「ユーザーのニーズ」というやつに逆らうことはできない。
目的を鮮やかに達成するための技術を磨き続けたプログラマーが、写真加工で自己愛を満たすバカ用のアプリ制作に従事しなければならないこんな時代。
このままユーザーのニーズを追求し続けた果てに、一体何があるのだろうか?
大衆化がますます進行している
「大衆」という言葉は、社会科学などでは、「どこにも帰属意識を持たない無責任な集団」みたいな、わりとネガティブなニュアンスで使われる。マスメディアやデマゴーグに踊らされる人達という意味。
もともと人間は、地域単位、共同体単位、家族単位で物事を考えて決定していた。個人がバラバラに切り離されて、「群」として思考できなくなった集団が大衆。
スマホによって大衆化はさらに一段階進んだと言える。家族がテレビの前に集まる形ではなく、個々人がスマホで情報を享受するようになった。
インターネットという場所も、かつては一部の人がアクセスするような場所だったのが、スマホが普及してからはガチの大衆たちがなだれ込んできたし、これからますますそういう人達を基準にサービスが作られるようになる。
文化的なものをつくるには仕組みや利権が必要
いいコンテンツは、そこがある種「不当に恵まれている場所」だからこそ産まれてくるという側面がある。
テレビが報道に対する倫理観を持っているのも、それが電波利権に乗っかっていることと対になっている。
だから、情報発信の手段が万人に行き渡った後に、情報の信頼性をマスメディアだけに求めるのは酷かもしれない。逆に言えば、「マスメディアなのに……」という批判のされ方をするうちは、まだマスコミが影響力を失っていないということでもある。
何が言いたいかと言うと、規制を取っ払っていけば環境が良くなるわけでは必ずしも無いということ。
「ちゃんとしたもの」は、不均衡に力を持っているところでないと作るのが難しい。これからはテレビ局や新聞社などのマスメディアに代わって、Google、Amazon、Netflixなどの企業がその手のものを担っていくかもしれない。
ルール無用だと逆につまらなくなる
「何でもあり」のバトルが面白いのは漫画や映画の世界だけ!
現実で「目突き・金的ありの喧嘩」みたいなことをやっても、短期的には注目されても、あまり面白いものにはならないと思う。
ルールやレギュレーションがあるからこそ洗練されていく。
例えば、サッカーのルールで「相手を殴る」がありになったとして、それがつまらないものになることは必然だ。
サッカーの実力とか関係なく強い格闘家を集めてチームを組むわけのわからない試合になる。だからと言って、それがルールで認められている以上は、サッカー上手なやつじゃなくて喧嘩強いやつをチームに入れざるを得ない、みたいなこと。
スポーツは極端な例だが、Web漫画なんかで言えば、「とにかく目を惹いてクリックされやすいもの」になる。
「もう二度とウンコできないねえ」とか。
前書いたやつ↓
今の覇権であるYouTuberにしても、賑わってる故の面白さは確実にあるんだけど、個別に取り出してそこまで良いコンテンツが産まれてきているのかと言えば、まだよくわからない。
サムネ見ると動画再生したくなるし、気安く短時間で楽しめるんだけど、「ポテトチップスが美味しい」みたいな面白さで、後から思い出して「あれすげー面白かったな」とはならない。ものにもよるけど、個人的にはテレビ番組とかのほうがまだ見ていて面白いと感じる。
あと、代表的でYouTuberはヒカキン、はじめしゃちょー、フィッシャーズなど健全な人達のイメージだが、基本的にYouTubeは過激なDQN系の動画が受ける傾向にある。これは黎明期から今でもずっとそう。先行者利益の無いそこそこのやつがニッチジャンル以外でやっていこうと思うなら、過激にならざるを得ないところがある。
YouTube界隈はわりと「何でもあり」に近い戦いだと思うけど、そういう状況で勝ち続けているヒカキンみたいな存在って何気に前例が無いので、これからどうなっていくのかが気になる。
ちなみにテレビとYouTubeはルールが違って、テレビは「出演し続ければ勝ち」というゲーム。これは映画とか漫画雑誌とか企業の要職なんかもそうなんだけど、保護された場はそこに居続けることが勝利条件。そういう仕組みだからこそ無理に過激なことしなくてもよかったりする。弊害もあるけど。
テレビは終わってネットの時代が来るといったことがけっこう前から言われ続けてきたけど、まだ当分はテレビが役割を終えたということになりそうにない。過激なことしなくてもいい場所みたいなものはパフォーマンスを発揮するのだと思う。
ユーザーのニーズを追求した果てに何があるのか?
今までは「選択肢は限られるけどそれなりに質を保証したものを見せてやる」って感じだったのに、そういう利権が解体されていって、ユーザーそれぞれが好きなものを探すようになった。そうなると、水が低く流れていくみたいに、コンテンツもより過激で即物的なものが溢れるようになる。
今よりさらに色んな規制や仕組みや場所が解体されていって、水が低きに流れきった後、人間は一体どのようなものを求めるのか、というのは気になるよね。
まあ個々のクリエイターがニーズを考えながら作っているわけでは必ずしも無いし、ユーザーを教育してしまうような天才が産まれてくることもあるから、あんまり均質になる未来は想像できないかな。
この記事の本題は「ユーザーのニーズを追求した果てに何があるのか?」だったので、いくつか可能性をパターン分けしてみた。
①ユーザーのニーズには果てがない
人間は満足することなく常に新しいものを求めるし、需要も供給もカンストすることはあり得ず、仕事がなくなることもない。こういう考え方をしている人はけっこう多いように思う。
あと、そもそも「始まりがあって終わりがある」という捉え方が間違っている説。
思潮とか流行にはサイクル性があるので、ぐるぐる回るだけかもしれない。パリピ系が流行った後はちょっと内省的なやつがブームになる、みたいな感じで。
②ユーザーのニーズが否定される
自由化がどこかで止まって、個人が欲求を追求することの否定が始まる。規制が厳しくなって、共同体や規範の働きがより強くなる。
「もう自由とか無理!」みたいな流れは、ブレグジットとかトランプ大統領とか、ヨーロッパ諸国での右寄り政党の台頭とか、近年のトレンドでもある。これも可能性としては十分にありそう。
③何かしら壊滅的な事態に行き着く
先進国は軒並み少子化が進んでいる。出生率の高い国でも移民がそれを押し上げてたりする。
どうやら、人間には「教育と娯楽が行き渡り個人の望みを追求しやすくなると少子化が進む」という仕組みがあるらしく、これはいま人類が直面している最も難しい問題の一つだと思う。少子化が進むと文明が存続できない以上、どこかでぶり返しが起こるか、もしくは崩壊してしまうかだ。
②が起こりそうなのは、こういう背景もある。
④何らかの解決策がある
ユーザーのニーズを果てしなく追求しながらも、②や③にならないような解決策がもたらされる。人類が進歩してみんながハッピー!
「出生率を増やす方向に働き、個々人に自尊心を与えてくれ、共同体のような強制力が働かず、宗教と違い相対的にそれ自身について考えることができる」みたいな何かが発明されればイケる!
現実的には、色々と妥協しながらもそれなりに無理のない解決策を……となるのだろうけど、そういう何かが今後産まれてくるかもしれない。
以上。
まあ、大多数の人が必死になって考えてるのは、今後数年スパンでの「ユーザーのニーズ」だろう。それがわかれば一発当てて大儲けできるかもしれない。
「ある現象をそのまま敷衍して何が起こるのかを考えていくことが大事なんや!」みたいなことを誰かが言ってた。実利はないだろうけど、たまにはこういうのもいいんじゃないでしょうか。