中学の修学旅行のときに、同じ部屋の、お目目がぱっちりした同級生にこっそり打ち明けられたことがある。彼は僕に顔を寄せてカバンからあるものを取り出した。
アポロチョコレートだった。
彼は、「自分のお菓子」を持ってるって、なんかよくない? みたいなことを言っていた気がする。格闘ゲームなんかでいう「使い手」のお菓子バーションだろうか。好きなお菓子、というだけではなく、まさにこれこそが自分のお菓子であり、自分の生活はこのお菓子とともにあるのだ、という感覚。
こっそり打ち明けずに堂々と食えよ、とも思ったが、僕の中学はお菓子持ってきただけで職員室に呼び出されて怒られるヤバイところだったから、アポロチョコボーイがおどおどするもの無理はない。
そして僕はそのとき、「たしかに自分のお菓子って響きはなかなかいいね!」と思った。
僕はお菓子が好きで、好きなお菓子がたくさんある。しかし、「自分のお菓子」はこれだ、と言えるものは、まだ決めきれていない。
明治製菓の「CHELSEA(チェルシー)」は、その筆頭候補の一つだろう。バターの含有量を多くして、高温で煮詰めたスカッチキャンデーだ。
今回はチェルシーの魅力について語っていきたい。
何より、オシャレであることだ。外箱のデザインも、箱の形の薄さや手触りも、キャンディーの包み紙も、こだわりが感じられる。
手持ちのチェルシーの箱。薄いからカバンやスーツのポケットにも入れやすい。
中身が減ると外側からハートマークが覗く仕組みに。ハート以外のマークもある。
箱を開けた感じも、包み紙もオシャレだ。
ウェブサイトも手が込んでいる。やはりパッケージデザインにはこだわりがあるようで、壁紙ダウンロードもできる。
一粒10円かそこらの大衆のキャンデーなのだが、味には独特の深みと品格がある。
チェルシーは1971年から販売されていて、その歴史に裏打ちされた格式があるからこそ、大衆的な気安さと品の良さが同時に成り立つのかもしれない。
ヨーグルト味やコーヒー味も、代替の効かないオリジナリティがあってなかなか良いのだけど、バター味は正直言って別格だと思う。オシャレな包みに収まる小さな粒に、バターの幸福感をできるかぎり詰め込んだという味がする。
食べたことがない人は、バタースカッチだけでいいから一度口の中に入れてみてほしい。
ここまでオシャレオシャレと行ってきたが、僕は食べ物の外見とかにそれほどこだわる人間ではない。食べる前の料理をいちいち写真に撮ってSNSに投稿なんてしてたら、美味いものも不味くなりそうだ。
しかしキャンデーに限っては、オシャレであることが必要だというのが、僕の持論だ。
キャンデーは、一度に食べてしまえるものでもないし、間断なく口に入れておいしいというものでもない。長い時間、長い期間にわたって消費するものだ。
思いついたときに包みを開けて口に入れる。その瞬間と、それまでの所作が、キャンデーという食べ物の魅力なのだ。
そういえば、「大切なひとにわけてあげたい」というのがチェルシーのキャッチコピーだった。
誰かに飴を渡すという行為には、その粒に含まれる糖分よりずっとたくさんの甘美があるのかもしれない。
女の子と一緒にいて、どうしても所在なくなってしまうことがある。
甘さという、小さな幸せの手を借りなければいけない時間が、男女の間にはあるのだ。
そういうときに、思いついたように取り出して渡すものは、やはり洒落ていなければならないのではないだろうか。
だから、キャンデーにとってオシャレであることは大切なことなのだ。
しかし、なんというか、そのような機会が僕の人生の中で今まで一度もなかったことが問題なのである。
よって、チェルシーを「自分のお菓子」と言ってしまうことは、現状はできない。「つぶグミ」や「しるこサンド」等の筆頭候補お菓子と比べて、そこまで飛び抜けた影響力を持っているかと言えば、必ずしもそうは言えないからだ。悲しいなあ。