今年初めて感じた夏は、夜に窓を開け放ったとき、雨の匂いと同時に来る暑さだった。
夏の予感……湿度と熱気の混じった、予想外に厚ぼったい肌触りの空気が、そのままぼんやりとした夏の暑さにつながっている気がした。
夏は思い起こされがちな季節だ。
記憶をたどろうとするときのピントのゆがみが、かげろうのような夏の空気と同じ歪度をしているからかもしれない。
昼夜を跨いでも、暑さの境界は曖昧で、そのゆらめきの中に夏のにおいがある。
年齢を重ねるほどに、季節に感じるものが趣深くなっていくのは、それが移ろい、繰り返されるものだからだろうか。
「枕草子」の冒頭でも四季が綴られ、清少納言が夏に見た「をかし」は夜と雨だった。
夏は夜。
月のころはさらなり、やみもなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。
雨など降るもをかし。
月と蛍の明かりが電灯に押し込められてしまっても、当時と今の世界が通じていることを、たしかに感じることができる。
移り変わるからこそある日本の夏について、僕が思う最高の表現の一つは、井上陽水の「少年時代」だ。
夏が過ぎ 風あざみ
誰のあこがれに さまよう
青空に残された 私の心は夏模様
歌詞の意味は、考えるほどよくわからない。
それでも、思うことと時がめぐることの茫漠とした距離が、ひとつひとつの言葉の行間にある。
僕たちが夏に感じる思いの多くは、その季節を謳いあげた先人の贈り物でもある。
しかし、そのような感慨を持つこと自体、それだけ歳をとってしまったということなのだろう。夏を美しくするのは予感と思い出で、渦中にいればきっと暑さを呪ってしまう。
期待と懐古に思いを込めたくなる気持ちは理解できる。
人生を経験するほどに、わかってしまうから。
やろうと思っていたことは、思ったとおりにはやれないということ。
それでも、自分にはやりたいことがあって、なんだかんだ、渦中にとびこんでいかざるを得ないみたいだ。
個人的なことなのだけど、これからの数ヶ月は、僕の人生の岐路になりそうな予感がしている。
思い出に悔いは残したくないね。