大好きなゲームだ。初めてやったのは初期の64版、すでにゲームキューブは発売されていた。友達の家でスマブラDXをして遊んだ後に、どういう経緯だか覚えていないがソフトを借りてきた。
家に帰ってゲームをやると、すぐに引き込まれてしまった。発売されていたゲームキューブ版の「どうぶつの森+」を自分で買った。その後に出たものも、計6作品、全部やっている。
「とびだせどうぶつの森」が発売されたのは2012年の11月だが、その売れ方は凄まじいものがあった。「とび森」がこれほど流行したのは、前作までの人気を考えると無理もないことだった。前作よりさらにクオリティーがよくなっている。できることの幅が広がり、通信プレイも快適になった。自分の村を自由にデザインして友達を招待したり一緒に遊んだりできる。楽しくないはずがない。電車に乗ると必ず誰かが3DSを開いていた。キャンパスでもたくさん大学生がどうぶつの森をやっていた。大学に来てまで何やってんだよ、と思ったが僕の手元にもあった。ある友人が、「みんな疲れてるんだよ」と言った。
たしかに、そういう点がないわけではない。逃避先としてどうぶつの森を選ぶというのは、間違っていないことだと思う。僕もふと気づけば「とび森」をやっているときがある。(この記事を書こうと思い立ってからも、ずいぶん「とび森」で遊んでしまった)
ただ、逃避としてではなくとも、僕はどうぶつの森が大好きだったはずだ。エリアを移動するたびにカメラが動く、通信プレイもできない、初期の64版や、すぐ移植されたゲームキューブ版の「どうぶつの森+」に、どうしてあれほど惹かれたのだろうか。
ゲームの中に緩やかな空気を表現するというのは、なかなかできないことだと思う。前回の「ICO」や「ワンダと巨像」で述べたように、ゲームはその成り立ちからして、円滑な手続きと速度を求める。ICOやワンダは、ある種逆説的な形で、現実に近い時間の遅さを表現している。それに比べてどうぶつの森は、直接的な方法、現実の時間とゲームの時間をリンクさせることによって、緩やかで冗長な時間を表現している。そして嬉しいことに、そのゆったりとした時間そのものが楽しいのだ。
ただ、正体がつかめない。プレイをしている自分自身、どうしてこれほどまで楽しいのか、はっきりとした理由がわからない。確信が持てない。
明確な目的というものがない。借金を返すにしても、それがメインではない。家具や虫や魚をコンプリートするという要素も、それを目的としてつくられているわけではない。(むしろ家具なんかはあえてコンプリートさせないような仕組みになっている)村の住民との会話も、それがメインという感じのつくりこみはない。多くの選択肢とか、密なやりとりとか、恋愛とか執着とか、そういう部分に頼ってはいない。好きなように部屋をデザインできるが、それが本質的な部分とも思えない。例えばマインクラフトのように、建物から地形まで自分の好きなように組み替えられるゲームとは程遠い。自由度も、大規模な洋ゲーなどに比べると、それほど選択肢があるわけでもない。
ただ、季節が巡っていくという、時間が流れていくという感覚、自分だけの確かな喜びのようなもの、何もしなくても、そこにゲームとしての楽しさを感じられる独特の味わいは、どうぶつの森にしかない。
一体どのようにして、このようなゲームが作られるに至ったのだろうか。僕はゲーム開発者のインタビューとか対談が好きなのだが、特にどうぶつの森について語った「ゲームセミナー 2008 社長が訊く『どうぶつの森』」にはちょっとした衝撃を受けた。どうぶつの森開発者の江口勝也さん、野上恒さんに、社長の岩田聡さんがインタビューをする。どうぶつの森が、どんなきっかけで、どのようにして作り始めたのかが語られている。
リンク先
(http://www.nintendo.co.jp/etc/seminar2008/doubutsu/index.html)
どうぶつの森は、もともとは任天堂64DD用のソフトとして開発された。64DDは、当時としては大容量のデータを保存できるものだったが、後に発売中止になる。企画段階のどうぶつの森は、拡張されるメモリを使い、複数のプレイヤーが時間をずらしてリレー方式で巨大な世界を共に冒険する、といったものだった。その動機には、「親としての罪滅ぼしの気持ち」がある。当時、開発者には、仕事が忙しくて家に帰るのは夜遅くになり、家族とゲームを遊べないという事情があった。
岩田
どうして時間をずらしたあそびにしようと思ったんですか?
江口
当時は仕事がとても忙しくて、
自分自身が家族といっしょに
ゲームを遊べなかったんです。
岩田
家に帰っても子どもは先に寝てるんですね。
とくに開発の山場がくると、
子どもといっしょに遊ぶなんてとてもじゃない、
ということが、ゲーム開発者にはときどきあります。
江口
子どもと一緒にゲームをすれば
楽しいことがわかっていても、
自分がそれをできないのが寂しかったんですね。
だったら、自分と同じような環境の人でも、
お母さんや子どもが遊んだあとに、
遅い時間に帰ってきて遊ぶことで
何かが重なりあうようなものができないだろうかと、
そう考えたのが、発想の最初にありました。
昼間子供がゲームを進めておいたヒントを元に、時間差を経てコニュニケーションを取りつつ、共にゲームを進めていくというコンセプトだった。企画段階では、春夏秋冬を表す広大な島があって、それぞれの島には細かいダンジョンがあった。たぬきちのような動物たちは従える対象で、もともとは4足歩行で登場する予定だった。(笑)
64DDという当初の計画が頓挫し、それでもなんとかゲームを出そうということになる。時間差でコニュニケーションを取るというアイデアは、もともと64にあった時計機能と連動して現実の時間そのものになった。四季をかたどった島は、そのまま時間の経過による季節の移り変わりに押し込められ、フィールドは容量の関係から一つの狭い村になった。仲間にする動物たちは二足歩行になり、おしゃべりをする相手になった。
罪滅ぼしという、もともとの目的は達していると思う。どうぶつの森は1つの村に4つ家のデータをつくることができる。僕は弟と両親の4人家族なので、全員の分のデータを作った。僕の両親は仕事が忙しいのもあってゲームをプレイすることはなく、結局親のデータも自分が進めていたような気がするけど。
「ねえ!お父さんのぶんの借金も返しといたよ!(^^)」
「お、おう(^_^;)」
……みたいなやりとりを交わした記憶がある。時間帯によってできることが違うというのは、コニュニケーションのためのシステムなのだ。一人ひとりの生活の流れと、どうぶつの森の時間が結びついているという、根本的なアイデア。
岩田
ただ、最初に考えていた大事なことは、
実はずっと変わらなかったんですよね。
江口
はい。やっぱり人と人とが絡むための
フィールドをつくるということに関しては、
最初から一貫して考えていたことですので。
野上
そこで、人と人とが絡んで、
コミュニケーションにつながるようにするために
プレイヤーごとに差が生まれるようにしようと。
そもそも時間差で遊ぶゲームですし。
岩田
それまでのゲームだと
指先が器用な人が上手だったり、
運良く強いアイテムを取れた人が
効率よく先に進んだり、
そこで差が生まれるということがあっても
遊ぶ時間で差が生まれるというようなことは
わりと少なかったと思うんです。
野上
遊ぶ時間で差が生まれるように、
お店の商品を誰かが買って、売り切れてしまうと、
次に来た人はもう手に入らないようにしました。
岩田
ゲームの世界で
ある人が商品を買ったら、
もう別の人は買えないというのは
あまり例のないパターンですよね。
1個しか売ってない商品というのはありましたけど。
江口
でも、その場合でも
後から遊ぶ人のために補充されたりしましたからね。
野上
だから、遊んだ人からは
怒られないかなあと心配もしたんですけど、
逆にそれがコミュニケーションの
キッカケになると思ったんです。
「お父さんが買ったあれ、わたしにちょうだい」
と、子どもから言われたりすることも
起こると思ったんですね。
それに、ムシやサカナは後から追加したものなんですけど、
捕れるムシや釣れるサカナは時間帯によって違うので、
お父さんが夜遅く遊んでも・・・
岩田
夜にだけ釣れるすごいサカナもいると。
野上
夜遅く遊ぶとたぬきちの店が閉まってるので、
寂しい思いをするんですけど、
すごいサカナを釣れば
子どもから尊敬されるんじゃないかと。
(略)
岩田
宮本さんが当時、言ってました。
「ゲームのようなことをだらだら遊ぶあそびなんだよ」と。
「だらだら」という形容詞がついてるのが
すごく新鮮だなあと思ったんですけど、
どちらかと言うとゲームは
一生懸命にやるものでしょう?
野上
僕自身、結婚してから感じるようになったんですけど、
家のなかで、そんなに一生懸命
ゲームをやってられないんですよね。
岩田
帰りが早いとは言えないのに、
帰ってゲームで遊んでいたら
何を言われるかわかりませんからね。
わたしも人ごとじゃありませんし(笑)。
野上
なので、一生懸命やらなくても、
ちょっと空いた時間に遊んで、すぐやめて、
それで満足できるようなゲームをつくりたいというのが
当時のテーマでもあったんですね。
江口
そうですね。
だから、だらだら遊んでいると
やることがなくなるようにしたんです。
お店に行っても商品は売り切れてるし。
野上
遅くなると閉まっちゃうし。
江口
夜も遅いし、もうそろそろ寝たらと。
で、また明日も遊んでねと。
岩田
ふつうのゲームは
やめさせないようにつくるんですけどね(笑)。
すごく好きなインタビューだった。どうぶつの森のようなゲームを、やっぱり、家庭を抱えたおっさんが作っているということ。そういう事実には、なにか希望があるような気がしてくる。
ここまでの人気ソフトになったのは、偶然に助けられた部分が大きいのかもしれない。ただ、そこから遡った元の部分には、ちょっとした祈りのようなものがある。
リセットをすると変なもぐらが出てくるし、島を渡るたびにカッペイの歌を聴かされる。不自由な作りにして制限を加えている。円滑であるはずの手続きを遅らせている。快適な部分をわざとなくしている。ハマらせるような仕組みをつくるのは、ゲームを作る上では基本だし、簡単だ。ソーシャルゲームなんかを見ていればそれがわかる。どうぶつの森は、こうすればゲーム的に面白くなりそう、といった部分からあえて一歩身を引いている。それは「親としての罪滅ぼし」から始まった愛情が行き着いたところなのかもしれない。いくらゲームが好きな親だって、子供に寝食を忘れるほどゲームにハマり込んでほしくはないだろう。
江口
遊んでる人たちの情景は
できるだけ想像するようにしていますね。たとえば
どんな環境で、
どんな場所で、
どんな人たちと、
どんな時間に遊んでいるのか、とか。
僕はどんなふうにどうぶつの森をプレイしていただろうか? 家にいながら、化石やはにわを掘り起こし、木を揺らしてフルーツを採った。子供ながらに、自分だけの家を持ってあれこれコーディネートをためした。クーラーの効いた部屋でアイスを食べながら虫取りや魚釣りをしていた。こたつで蜜柑を食べながら、雪だるまをつくったりかまくらに入ったりした。現実とゲームの間に、たまらなく幸せな時間があった。
ゲームの中だけで完結しない時間の流れがあること。ゲームは他のメディアよりも、システム的な部分で、より一層の強制力をもってプレイヤーを世界の中に惹き込む。だからこそ、ゲームの中ですべてが完結するべきではないと僕は思っている。ゲームの外にある、現実の空気がそこに入り込んでいなければいけないのだ。
どうしようもなく、どうぶつの森が好きだった。時間帯によってBGMが変わるあの感覚。家具や雑貨の数々。とりとめのない住民達との会話。四季の変化とイベント……。
単に季節が巡って、時間が流れるということ。様々な文化と、細々としたものに囲まれているということ。それ自体がちょっとした喜びを運んでくる。壮大な冒険も悪くないけど、こういったささやかなものを大切にできるゲームがあるというのもいい。
ちょっとした風流だとか、こだわりだとか、季節の感覚が、必要だった。「罪滅ぼし」がもともとの動機にあったというのは、納得してしまう。現代において、ゆっくりとした時間を楽しむのは簡単じゃない。
電車の中で多くの人が、きっちりスーツを着た通勤途中であろうサラリーマン達ですら、どうぶつの森をしていた。僕だって、何の風情もないアパートと大学を往復するような生活をずっとおくっている。それが、ときどきどうぶつの森を手に取る動機になっているというのは、否定できない事実かもしれない。合理性のない行事や、巡ってくる季節の彩りや、目的のない遊びが、僕たちの手元に必要なのだ。