーを雑に凍結したり、信頼のおけるサイト以外のAPIや引用を禁止したりする「暴挙」に出ても、それほどおかしなことではない。マイナスになるユーザーが出て行くような施策をとったほうが経営判断としては正しいかもしれないからだ。
僕は普段からあまりつぶやかないほぼROM専なんだけど、Twitterというサービスが大好きなので、できれば日本のユーザーが今までのように使える時間が続いて欲しいと思っている。
これから「まじかよTwitter最悪だな」という流れが盛り上がって欲しくはない。
はてな村
今年の「はてな」は、リベンジポルノを受けた開発者が、自分の開発したサービスによって徹底的に詰められるという、まさにインターネット福祉的な因果が見えた。
そして、知名度のあるブロガーの多くが「はてなブログ」を辞めた。
理由はそれぞれだろうし主因は「SSL対応」だろうけど、もう「はてな」のコミュニティにいるメリットはない、と判断されたのも一つの原因ではあると思う。他の場所にも訴求力を持っている層が離脱したのはけっこう致命的。ブロガーの数は増えているだろうから「はてなブログ」はこれから伸びそうだけど、「はてなブックマーク」は酷くなっていくと思う。
「はてなに居たい人」が消えて、「はてなに居るしかない人」が残ったということ。これは福祉事業らしいと言えばらしいし、なんなら後者は「金目当てのつまらない奴が消えてよかった」くらいに思っているかもしれないが、乗っかることしかできないユーザーの比率が増えるのはサービスとしては普通にヤバい。
今の「はてなブックマーク」のユーザー層がどういったものなのかに関しては、捉え方によって変わるし、語っても僕の主観でしかないから言わないでおく。
ただ、もし仮に「はてブ」が、安心して叩ける対象を見つけてきて、文章もまともに読まず、書き手の意図も汲まず、安全圏から集団で誰かを攻撃するサービスだった場合、それはそれで需要があるのだ。「いじめ」は人間にとって楽しいことで、そのお題目に「正義」があればさらに気分が良い。
今の「はてなブックマーク」はそのようなサービスとは言えないと思うけど、そうなり得るサービスではある。
「はてブ」はウェブページに「上段」を作るという設計で、そこで何かを言われても、コメントに返信するという形で反論できない。一人二人ならまだしも、複数人になると言われた側はどうしようもないので、事実上の安全圏ができあがる。そして、それを使った「いじめ」が行われる。
極端な例ではあるが、クラスに1人「間違った考え方をしている嫌な奴」がいたとして、そいつ1人を他のメンバー全員で攻撃するのは「いじめ」だと言える。逃げられない場所で、少数に対して多数という「構造」自体が問題になり得るのだが、はてブはそれに近いことが簡単に起こる。
「あいつはああいうふうに悪くて……」という考えはそれぞれあるのだろうけど、「理屈」なんてものは学校のいじめっ子だって持っている。集団で一人を叩くことは「正論」で正当化されない。
Twitterで自分のフォロワーに向けて言ったり、ブログで自分の読者に向けて言うのであれば何も問題ない。でも「はてブ」はそれとはまったく別。
そういう意図で作られたわけではないにしろ、同意なしに他人のコンテンツに上段を作って、反論しづらい場所から一方的に言える設計になっている。そういうシステムの上で発言しているという自覚と配慮をユーザーが持てなければ、あるいは知っている上でそういうことをするユーザーが増えれば、どんどん悪質なサービスになっていくだろう。
ただ、僕は個別のユーザーに「正しい使い方」を説く自治厨みたいなことをしたいわけではない。基本的にユーザーはルールの範囲内であれば好きに使えばいいと思っているし、責任は「設計」を変更する権限を持っている側にあると思っている。
はてなを運営している人も、おそらくだがインターネット福祉に強いお気持ちを持っている気がするし、「はてブ」も収益性の低いサービスだろうけどできるだけ続けようとするだろう。
たぶん、悪質なユーザーばかりになったときに強い人達がキレたら面倒くさいことになる。弁護士雇って削除要請と開示請求送りまくればすぐパンクするだろうし、そこでアカウント停止措置などを迂闊にやるとユーザーが運営に牙を剝いて暴れだすので、インターネット福祉の真骨頂のような地獄が発生する。
もちろんサービス運営側としての道義的なものもある。例えばこの前の「#MeeTooムーブメント」において、「はてなブックマーク」というサービスは最悪の働き方をした。
「はてブ」は好きなサービスなのでこれからも続いていって欲しいが、「晒し上げ」のような風潮は抑制していくべきだと個人的には思う。攻撃的なユーザーが多いものはホットエントリーに上げないように調整したり、TwitterやFacebookやInstagramのようなSNSはデフォルトでブクマ非表示にするみたいなやり方はできるし、それは運営側の責任であり義務だ。
#MeeTooムーブメントとインターネット福祉
※今年起こった、はあちゅう(敬称略)と#MeeTooの話。何のことかわからない人は飛ばして読むことを推奨。
今まで語ってきた「インターネット福祉」は、「#MeeTooムーブメント」とものすごく相性が悪くて、それが今回のゴタゴタの一つの要因になっているという話をする。
そもそも、#MeeTooは、女性が顔出し実名でやるから、有名人がやるから、あるいは有名人が告発されるからこそ、ここまで大きなムーブメントになった。
「セクハラ親父死ね」とか「芸能界は性搾取の温床だよ」といったことは、匿名や半匿名のインターネットでは以前からいくらでも言われてきたこと。
#MeeTooは、それを言い出すのが難しかった人が実名顔出しで告発し、だからこそ力を持つといったものだ。告発に勇気がいるからこそ#MeeTooのタグが必要。そして日本のネットユーザーはなんだかんだインターネット福祉に馴染みきっているので、そこがよくわからないし受け入れられない。
上司が部下に「友達の女の子紹介してよ」と言う | Twitterで「誰か女の子紹介してくれ」とつぶやく |
職場や学校での「童貞いじり」 | ブログで童貞をネタにすること |
リスクと責任を負った立場での発言 | 不特定多数の一部としての発言 |
「これらは同じものなのか?」という問題に対して、僕の意見を言うなら「違う」という考えに賛同する。Twitterで自分のフォロワーに向けてであれば、童貞をいじろうと、ヤリマンと言おうと、エロ画像を流そうと、自由にできる世界のほうが良いと個人的には思っている。
ただ、これらを「同じものだ」とする考え方にも正しさはある。
インターネット福祉は、「無責任な匿名の立場だろうと、たとえどんな場所から発言しようと、言ったことの価値は等価」という2ちゃんねるの考え方が源流にある。だから対立するのだ。
「#MeeTooムーブメント」と「インターネット福祉」の考え方はコンフリクトするものであり、インターネット福祉大国である日本には#MeeTooが受け入れられにくい土壌がある。
今回の騒動では色々とぐちゃぐちゃになってしまっているけど、そこにはある程度の必然性があったと僕は思っている。だからはあちゅうやBuzzFeedがせっかくの#MeeTooを駄目にした、ということではない。「運動自体は支援したいけどはあちゅうのせいで……」みたいな非難のやり方がされるけど、そうやって安全な立ち位置から貶したりしようとする人が基本的には原因。
雑すぎて怒られるだろうけど、
#MeeTooムーブメント | インターネット福祉 |
はあちゅうなど顔出し実名の人 | 匿名や半匿名の集団 |
実名で被害者が加害者を告発するから価値がある | 誰の発言にも価値がある |
逃げられない人間関係でのハラスメントが問題 | どのような場所であれハラスメントは問題 |
という構図が大まかにあると思う。
どちらが正しいという問題ではなく、どちらにも一理ある。
もちろん、こういう二項対立で括れない様々な問題はあるだろうけど。
「#MeeTooという運動それ自体の是非」だって本来ならもっと議論されるべきことだと思うし。
はあちゅうにしても問題はあって、#MeeTooにインターネット福祉ブーストかけて相手を倒したけど、Amazonに低評価レビューつけられるなど同じやり口が自分に返ってきたりしてて、本当にごちゃごちゃしている。
もう少し時間が経ってから振り返るのがいいと思う。
匿名集団による批判のパフォーマンス
今回のはあちゅうの件は、匿名による攻撃の力が弱まっていることを明らかにしたのではないかと思ってる。
ネット炎上的なものはよく「何かを壊すことはできても作り上げることはできない」と言われるが、今回は、あれだけ集中砲火を受けてもはあちゅうは倒れなかったのだ。
これは、はあちゅうがめちゃくちゃ強いというのもあるし、はあちゅうを嫌う集団の攻撃力が低くなったというのもある。
5年前にこのレベルの炎上が起きていたら間違いなくはあちゅうは力尽きていた。
あるいは、力の働き方が変わったとも言える。顔と実名を出して「はあちゅうに男友達紹介させられました」とか「はあちゅうに紹介された身体を売りました」という人が出てきてもはあちゅうは消えていた。でも、安全な立場から「はあちゅうの童貞を馬鹿にするツイートを見て傷つきました」という人がいくらいてもはあちゅうは倒れない。
インターネット福祉的な炎上の火力は弱くなったのだ。
はあちゅうは「謝るのやっぱりやめた!私らしくなかった!」的なことを言って謝罪撤回したけど、それはそれで、はあちゅうのスタンスとしては全然間違ってない。「何のリスクも負わず集団で一人を攻撃してくるのは卑怯者の屑なので、そんな連中に謝って餌を与えることが社会に悪影響を与える」というのは一定の正当性がある。実際に数で責められたらどうしようもないし、中には普通に弁護士雇って訴訟したほうがいいような内容も多かったと思う。
はあちゅうは別に「無敵の人」ではなく、ちゃんとダメージを受けていて、それでもTwitterとかブログで活動し続けてるからマジで強い。そういう「強さ」に惹かれる人は多いだろうし、今回の件もなんだかんだではあちゅうの株は上がったと思う。
そして、はあちゅう擁護の記事をあげてから謝罪したヨッピー(敬称略)のほうが立場はおそらく危ない。ヨッピーは物申す系ではなくおもしろ系の人なんだけど、「はてな」のコミュニティで人気がある。だからこそ危険だ。
インターネット福祉は卓越を認めず、許容されるのは「底辺芸」と「いじめの音頭」だ。その傾向は構成員の程度が低くなるほど強くなる。
ヨッピー本人がそれを意図したわけではまったくないが、ヨッピーの「面白いコンテンツ」は、「頑張っても面白くなれない人を馬鹿にするための道具」として使われてきた。今回の謝罪も、「ヨッピーは謝ったのに、はあちゅうは、あるいは他の有名人は……」というふうに使われる。このような人気はヨッピーにとってもメリットのあるものではない。結局のところそういう働きは、最終的に「メッキが剥がれて完全につまらなくなったな」とか「頭悪いんだから一生おもしろネタやってればいいのに」などとヨッピーを貶すことでカタルシスを解消しようとする。
そういうのをうまく乗りこなせれば、かつての山本一郎のような闇の力の使い手になれるのだろうけど、はあちゅうにしてもヨッピーにしても、ちゃんとした自分のファンをたくさん抱えているわけだし、何かをポジティブな形に変えていける力を持っている人がその手のものに時間を使うのはもったいない。
はてなブログを使ってるヨッピーも、今回の件で「もうコイツら無理だわ……」と思ってる可能性がある。
「謝ったら死ぬ病気の人」や「政治家の誠実さ」というのは、再帰的な問題でもある。「批判」は誠意を見せるに値する人間がやらなければ力を持たない。
自分のことを徹底的に否定してくる人間に対して良いパフォーマンスを返すことはできないだろう。
しかし、生活保護を叩いても何も解決しないとわかっている人でも、むやみに政治家や経営者を叩いたりしてしまう。
おそらく、生活保護を叩く人も、政治家を叩く人も、何かを良くしようと思ってそうしているのではなく、「叩いてしまう」のだと思う。つまり、そこに戦いがあるというよりは、合成の誤謬のようなものに近い。だからこそ「ひろいこころ」が大事なのだ。
ブレヒトの詩もう一回載せとこうかな。
きみたち、ぼくたちが沈没し去る高潮から
うかびあがってくるだろうきみたち、
思え
ぼくたちの弱さをいうときに
この時代の暗さをも、
きみたちがまぬかれた暗さをも。
事実ぼくたちは、靴よりもしばしば国をはきかえて
絶望的に、階級間のたたかいをくぐっていったのだ
不正のみあって、怒りが影をひそめていたときに。
とはいえ、ぼくたちは知っている
憎しみは、下劣なものにたいするそれですら
顔をゆがめることを。
怒りは、不正にたいするそれですら
声をきたなくすることを。ああ、ぼくたちは
友愛の地を準備しようとしたぼくたち自身は
友愛をしめせはしなかった。
しかしきみたち、いつの日かついに
人と人とが手を差し伸べあうときに
思え、ぼくたちを
ひろいこころで。
(ベルトルト・ブレヒト あとから生まれるひとびとに)
叩いてしまうのは仕方ない。誰かを攻撃して排除したいという欲望は人間に埋め込まれている。だからこそ言葉を尽くすことが必要になる。短いフレーズで批判しだすと、自分の大切な主張と誰かを攻撃する快感が混ざりあってしまう。
インターネット福祉事業の行く末
ニコ動やはあちゅうの話など長々と書いてきたが、結論を一言で言うなら、これからは「ユーザー数ではなくユーザー層」が大事という傾向がますます強まり「何を言ったかよりも誰かが言ったか」になっていくということ。
混沌とした時代は、誰が客かわからなかったので、全員に向けて料理をふるまっていた。その場の構成員もそれが当たり前のことだと思っていた。
これからは、金を払ってくれる人に向けて料理を出すのが当たり前になる。
自分を批判してくる人ではなく、自分を応援してくれる人のために何かをやるという、当たり前のことが当たり前に行われるようになった。当たり前のことが面白いとは限らないが、とにかくそうなってしまったのだ。
大勢に見られるよりも良客を捕まえればいい。古いインターネットおじさんはいまだに「カネ目当ての炎上芸」みたいなインターネット観を持っているのかもしれない(はあちゅうにさえそう言っている人がいた)けど、今は炎上芸なんてやってもデメリットのほうが大きい。イケハヤは炎上しなくなったけど今のほうが(たぶん)稼いでる。
批判や検証に晒されるのは大事なことだけど、それを担う場所や集団に価値がなければ、そんなものは見向きもされない。文句しか言えない集団には「関わろうとせず無関心であること」が一番良い選択だからだ。
弱者と強者がひっくり返るパラレルワールドがもたらすのは、さらなる格差と分断だ。
今は「Twitter」や「はてな」で盛り上がるような批判は、まだそれなりのポジションにいる人にも届き得るのだけど、それがだんだん「まとめサイト」と同じレベルの「無視してもいいもの」になっていく。
5年ほど前の「ニコニコ動画」では、ゲームとは関係ない自分たちの旅行のDVDを販売したゲーム実況者が、「人の作品にタダ乗りしている実況者が人気を金に変えるとは何事だ!」と大炎上した。その頃のニコ動ユーザーは面倒くさかったが、そういう人達と向き合うだけのメリットがニコ動という場にあった。
かつての「はてなブックマーク」も、怖くて影響力のある人に突っ込まれるかもしれない代わりに、シェアが伸びて色んな層にリーチする可能性のあるサービスだった。
「インターネット福祉」は、厄介であったと同時に影響力もあったのだ。
日本の大衆的なインターネットは、2ちゃんねる(厄介な匿名集団)という、巨大な福祉として誕生した。その熱は、様々なものを生み出しながらも、ゆっくり冷め続けていく。その速度はゆるやかだし、生まれたものは何らかの形で受け継がれていくのだろうけど、大局を見れば影響力は弱まり続けている。
今年はそれを実感した年だったし、潮目になるものがいくつか見られた。
今後のブログについて
※ここからはあくまで個人的なこと。
最後まで読んでくれた方はありがとうございました。
このブログ始めてちょうど4周年になる。自分でブログを書いていて、ROM専ではわからない色んなことを学んだ。
僕もインターネット福祉に乗っかってわりとめちゃくちゃ書いてきたけど、「はてな」のインターネットおじさんにも比較的優しめに迎え入れられて、なんだかんだで恵まれた立場にいたような気がする。そういう意味で、「はてな」という場所には基本的に感謝している。
今回の記事を読んで、僕が匿名批判マンに否定的な印象を受けるかもしれないけど、その手のインターネットにかなり好意的なほうだと自分では思ってる。またインターネット福祉事業をやってみたいという気持ちも、まったくないわけではない。
ただ、少なくともこれからはしばらくは、インターネット福祉的なものとはまったく別の方向を目指したいというのがある。
現実で何かしらのポジションを目指すことは、インターネットで弱くなろうとすることでもある。
もうブログを書くモチベーションもほとんどないんだけど、ここで投げ出すのも何か敗けた気がするので、来年からも続けるつもり。
初心に返り、何かの修行だと思ってシェアボタンはずして淡々とやるかな。
今後、TwitterやFacebookなどのシェアは大歓迎だけど、はてブはなるべくしないでくれるとありがたいです。
それではみなさま、よいお年を。