最近、若い大学生達が「ブログってダサいから俺たちはメディアクリエイターを名乗ろうぜ」と言い出したことで一騒動起きました。
ネタとかではなく真面目にメディアクリエイターを名乗ろうとするセンスは理解しかねるのですが、下の世代の考えてることがわからないってこういう感覚なのでしょうか?
自称メディアクリエイターの方々のブログを読みましたが、彼らは、今ある枠組みの中で自分をどう位置づけてどう承認されたいか以外のことを書いてないように見えました。何かについて語りたいからブログをやってるのではなく、どういうふうに自分をプレゼンして信者(=餌)を増やしていくか、というゲームをプレイしていて、内容もそのゲームの攻略法(方法論)みたいなことばかりです。
彼らのメインコンテンツは「僕が私が」であって、何かの対象を語るためにブログではなさそうなのです。
そういう人達を見て、「何かの対象を語る」ための共通の基盤のようなものが崩壊しているのだろうな、と感じます。
別に何かを語れなくなったわけではないし、むしろ誰もがSNSで気軽に発言できるようになりました。ただ僕が危惧しているのは、対象についての語りがプレゼンスを持てなくなり、その代わりに「僕が私が」の力が強くなりすぎてしまっていることです。
古市憲寿、北条かや、鈴木涼美など、最近テレビやマスメディアでよく見る若手学者(というより若者学者)みたいな人達は、その例としてわかりやすいと思います。

- 作者: 古市憲寿
- 出版社/メーカー: 講談社
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古市憲寿の「絶望の国の幸福な若者たち」を読みました。学者が書くものとして稚拙とか誤った内容とか以前に、そもそも著者は世代間格差や幸福という問題を真面目に研究したいとは思っていないのでしょう。
彼にあるのは、自分を評価する力を持っている人達に自分がどう位置づけられるか、ということです。それはそれで賢い態度であって、権力に擦り寄るのがうまい人はどこに行ってもそこそこ成功すると思います。
「学者」という肩書を積極的に利用しながら、力のある人にとって都合の良い自分を打ち出していくやり方。それが有効な社会で、それをやる若い人がいることは別におかしなことではない。でも真っ当な学者がそれに手を貸してしまったらおしまいでしょう。古市憲寿に問題があるというわけではなく、古市憲寿が掬い上げられるシステムに問題があるわけだから。
学問は本来、「僕が私が」以前に、「僕はこう思う」からも距離をとる必要があるものです。
しかし、学者として真面目な態度はどんどん報われないものになってきているのかもしれません。ブログなんかを書いているとわかることですが、自分が言おうとしてることの検証に手間をかければかけるほど採算がとれなくなっていきます。(だから真っ当な学問とか基礎研究って、すぐに役に立たないうえにものすごく労力がかかるものなんですよね。)
「対象を語る」試みである学問は、実証に対して誠実になればなるほど報われず、一方で肩書だけを利用する人達がポジションを得るみたいなことが起こり始めています。(別にテレビに出てるから成功してると言いたいわけではないです。教授職などのポストを争う場合でも、結果を強調して過程をごまかすみたいなことは起こるでしょう。)
細分化と専門家が進み、「学問」自体が一つにまとまって何らかの価値を示すことができなくなった結果かもしれません。
対象に向き合う姿勢がプレゼンスを得るためには、その価値への広い合意が必要で、そのための土台が脆くなってきたのだと思います。今までは、学問だったり、政治だったり、共同体だったり、マスメディアだったりが、それなりに共通の土台を提供できていました。
興味関心が細分化した現在、「自分自身」の他に共通項になるものがなくなってしまったのかもしれません。だから今一番力を持っているのは、自己啓発みたいな自分自身に作用してくるものです。それが、少し不安になるくらい強くなっているように思います。
もちろん、人間にとって一番興味があるものは今も昔も「自分自身」です。対象に向き合うことだって自分を表現する手段なわけです。小林秀雄は「批評するとは自己を語る事である、他人の作品をダシに使つて自己を語る事である」とはっきり言ってますね。
ただ、何の対象も介さずに、「僕が私が」だけでぐるぐるまわるようになると、ネズミ講的な権力ゲームとありきたりな枠組みの流用くらいしかできなくて、どんどん頭悪くなってくと思います。
つまり、「あなた達は◯◯だけど僕達は◯◯なんです!」とか「君だって僕みたいに◯◯になれる!」とか「◯◯すると損だから◯◯すべき!」みたいなものしかなくなってくるんですよね。どういうスタンスをとるかと、どれだけフォロワーを獲得するかみたいな競争になってくる。
その反対にあったのが、案外、2ちゃんねるのような匿名コミュニティだったのかもしれません。ネットが大衆のものになった初期に花開いた匿名文化は、だんだんプレゼンスを失っていって、今や見る影もないくらいです。それも当然と言えば当然で、自分の発言に何の責任を負わず、他人の批判ばかりしているような人達にみんなうんざりしてきたのでしょう。
僕も、匿名文化の無責任なところは嫌いだったし、自分のブログに適当ないちゃもんつけてくる人とかは気にしないようにすればいいと思っていたし、実際にそうしてきました。同じような態度の人が増えたのだと思います。ネットで叩かれるって別に大したことじゃないということに多くの人が気づいてしまったのです。
しかし、どうやら、その先に待っている世界はそれほど素晴らしいものでもないようです。匿名の力が弱くなるとウェイ化が進んで、フェイスブックのコメント欄みたいな内容のブログが増えていきます。
一応、「はてな」にも触れておきます。(このブログは「はてなブログ」というサービスを使っています。)
上場おめでとうございます。この場を借りてお祝い申し上げます。
「はてな」という場にも独特のコミュニティがあるのだけど、そこには「ウォッチャー」が評価される文化がかつてはありました。それも2chの衰退と似ていて、自己主張はあまりしないけど面白いものを見つけてきてくれるウォッチャーがいなくなり、ウェイが段々増えてきました。
自分は何もしないくせに批判ばかりする奴ってわかりやすいクズではあるのだけど、匿名批評ニキが消えた世界も、それはそれでディストピアだと思うんですよね。
老害みたいな考え方かもしれませんが、マスメディアの裏側にあった匿名文化は、それなりに重要なものを担っていたとも思います。匿名で批判する人達が力を持つのもよくないけど、その反対に行きすぎると「大多数を怒らせても一部の信者を獲得できればいい」みたいな考え方になってしまうと思うのです。
「僕が私が」が何よりも強く、他に対抗できるものがなければ、与沢翼とかホリエモンとかちきりんとかイケハヤとかはあちゅうとか、それよりもっと酷いのとかが色々出てきて、信者を引き連れるようになっていく。
岡田斗司夫が言ってる未来像ってこんな感じなのかもしれませんね。
ただ、そういう世界が、メディアクリエイターを名乗る若い人達のリアリティだったりするのかもしれません。色んなものが整備されすぎていて、何をやるにもゲームのステータスの振り分けみたいになってしまう。権力との距離の取り方で自分を考えるしかない。ワクワクするような新しい領域とか、自分たちの新しい分野を切り拓いていこうみたいな考え方すら、ありきたりな枠組みの一つになってしまっている……。
それはすごくわかります。でも、「僕が私が」でやっていくのも、色んなものに配慮しているように見えて、結局は他者性に欠けたあり方だと思うんですよね。
2ちゃん的な匿名文化が良かったと言う気はまったく無いのですが、それがなくなることによって困ることもあると思います。
もちろん2ちゃんを復活させたいなんて考えてません。あれはあれでもう終わってしまったものですが、しかし、それに変わる何かは必要だと感じます。僕は、これからのネットを考えるうえで、いかに共通項を作り出せるか、いかに対象について語ることが力を持つような場所を作っていけるかが重要になってくると思っています。
……!!
ということはつまりメディアをクリエイトする必要があるということで、僕も積極的にメディアクリエイターを名乗っていくべきなのでしょうか?
よくわからなくなってしまいましたが、今後のネットには何が必要なのかという問題については、また機会を改めて書きたいと思います。