読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

「Splatoon(スプラトゥーン)」の楽しさを語りたい

ゲーム


 スプラトゥーンは、実際に触れてやってみる前の段階ですでに、楽しさを感じてしまう作品だった。

 子どもの頃はあらゆるゲームがそんな感じで、大人になるにつれて無くしてしまったワクワクに似たものを、スプラトゥーンで思い出すことができた。ハイカラシティにいるだけで、独特の高揚感がある。


 とにかく楽しい雰囲気のゲームなのだ。キャラのビジュアル、ブキやインクの演出、シオカラーズの歌と踊り、フェスのお祭りが来た感じの空気……なんというか、すべてがイカしている。

 実際に遊んでみても期待を上回るほど最高なんだけど、それ以前のビジュアルとかBGMとかですでに、「楽しい」のだ。



 今までの任天堂にもなかったような、反骨精神のようなものを打ち出している。イカの不敵な笑みと、血糊をインクで表現する鮮やかな見立ては、ゲームのコンセプトとデザインが見事にマッチした稀有なものなのだが、2015年に任天堂の完全新作として出たゲームとして、スプラトゥーンがこれほどの「楽しさ」を体現しているのには理由がある。


f:id:skky17:20160528211050j:plain


「イカ」たちは、任天堂の14年ぶりの新キャラクターだ。

 ずっと新しいタイトルをつくらずに、既存の人気作の延長という形でやってきた。ハードのスペックが向上して、一つのソフトを作るのにかかるお金と労力が増えるほど、リスクを冒せなくなっていった。任天堂ブランドが高まれば高まるほど、新作のハードルも高くなっていく。

 そしてスプラトゥーンは、そのようにして膨れ上がった期待をさらに上回った作品かもしれない。


 だからと言って、任天堂がゲームの新しい可能性を切り拓いたとか、のしかかる期待に見事に答えたとか、そういうことでもないように思う。生意気そうなイカたちのデザインから見てとれるのは、任天堂がやってきたことが、そういう真面目さや堅苦しさとは無縁のものだということだ。


f:id:skky17:20160528211447p:plain


 デジタルゲームは、コンピューターサイエンスの一分野として、一流のエンターテイメントとして、段々と社会に認められているものになってきている。よいことなのだろうが、それは黎明期の業界にあった無邪気さが失われていく過程でもある。

 立派な大人もゲームを遊ぶようになって、世界的な市場は「大人向け」に移っている。例えば、海外で人気の、「Grand Theft Auto」、「Call of Duty」、「Battlefield」のようなタイトルは対象年齢が高い。過激な銃撃戦が、描写力の向上したゲームでそのまま再現できてしまうからだ。

 そのようなゲームがメイン市場を占める中で、「親が安心して子どもに買い与えられる」というのは、任天堂が選ばれるブランドである理由の一つになっている。また国内においても、一部のモバイルゲームが眉をひそめられる儲け方をしているなか、ある種の倫理的な態度を示すことを消費者から求められてきた。

 また、玩具メーカーが原点としてある任天堂は、「直感的なビジュアル」や「手触り」のようなものにこだわってきた。子どもが触っていて楽しいような、その最初の感覚から離れようとしなかった。


 任天堂は、人気と実力があるゆえに、様々なものに縛られている。

 その中で開発されたスプラトゥーンは、続けてきた忍耐が実を結んだ結果と言っていいくらい、すばらしい作品だ。


f:id:skky17:20160528211730j:plain


「人は何を楽しいと思うのか?」は、すでに研究の対象であり、金と優秀な人材を集めるプロジェクトになるほど、失敗しない確実な方法を踏まえるようになっていく。

 しかしスプラトゥーンには、そのような打算やしがらみを塗り込めようとする気迫がこもっている。


 水鉄砲を撃ったり、プールで水をかけ合ったりした経験は、誰もが子どもの頃にあるのではないだろうか。それは、特に意味があるわけではない「楽しさ」だった。そのような、目的も価値もない原初的な手触りの「楽しさ」を、スプラトゥーンは作品の核に据えている。2015年という時代に発売された大規模な作品でそれをやったということ。まずはそこに驚嘆するべきだ。それが可能だった背景には、任天堂という企業が積み上げてきた歴史がある。


f:id:skky17:20160528211845j:plain


 雛形は、豆腐型のオブジェクトが白黒のインクで陣地を取り合うゲームだったそうだ。ただ撃って倒し合うのではなく、インクを撃って地面を塗り、それで点数を競うという発想がすごかった。

 しかし最終的に今のスプラトゥーンの形になったのは、前提として「撃って倒し合うゲーム」が流行していたというのが大きいだろう。


「FPS」や「TPS」といった対人シューティングは、世界的なトレンドになっていて、任天堂はどうして同じことをやらないのかとも言われていた。そのような言説こそが、任天堂という会社に寄せられる不理解と変な期待の象徴だったかもしれない。スプラトゥーンは、それに対する回答とまでは言わずとも、明らかに意識はしているだろう。そして、だからこそ成功したし、ここまでのゲームになったのだとも思う。


 敵を撃って倒したときに画面にとび散るインクは、血糊の比喩になっている。

 対人シューティングが持っている暴力性を否定しているわけではない。むしろその暴力を、「見立て」によって丸め込み、見立てたものからさらに遊びを引き出している。

 銃撃でとび散る血糊を子どもの遊技になぞらえ、原色のインクで鮮やかに塗り込める手腕は、任天堂の面目躍如だろう。


 アサルトライフルは「シューター(水鉄砲)」になり、スナイパーライフルの位置づけである「チャージャー」は、圧力をかけてインクを遠くにとばせる設定になっている。インクを塗る道具の「ローラー」は近接武器として使うことができ、現実を模した世界観で同じことはできないだろう。「スロッシャー(バケツ)」のように身近なものも、ゲーム内では高低差に関係なくインクを塗りやすい武器として成り立つ。


f:id:skky17:20160528211329j:plain


 イメージや発想の素晴らしさだけではなく、ゲームとしても、何時間も遊んで飽きないほど素晴らしいものに出来上がっている。バランス調整や運営なども見事な手際だったが、それもはやり「本家」を踏まえることができたからこそだと思う。


f:id:skky17:20150507081714j:plain


 製造業が低迷している日本で、世界を席巻したことがあるメーカーの任天堂は、過剰な期待をかけられているのかもしれない。

 しかし、任天堂がずっとやってきたことは「王道」ではなくメタであり、パロディだった。任天堂が参入したゲームビジネスにしても、当時はパソコンやインターネットや家電といった本流にあるものの周辺産業だったのだ。


 現在、ゲーム産業はテクノロジーの華であり、VRなどに注目が集まっている。しかし任天堂は、横井軍平の「枯れた技術の水平思考」という言葉に代表されるように、最新のテクノロジーとは別の「楽しさ」を求めてきた。

 だから、パロディ元になる本流があるのは、それはそれで追い風かもしれない。任天堂にしか作れないものは確実にあるし、もともとそういうやり方をしてきた会社だからだ。


 もちろん、人気とブランドが強いだけに、様々な圧力やしがらみのなかでやっていかざるを得ないのだろう。ただ、スプラトゥーンが現にこれほどイキイキとした魅力を持っているのは、面倒くさい世界に対して反抗を試みているからのようにも思えてくる。

 それは、子ども心を失わないながらも、スケールの大きな「楽しさ」だ。そのようなコンセプトが、優れた作為を引き寄せるのだと思う。ゲームの仕組みだけじゃなく、デザインやBGMや、何もかもが神がかっているのは、たんなる偶然ではない。


f:id:skky17:20160528211533p:plain


 一方でスプラトゥーンは、これまでの任天堂の集大成のような側面も持っている。いままで任天堂がこだわり続け、磨き続けてきたものがなければ、このゲームは実現しなかったのではないか。


 開発者インタビューでも葛藤が描かれているが、自分の撃った弾(インク)に潜ることでインク残量がリロードされていくというのは、原理的にも実感としてもおかしい。しかし、プレイしていて不自然と思わないどころか、撃ったインクに潜り込んでいくのがとても心地よい。

 自分と違う色のインクを持った相手をキルすると、倒した自分側の色のインクを撒き散らすのも、おかしいと言えばおかしい。レトロゲームの時代に見られたような乱暴な想像力と、ルールとして重要な仕様がつながっているのだが、それもしかるべき操作感が伴っていなければ、違和感を感じるものになっていたかもしれない。


 画質の粗さというごまかしが通用しなくなった現在のゲームで、現実離れした想像力と直感的な手触りを結びつけてしまえるほど、スプラトゥーンは高いレベルで作りこまれている。


f:id:skky17:20160528211357j:plain


 未来から振り返れば、10年代で最高のゲームだったと思い出されるのだろうか。


 任天堂の若いスタッフによって新しく作られたスプラトゥーンには、何かしらかけがえのなさのようなものを感じる。それは、このゲームを一緒に遊ぶことができた多くの人の大切な思い出になるかもしれない予感みたいなものだ。