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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

「手塚治虫の功罪」は今のスマホゲームまで続いている?

「マンガの神様」手塚治虫は、アニメーターでもあり、アニメ制作会社「虫プロ」の経営者でもあった。
手塚が後世に与えた影響は計り知れず、今の流行のスマホゲームにまで続いていると僕は考えている。

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そして、いまだに、「手塚治虫の功罪」について議論されたりする。

この記事では、何が「功績」であり、何が「罪」だったのか、そしてそれがどのようにして今に続いているのかということを、書いていきたい。

目次

手塚治虫は何をしたのか?

漫画家としての手塚を知らない人は少ないだろうから、どうアニメに関わったのかを述べていく。詳細に書くと長くなりすぎるので、かなりザックリまとめる。

手塚アニメのビジネスモデル

まず、手塚がやったのは

  • アニメ制作を法外に安く引き受けた。
  • 安くする代わりにキャラクターの使用料を制作側がとれるようにした。

ということ。

手塚は、自らが設立したアニメ制作会社「虫プロ」の経営者であり、テレビ局側と交渉する立場でもあった。
安くないと使ってもらえなかったのか、他との競争で優位に立ちたかったのか、手塚は『鉄腕アトム』の各エピソードを、制作にかかった費用をさらに下回る価格でテレビ側に売った。

憧れだったディズニーと同じキャラクタービジネスの手法を使えば、十分収益を回収できるという魂胆だった。
テレビ放映でキャラクターが知れ渡れば、その関連グッズが売れるので、ロイヤリティを貰えば十分に制作費が回収できるはずだ……と。

結果として、その試みは大成功した。

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「アトム」は、日本で初めてコピーライトマーク(©)がつけれらたキャラクターだ。

シールでも玩具でも、「アトム」にすれば飛ぶように売れた。
子ども達は、「アトム」を模したものを欲しがった。
アトムグッズが巷に溢れることで、それを目にした子ども達が「アトム」のアニメを見始めるという相乗効果もあった。

今もよく見られるキャラクタービジネスのやり方だが、それは手塚の試みから始まったのだ。

「リミテッド・アニメーション」の制作手法

次に、どうやってアニメを作ったかを述べる。

手塚のアニメの作り方には、ある特徴があった。それを、本来の「フルアニメ」と対比し「リミテッドアニメ」と言うことがある。

  • リアルな動きを追求する「フル・アニメーション」
  • セル画の枚数を減らして作る「リミテッド・アニメーション」

という対比だ。

本来の「アニメーション」は、静止画を組み合わせ滑らかでリアルな動きを表現するものなのだが、「リミテッドアニメ」は、静止画(止め絵)を強調したり使いまわして作る

手塚は「リミテッドアニメ」の実践的な手法をいくつも開拓してきたが、それには漫画家という本業が大きく影響している。

リミテッドアニメの利点として

  • 短時間、低コストで作れる。
  • 静止画ベースでつくるので、マンガをそのままアニメにしやすい。

というのがある。

もともとは手塚の「自分一人で作りたい」というエゴから産まれたものかもしれないが(背景はスタッフに任せたがキャラの動きは全部手塚一人でやっていたという話もある)、「リミテッドアニメ」の手法を使わなければ、毎週30分弱のアニメを作り続けることはできなかっただろう。

「リミテッドアニメ」は、マンガをそのままアニメにする手法と言えるかもしれない。
今の日本のアニメも、マンガ原作のものが多く、3Dよりも「二次元」らしい表現を好む傾向にある。

手塚が何をやったのかをまとめると

  • 「ビジネスモデル」としては、安く作り、さらに安く売って多くの人に見てもらい、そこで得た人気からグッズ展開で収益を回収する。
  • 「制作手法」としては、マンガの延長でつくれる「静止画」をベースにした「二次元」のアニメ制作。

となる。

「二次元」のキャラクタービジネス

原作のマンガの延長で、低コストで作れる手塚式「リミテッドアニメ」は、「二次元」のアニメと言い直すこともできるかもしれない。

「二次元」はキャラクタービジネスと相性がいい。なぜなら、ジャンルを跨いでも視覚的なイメージが一貫してるからだ。

最初に成功した版権グッズは「シール」だった。明治製菓のマーブルチョコについていた「アトムシール」だ。

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日本の二次元コンテンツによくある流れとして、ヒットしたマンガをテレビアニメ化し、さらに人気にしてからグッズ展開する……というのがある。
その際、もちろんアニメは動くしフィギュアは立体なのだけど、静止画(止め絵)をベースにした「二次元」のイメージは、それぞれが共有している。

理想を描けるとか劣化しないとか他にも色々あると思うが、いわゆるオタク系コンテンツが「二次元」で展開されてきた理由の一つとして、「情報量が少ない」というのがあると思う。「二次元」は情報量が少ないから、ジャンルを跨ぎやすくなっている。
それぞれのジャンルや版権が、キャラクターを流通させるような形で、コラボ、メディアミックス、グッズ展開を繰り返してきたが、「二次元」の形式は、そのための共通規格だったのではないか

実写ではアニメのようなグッズ展開はやりにくいし、同じアニメにしても、独自の表現を追求するほどコラボしにくいものになっていく。
「オタクカルチャー」などと言われる日本のコンテンツは、多くの作品が情報量の少ない「二次元」に足並みを合わせて、ジャンルを超えた協調を可能にしている

改めて、手塚治虫はハンパないと思う。「マンガの神様」と言われてるけど、下手したらそれに勝るとも劣らないほどの影響をアニメや他のコンテンツに与えている。

マンガから作るアニメ、そしてグッズ展開と、今の日本のコンテンツ環境を決定づける流れを、一人でやってしまったのだ。

手塚がスマホゲームに与えた影響

上で述べてきたことに即して言うなら、日本のスマホゲームの特徴は、「足並みを合わせて」いることだろう。以下、詳しく説明していく。

やっぱり「ガチャ」はすごい

2015年の日本のゲームアプリ市場は世界最大だったというデータがある。プレイヤー1人あたりの収益性が非常に高いのだ。
2015年の日本のゲームアプリ市場は9453億円、世界最大に - ケータイ Watch

その大きな要因は「ガチャ」だと思われる。
「ガチャ」は、その良し悪しは別として、収益を上げるための非常に有効な方法であることは間違いない。

しかし「ガチャ」は、日本国外のゲームアプリ市場ではメジャーなものではない。
特に、人気の版権とコラボしたり、イベントを頻繁にやる……みたいなことは、日本のスマホゲームのやり方でしかなかなかやれない。

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テレビアニメは関連商品を売ることで収益を回収していたが、「ガチャ」はそのより強力な仕組みと言うことができるかもしれない。そしてそれは、以前までの日本のコンテンツ文化の延長にあるからこそ可能になっている。

データベースを追加しやすい形式としての「二次元」

日本の「ガチャゲー」は、そのほとんどがデータベースを継ぎ足しやすい形式になっている。コラボやイベントは、比較的楽に新しいデータを追加できるからこそ成り立つものだ。

例えば『クラッシュ・ロワイヤル』など、日本国内のゲームではないタイトルにも、ランダムでカードを入手する仕組みがある。
しかし『クラロワ』は、頻繁に新しいカードを追加していく……ということはできない。

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なぜなら、カードそれぞれが、特有の「動き」を持っているからだ。

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他のキャラとの兼合いを細かく調整する必要があるし、しっかり作り込まなないとバランスが崩壊したクソゲーになってしまう可能性がある。だから、イベントのたびに新しいキャラを追加するみたいなことは難しい。できたとしても、せいぜい既存キャラやフィールドの見た目を変えるみたいなことだろう。

一方で、『モンスト』や『パズドラ』のようなゲームは、新しく「モンスター」を追加しやすく、実際に数も多い。(2016年11月時点で、クラロワ:64枚、モンスト:2300体以上、パズドラ:3000体以上、参考までに。)

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どうしてそれができるのかと言うと、「二次元に足並みを合わせている」からだ。

日本のスマホゲームの「モンスター」や「キャラクター」の多くは、イラストと数字で表現されている。
「ひっぱり」や「パズル」など、各タイトルの個性はあるが、それと「二次元」を組み合わせる形で成り立っている。

「二次元」のゲームは、「動き」と「データベース」が密接に結びついていないので、後からデータを追加しやすい。画像を用意して、数字を調整すれば、新しいキャラが出来上がるからだ。

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このような、データベースを追加しやすい形で作っているからこそ、「ガチャ」や「コラボ」や「イベント」がやりやすくなっている。

和製RPGは「二次元」に歩み寄ったゲーム

もともとの「ゲーム」は、プレイヤー同士が遊ぶための仕組みを提供するものがメインストリームだと僕は思っている。

しかし、日本の「RPG」は視聴作品に近いものが多く、アニメにおける「リミテッドアニメ」のように、ゲームではあるが他ジャンルとの協調を重視し、「二次元」と足並みを合わせた形式だと考えることができる
「ガチャ」を搭載したスマホゲームのほとんどは、「何か」+「RPG」という仕組みになっている。

「RPG」は、日本での人気は高いが、海外ではあまりメジャーなものとは言えない。
そもそも、「ロールプレイングゲーム」という言葉自体があまり実態を表していないのだが、この種の、「二次元を共通規格にしたジャンル横断的なもの」は、これといった名前をつけるのが難しい。


少し話が逸れるけど、先日「ニコニコ動画」の新サービス「RPGアツマール」が始まった。

http://game.nicovideo.jp/atsumaru

角川は、マンガやアニメなどのジャンルを跨ぐ「メディアミックス」を主導してきた会社だ。「二次元に足並みを合わせた小説」とも言える「ライトノベル」も、角川から始まった。

また、「ニコニコ動画」を考えれば、メディアミックスがどういうものなのかわかる。
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常識的に考えれば映像にテキストが流れるのは邪魔でしかないのだが、情報量の少ないほうに歩み寄ることが面白さに寄与している。
メディアがミックスされる際には、低い水準に足並みを合わせることが必要になる。(だから画質の悪さには目をつぶろう!)

角川とドワンゴは合併したが、メディアミックスを重視する企業同士でシナジーがあったのだろう。
そして、新しいサービスが「コメントが流れる自作RPGの投稿コミュニティ」というのは、王道を征くみたいな感じでとてもいいと思う。

「ゲーム」でも「動画」でもない、新しいメディアミックス的なコンテンツを志向しているのだろう。
すでにけっこうな数のゲームが投稿されているし、これからもどんどん増えていきそう。時間を見つけて気になる作品を少しずつやっていきたい。

手塚が生み出した「二次元」はどのような特徴を持っていたのか?

話を手塚治虫に戻す。

2015年のアニメ業界の、狭義の市場規模は2007億円だが、広い意味での市場規模は1兆8225億円だった。
産業統計の調査・発表 | 日本動画協会

現在のアニメ業界も、アニメ自体の収益よりそこから派生したものの規模のほうが圧倒的に大きい。

手塚がそのように意図していたとは限らないが、結果的に、彼は非常に優れたビジネスモデルを発明した。

アニメを安くテレビ側に売り払ったから、アニメーターが低く見られるようになった、というのは間違っている。
そもそも、テレビは収益の導線が貧弱なメディアで、無料で見れる30分のアニメを毎週放映するみたいなビジネスは、普通なら成り立たない。
手塚の方法があまりに強力だったために、多くのプレイヤーがアニメ制作に参加できるようになった、と考えるべきだと思う。

本来、アニメというのはおそろしく割の合わないコンテンツなのだと思う。
「リミテッドアニメ」の方法を採用しなければ、商業的にアニメを制作できるのは宮崎駿のような一握りだけになっていた可能性すらある。

宮崎駿は手塚治虫を批判したけど……

宮崎駿が手塚を批判したことは有名だ。

手塚治虫のアニメ観。宮崎駿が「悪い点」と指摘した暗黒面|今日のおすすめ|講談社コミックプラス

しかし、手塚と宮崎の違いは明らかで、手塚治虫は「テレビアニメ」をつくり、宮崎駿は「アニメ映画」を作っていた。
宮崎駿は「アニメは一年に一回見るものでいい」なんてことを言っているわけで、扱っているものが違ったのだと思う。

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そもそも、アニメやゲームなどの娯楽は、あらゆるもので代替可能なので、何らかの工夫なり仕組みなしに売れることはあり得ない。
また、アニメのような視聴作品は、見てみないと(それを享受した後でないと)その価値を判断できないという問題がある。

「連載」というのは無料もしくは定額で見せ続けて評価を確立していくための仕組みだし、完結した作品を売るためには、何らかの収益システムが必要になる。

「映画館」は、このご時世でも、なかなか便利にならない。日本だと高額な上にやたら長い広告を見せられるのでうんざりすることもある。
ただ、このような古い仕組みは、「完結した作品」を売るためには不可欠だ。わざわざ映画館まで足を運ぶ人がいなければ、2時間程度の動画に大量の人と金を凝縮させる映画みたいなコンテンツは成り立たないだろう。

ハイコンセプトな作品を作ってそのまま売るためには、流通と宣伝の後押しが必要になる。もちろん宮崎駿はそれに値する人物だが、だからといって手塚を責めるのは筋が悪いようにも思える。まあ、アニメ映画をつくる人からのテレビアニメへの批判、ということになるのだろうけど。

手塚は、マンガにおいても記号的な表現をいくつも開発したし、「本格的」な映像にこだわる作家とは別の発想をしていたのではないかと思う。

ディズニーとはどう違うのか?

日本は「キャラクター」の国だとよく言われる。
もちろんキャラクタービジネスの先駆者は「ディズニー」だ。

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海を飛び越えて日本まで来るような「ディズニー」の作品は、企画の段階から世界展開を見越して、マーケティング戦略も含め、「チームプレイ」で大きな作品を作っていく。
『アナ雪』にしても、監督、脚本、原案、原作は全部違う人だ。
そのやり方で世界的なヒットを量産しているのですごいと言う他ないが。

一方で、日本の「二次元」は、作品(キャラクター)を育てていく、というやり方をしている。

日本のキャラクターの最もわかりやすい特徴を挙げるなら、ものすごく数が多いことだと思う。
なぜそうなるかと言うと、たくさんいる中で人気のものを拾い上げ、だんだん大きくしていく仕組みになっているからだ。

元ネタの作品が、マンガ、アニメ、ゲーム、ラノベ、映画、グッズ、イベントなど……どういうジャンルであろうと、「二次元」のキャラクターはジャンルやメディアを超えて流通する
よくある形としては、マンガやラノベなどの個人で作れるものから、アニメや映画など複数人で作れるもの……という形で成長していく。それをする際に、異なる作品や違うジャンル同士を繋ぐのが「キャラクター」だ。
だからこそ日本では「キャラクター」が重要であり、それは規格が統一された「二次元」である場合が多い。

今年はオリジナル映画が目立った年だが、2015年の映画を興行収入順に並べていくと、妖怪ウォッチ、バケモノの子、名探偵コナン、ドラえもん、ドラゴンボール Z、進撃の巨人、ビリギャル、ラブライブ、暗殺教室……となる。
こういう原作ありきの映画にうんざりする人も多いかもしれないが、デカいものほど失敗のリスクが高い以上、すでに市場である程度受け入れられているという前提がなければ企画が始まらない。

日本のキャラクターで一番大きく育った例は『ポケモン』だと思うけど、『ポケモン』だって最初は個人の着想から始まったゲームソフトだった。それがアニメ、グッズ、マンガ……と、大きく広がっていったのだ。

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もちろん、どういう文化圏であれ、個人で小規模な作品を作る人もいれば、チームで大きなものを作る人もいると思う。実写でやる人もいればイラストでやる人もいる。
ただ、観測できる事実として、日本では、今まで説明してきたような作品が商業的になりたっている。半端なものは淘汰されていくコンテンツの世界で、「二次元」が、生き残るための有効な戦略であることは確かだ。

繰り返し言うが、「二次元」は、ジャンルを飛び越えて、作品が成長していくネットワークに参加しやすくなるための共通規格だった
「マンガ→アニメ→グッズ」という流れで大ヒットした手塚のやり方は、その最初の成功例になった

「二次元」は二流?

しかし、「二次元」は、低級なものと見なされやすい。

「アトム」の版権ビジネスが大流行したとき、批判も多かったらしい。

もともと日本の玩具産業は作ったものを海外に輸出していたが、「アトム」の流行によって、産業が内需にシフトした。
「アトム」を共有していない海外には売れなくなっただろうし、玩具そのものとしての質は低下しただろうと思う。
クオリティが高ければ売れるとは限らず、柄を「アトム」にするのが最良の方法だったからだ。(今のスマホゲームと似たところはあるかもしれない。)

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版権に頼ることで、作品の質が下がってしまう側面はたしかにある。「二次元」と足並みを合わせる必要があるからだ。

玩具は玩具としての洗練を追求するのが正しいあり方であって、版権の皮を被せただけで売れるなんてのはけしからん……という感覚は、多くの人が持っていた。
これは、「玩具」に限らず、あらゆるジャンルに当てはまることだ。

ジャンルの垣根を乗り越えることは、洗練を否定することでもある。
「二次元」は、あえて洗練されない、プロフェッショナルにならない形式を維持していると見ることもできる

「二次元」の文化は、何かと批判や攻撃の対象になったりすることもあるが、どこか構造的に低く見られるようなところがあるのだろうと思う。
逆に言えば、権威や制限が入り込む領域ではなかったからこそ、小規模なプレイヤー同士が協調して作品を大きくしていくネットワークが出来上がったのかもしれない。

「二次元」にはデメリットもたくさんある

「二次元」の良いところはたくさんある。
ジャンルを跨ぎ、作品を育てていくネットワークを持っている。参加のハードルが低いし、二次創作もやりやすい。

ただ、いい部分もあれば悪い部分もある。その悪いと思われる部分を、最後に書いていく。

専門性が軽視されやすい

  • ジャンルを跨ぎやすく、参加のハードルが低い。
  • ジャンルごとの専門性を高めていくことができる。

というのは、ある程度バーターになっている。

分野ごとの洗練を追求していく意識が希薄だと、専門性が認められにくくなる。

プログラマーにしてもアニメーターにしても、専門的な能力を持っている人の待遇が悪くなりやすい傾向が日本にはると思う。
というより、そもそも専門性を磨くような場所がなく、「オン・ザ・ジョブ」でやれ、という感じになってる。

ただ、専門性を重視しすぎると、最初から金を持っていて教育を受けられる人しか専門職につけなくなったり、階層が固定化したりなど、色々と問題があるから、どちらがいいのかということは一概に言えない。

日本のコンテンツは「恥ずかしい」

表現と洗練が結びつかないところには、「恥」が付きまとう。

これについては、以前「水曜日のカンパネラ」という音楽ユニットについて書いたときに、けっこう字数を使って論じた。気になるなら呼んでみてほしい。

批判ととる人も多かったみたいだけど、貶す意図の記事ではない。

ただ、何らかのジャンルや枠組みにおける「洗練」を否定することには、「恥ずかしさ」がついてまわるのではないか、ということが言いたかった。

「オタク」的な趣味は恥ずべきものとされてきた時期があって、僕はそういうものがかなり薄れてきた世代に属してるけど、やっぱり公の場でアニメとかゲームのタイトルを口に出すのは恥ずかしい……と思ってしまう感覚はある。

ブラックにしかなりようがない

これが最後で、なおかつ最も重要なポイントだけど、「二次元」のクリエイティブは、どうしてもブラックになってしまわざるをえないところがあると、僕は思っている。

現在まで影響の及ぶ、手塚治虫の罪過があるとするなら、それは彼自身の情熱かもしれない。

ありていに言えば、「二次元」というのは情報量を抑える手抜きの方法だ。
「リミテッドアニメ」にしても「RPG」にしても、その手法自体は、楽に面白いものをつくりやすくするためのものだ。しかし、だからといってクリエイターの意識が低いわけでは決してない。みんな、がんばるのだ。

手を抜くためのやり方で手を抜かないところに本質があるのかもしれない。それが何かを作ることの情熱とセットになっているからこそ、手塚の方法は、かろうじて成り立っているのではないか

「二次元」には避けがたく「本物」との距離があり、その葛藤の中で作品を作り続けてきた手塚の、どこか歪んだ情熱のようなものを、彼の方法と切り離すことができない。
完成を求めるとキリがない。それでも、限られた時間のなかでできる限りのことをしなければならない。そのような意識でやっているなら、仕事が肉体的にも精神的にもキツいものになるのは、当たり前だ。

日本初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』が放映されたのは1963年だった。手塚の没後(89年)から、現在まで、彼がアニメに関わった期間より長い時が流れたことになる。労働条件の改善なんてことは、どう考えても後世の人間に割り当てられた仕事だろう。

しかし、いまだに手塚の「罪」が叫ばれがちなのは、受け継がれたのが単なる方法だけではないからかもしれない。