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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

なぜ日本のソシャゲは国内で儲かり海外で流行らないのか

「ゲームとは何か?」という問いかけが途方もないほど、「ゲーム」という言葉はあまりに様々に使われているが、今回は思い切って不遜な疑問を投げかけてみたい。


 日本で「ゲーム」とされている作品の多くは本当にゲームなのか? それはむしろ、ゲームの形式を借りた何かなのではないか?

 というよりも、日本のゲームが世界的に流行したある時点で、「ゲーム」と呼ばれるものの定義が大きく変わったのではないだろうか? 日本のコンピューターゲームは、伝統的に「ゲーム」と呼ばれてきた双六や囲碁やチェスやボードゲームの系譜に位置づけられるものではなく、別の発想から来たものではないのか。


 あらかじめ自分の主張を述べておくと、僕はこの記事で、日本で「ゲーム」と呼ばれているのは伝統的なゲームとは違った種類のものだということを示そうとしている。

 僕達が遊んでいる日本の「コンピューターゲーム」は、視聴作品の延長にある、欲望を満たすための「ポルノ(快楽装置)」であり、それは今最も流行しているソーシャルゲームを見るとよくわかる

 そのため、「なぜ日本のソシャゲは国内で儲かり海外で流行らないのか?」という問題を設定して論じていく。日本と海外のソーシャルゲームの違いを分析していけば、日本で「ゲーム」と呼ばれているものの特徴も明らかになるはずだ。


 なぜ「ガチャゲー」は儲かるのか?

 その説明に使われる「射幸心を煽るから……」みたいな定型文はほとんど意味がない。それは「どうして海外ではガチャゲーが主流になっていないのか?」を説明できないからだ。海外にもギャンブルやくじ引きはあるし「射幸心」の概念もあるにも関わらず、しかしなぜ「ガチャ」が受け入れられないのか。一方で日本人は皆が「ガチャ」を馬鹿みたいに回しているが、どのような背景がそれを可能にしているのか。それを本記事で説明していく。

(※なお、「ソシャゲ(ソーシャルゲーム)」という言葉は便宜的に使われているが、定義が曖昧な上に実態をあらわしてもいない。以下、オンラインプラットフォームで運営の要素があり、なおかつパッケージで販売されていないゲームを「運営型ゲーム」に統一して記述することにする。スマホゲーム、アプリゲーム、モバイルゲーム、オンラインゲームもこの括りに入るものと思ってかまわない。)


目次


長いので目次を作りました。ページ内リンクになっているので、要約から見たい人は「まとめ」に跳んでください。


日本のゲーム市場の特殊性

 ファミ通の調査によると、日本の国内ゲーム市場は伸び続けているが、コンシューマー(家庭用)ゲーム市場は縮小し、代わりにオンラインプラットフォームの市場が爆発的に増えている。

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ファミ通ゲーム白書2015より)


「パズドラ」「モンスト」「黒ウィズ」「白猫」「艦これ」など運営型ゲームの流行と収益の増加を裏付ける数値になっている。


 次に人気タイトルだが、AppAnnieより世界iOSゲームアプリの歴代収益ランキングが公開された。1位から5位までのタイトルは以下。


順位 タイトル
1位 クラッシュ・オブ・クラン
2位 キャンディークラッシュ
3位 パズル&ドラゴンズ
4位 ゲーム・オブ・ウォー
5位 モンスターストライク


 日本では「パズル&ドラゴンズ」と「モンスターストライク」がランクインしている一方、この2つのゲームは米英中のランキングでは50位にも入っていない。(参考記事より)


「クラッシュ・オブ・クラン」「キャンディークラッシュ」「ゲーム・オブ・ウォー」は世界中にユーザーを持つゲームだが、「パズドラ」や「モンスト」は日本の人気がメインで、各国に人気を持つゲームよりも圧倒的にユーザー数が少ない。にもかかわらず、国内の購買力のみで、世界中から収益を得ているゲームに匹敵するくらい儲かっていることになる。

 そもそも、日本のモバイル市場は2015年3月時点で世界一の大きさである。(日本が約7200億、北米が約7000億)


 ユーザーあたりの非常に高い収益率の源泉が「ガチャ」であることは説明を要しないだろう。トップセールスに並ぶ日本の運営型ゲームのほぼすべてに「ガチャ」があり、世界基準で人気のあるゲームのほとんどに「ガチャ」がない。同じ「ゲーム」として認識されていて、また「iOS/andoid」という同一のプラットフォームでリリースされているものでありながら、なぜここまで顕著な違いが見られるのだろうか。


 まず分析のために、世界一収益をあげているゲームである「クラッシュ・オブ・クラン」と、日本一の「パズル&ドラゴンズ」を比較する。

 両者のゲームのどこが違うかというとあらゆる所が違うのだけど、簡潔に対比的な特徴を述べるなら、「クラクラ」が「PvP(プレイヤー対プレイヤー)」であるのに対して、「パズル&ドラゴンズ」は「PvS(プレイヤー対運営)」のゲームだ。また、「クラクラ」が伝統的なゲームの発想の延長で作られているの対して、「パズドラ」は漫画やアニメなど視聴作品と似ている


クラッシュ・オブ・クラン パズル&ドラゴンズ
発想 PvP(プレイヤー対プレイヤー) PvS(プレイヤー対運営)
調整 ユーザー間の均衡を測る調整 ユーザーをゲームから逃さずたくさん課金させるように調整
DB ユニット数(初期10→現在16) モンスター数(初期約200→現在約2500)
収益 誰かに勝ちたいと思わせることで課金 モンスターを欲しいと思わせることで課金
イベント ほとんど無い 毎日イベント、頻繁にコラボ
同種のコンテンツ ボドゲ、チェス 漫画、アニメ


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クラッシュ・オブ・クラン (Clash of Clans)

「クラッシュ・オブ・クラン」は2012年8月に「Supercell」がリリース。全国147カ国でランキング一位を獲得し、世界で最も収益をあげている運営型ゲームだ。


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クラッシュ・オブ・クランGoogle Playより)


ゲームシステム

 自分の基地を建てて守り、ユニットを生産して相手(他プレイヤー)の建てた基地を攻め落として資源を奪う。奪った資源で自分の基地を強化していく。バトルの勝ち負けでリーグ値が上下し、他ユーザーとclan(チームのようなもの)を作ることができる。チャット機能を使ってコミュニケーションをとったり、クランに加入したりして楽しむ。ゲームの長期的目標は段々強くなっていくことだが、中期的な目標は各人で定める必要があり、クラン運営をするプレイヤーはクランの目標設定などもうまくこなさなければならない。

発想

PvP(player versus player)。プレイヤー同士で戦ったり協力しあうことを前提に、そのための「場」や「ツール」を提供する。

調整

 運営は、クラン戦の時期を決めてユーザーを競わせたり、新しいシステムを追加していく。しかし日本のゲームほど頻繁にイベントやボーナスのようなことはやらない。「PvP」なので、「この攻め方なら絶対落とせる」「この守り方なら確実に守れる」みたいなつまらない戦法が生まれないように、各ユニットや防衛施設の強さを調整し、プレイヤー間のルールを整備する。

データベース

 防衛に関しては、それぞれの施設、柵、トラップなどが数種類。攻撃に関しては、初期はユニットが10体だったのが、現在は16種類。ユニットにはそれぞれ「アーチャーは遠くから弓で攻撃」「ジャイアントはHPが高く防衛設備を優先して攻撃」など、チェスの駒と同じように動きが決まっている。  データベース(ユニット)の数そのものは日本のゲームに比べて圧倒的に少ないが、それぞれが特徴的な「動き」を持っているので、その組み合わせは無限にあり、様々な戦略が生まれる。ユニットそれぞれに「動き」が設定されているからこそデータベースを楽に増やすことはできず、「ガチャ」という収益モデルも不可能になる。

収益

 ガチャはなく、効果が決まっている資源(エメラルド)を定価で売っている。それを使うことで基地の成長を早めたり攻撃用のユニットを早く生産できたりと、ゲームを有利に進めることができる。月100万以上課金するプレイヤーもいるが、他プレイヤーに対して優位に立ちたい、特定の誰かに勝ちたいと思わせること(PvP)で課金させる。

イベント

 季節ごとにデザインがかわったり、少し資源が安くなったりのイベントはあるが、まめに開催するわけでもなく、クラクラというゲームにおいてあまり重要な位置を占める要素ではない。

同種のコンテンツ

 「クラクラ」は、伝統的に「ゲーム」と呼ばれてきたもの……古代から存在した双六や遊技盤、囲碁や将棋やチェスの延長にあり、世界基準の運営型ゲームはこの発想のものが主流になっている。運営型ゲームである以上、ゼロサムではなく、プレイヤー全体の資源は時間と共に増え続けることになってはいる。しかしゲームの目的は奪い合いであり、プレイヤーとプレイヤーの勝負があり、対立や競争が生まれる。


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パズル&ドラゴンズ

「パズル&ドラゴンズ」は、2012年2月に「ガンホー」によってリリースされた。日本のゲーム史上もっとも収益をあげたコンテンツであり、また後に続く「ガチャ」を備えた運営型ゲームも、ベースの仕組みはパズドラとほとんど同じものになっている。


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パズル&ドラゴンズGoogle Playより)


ゲームシステム

 モンスターを集めてチームを編成し、ダンジョン(与えられた課題のようなもの)をクリアする。ベースになるシステムはRPGで、「HP」や「攻撃力」などのスタータスを鍛え、モンスターを強化しながらダンジョンを攻略していく。  戦闘システムは、パズルの結果が手持ちモンスターのステータスに参照されて攻撃の値が定まる方式で、通常のRPGの選択肢の部分がパズルに置き換わったと考えればわかりやすい。モンスターのステータスは記号と数値の組み合わせだが、それに対応するパズルの組み合わせ方によって様々なバリエーションの攻撃が生まれる。

発想

PvS(player versus service)。基本的にプレイヤーと運営型のやりとり。運営が課題やイベントなどのサービスを提供し、レイヤーを楽しませる。プレイヤー同士のコミュニケーションはおまけ程度にしかない。

調整

 各モンスターの強さ、ダンジョンの難易度は、すべて運営側が調整する。ダンジョンのクリア率、滞在時間、離脱率、課金率……等のデータをとり、確率や数値を調整したり、イベントやボーナスを与えたりしてサービスを運営する。ユーザーをできるだけゲームに留め続け、なおかつ課金させるようなサービスを提供している。

データベース

 パズルの「動き」の部分と、記号と数値であらわされる各モンスターのオブジェクトはそれぞれ独占している。モンスターの能力は記号と数値のみによって表現されるので、イラストさえ用意すれば簡単にモンスターを増やしたり新しい進化を加えることができる。初期のモンスター数は約200体だったが、現在は約2500体まで増えている。  モンスターにはそれぞれ適切な組み合わせがあって、手持ちのモンスターによって次の「ガチャ」や「ダンジョンドロップ」に求めるものが変わってくる。麻雀の役のようなものだが、その組み合わせは膨大なものになる。

イベント

 イベントも、数値と記号の操作によっていくらでも新しいものを作り出せる(ログインボーナス、経験値2倍など)ので、ユーザーをそのゲームに向かわせるよう、ほぼ毎日何らかのイベントやコラボやキャンペーンが行われている。

同種のコンテンツ

 パズドラは他のプレイヤーと争う要素は一切ない。協力においても、運営側が定めた目的に対して手を貸し合うといったものにすぎない。ゲームを操作するのはプレイヤーではあるが、濃やかなサービスや演出なども含めて、運営が意図した通りのプレイが基本的には要求される。「ゲーム」という形式はとっているにしろ、その「プレイヤー対制作」のやり方は漫画やアニメなどの視聴作品に近い。



 以上のように分析してみると、わかりやすい対比になっているのが見て取れる。「クラクラ」は「PvP」のためのツールや場を運営が提示しているが、「パズドラ」ではプレイヤーと運営が直接向き合っている。また「データベース」の考え方を見ると、「クラクラ」は基本的な動作を設定した後はプレイヤーに任せ、「パズドラ」はすべてのモンスターの能力を運営が細かく設定する。


 顕著な違いがあることはわかってもらえたと思うが、しかしなぜこのような違いが見られるようになったのか。それを説明するためには、「ゲームとは何か?」という話から始めなければならない。


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電子メディアの「確信」とゲームの「快」

 「メディアはメッセージ」というマクルーハンの有名な言葉があるが、それはメディアで流される内容よりも、それを媒介するメディアそのものの特徴が持っているメッセージに目を向けろという示唆だ。

 パソコンやスマホ、コンピューターゲームのような、入力に対しての反応がある電子メディアをマクルーハン流に解釈するなら、そのメッセージは「確信(=成功、達成)」ということになる、と僕は思う。電子メディアは人間の「確信」を補強するメディアなのだ。


 入力に対してすぐさま反応が返ってくること。自分の外部にあるものによってそれが行われること。その作用は、本来人間の中にしかない「確信」を機械が補助してくれるということであり、その確信の一つ一つが「成功」や「達成」と同じ意味を持つ。電子メディアは、ユーザーに対して常に何らかを達成し続けているという承認と、それに対する確信を与えてくれるのである。(ここでは入力と出力の機能があるものを電子メディアと定義している)


 テキストやテレビなど視聴のみのメディアの場合、そこから受け取った情報に何を思うにしろ「確信」は自分の中に持っていなければならない。一方でゲームなど「入力」を要求する電子メディアは、入力への反応とそれを記憶する作用が、本来人間の仕事である「確信」を代わりに行ってくれる。

 そして、そのような「確信」の作用は、楽で、快いものなのだ。RPGのレベル上げ作業に見られるように、場合によっては「ボタンを押すと数値が増える」といった非常にシンプルな形のものでさえ快楽になる。


 コンピューターゲームは初めから終わりまで「確信」の快楽で構成されている代物だが、例えばスマートフォンやウェブ上のテキストにしても、アプリを起動したり、ハイパーリンクを跨ぐこと自体が「快」を含んでいる。

 オンラインゲームのラグや、通信の何らかの不具合や、PCを使う何かの問題がなかなか解決しないときなどに大きな苛立ちを感じるのは、それらがその成り立ちにおいて「確信(=成功、達成)」の「快」を頼りに構成されているからだ。


「確信」の作用があるからこそ、コンピューターゲームにおいては「努力」がとても簡単なものになる。(ボタンを押して確信を積み上げるだけの作業が「努力」とされているから。)

 勉強にはなかなか手がつけられないのにゲームなら一日中「努力」ができる、というのはごく自然なことである。それはゲームが必ずしもそれだけ魅力的というわけではなく、「確信」の作用が常にプレイヤーを補助してくれるからだ。(逆に言えるのは、本来の「努力」は、肉体的なものにせよ精神的なものにせよ、自分自身の中に「確信」を積み上げる作業なのである。)

 満員電車のような集中力が削がれる場で、本を読むのは難しいけどスマホでTwitterなら熱中できるというのも、「確信」の機能が大きく関わっている。


「確信」の快楽は、物理的なものから社会的なものにまで拡張される。

 例えば何らかの「達成」を確信するには、少なくとも正気の人間ならば個人でできるわけがなく、「他者」の存在が必要になる。

 しかし、社会的に「達成」とされるものも、ゲーム内における目標の「達成」も、その構造自体は似通っている。現実の達成は「他者」や社会の「制度」に保証されるのに対し、ゲーム内の達成は機械による物理的な「確信」によって保証される。

 現実には手の届かない欲望をアダルトビデオによって解消するように、コンピューターゲームは、「達成」という欲望を手軽に味わうための「電子ポルノ」として使用されうる。

 ここで言うポルノは、「思っていることが、思っているとおりに実現する」という意味だ。ゲームにおいてのレベルアップなどの作業は、電子メディアの作用によって誰でも簡単にできるようになった「努力の皮を被ったポルノ」なのである。



 日本のゲームは、漫画やアニメに近い発想で「コンピューターゲーム」を取り入れ、その「快」の部分を貪欲に推し進めたものだと僕は考えている。

 日本に特徴的な”JRPG”は、電子メディアの特徴から生まれた「ポルノとしての努力」を重視して発展してきた。だからこそ、ほとんどの日本の運営型ゲームは延々と同じレベル上げや素材集めをさせるような内容に仕上がっている。


 コンピューターゲームは米国の学術機関が発祥であり、米国ではITやコンピューターサイエンスの一分野としての位置づけが一般的だが、日本はそれを、漫画やアニメの文脈で「楽しむためのもの」「気持よくなるためのもの」と考えていた。

 コンピューターゲームを計算機として捉えるのが世界標準の考え方だとしたら、その計算機の「記憶」すなわち「確信」の部分を特別に掘り下げたのが和ゲーの特徴だと言える。(もっとも、計算機の一番もとの仕組みはどこに何を「記憶」するか、しかないのだけれど)


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和ゲーと洋ゲーの違い

 コンピューターゲームを計算機(シミュレーター)と考える発想は、私達にとっては馴染みのないものかもしれないが、きわめて真っ当な考え方であって、和ゲーが特殊なのだ。洋ゲーは世界市場を狙う大規模な作品になるほど、「シミュレーション」といった側面が強くなる。現実にあるもののシミュレーションならば、文化的な背景や作品を理解するための前提を必要とせずに受け入れられやすいからだ。


「クラクラ」と「パズドラ」が大きく違うように、コンシューマーゲーム(家庭用ゲーム)に焦点を当ててみても、グローバル市場を狙う「洋ゲー」と、主に国内向けに制作している「和ゲー」では大きく特徴が違う。


世界基準 日本
人気ジャンル FPS、スポーツ RPG
ゲーム 計算機としてとらえる 「確信」の要素を掘り下げる
発想 シミュレーション 「快」に着目して調整(うまくできるように)
刺激 感覚的な刺激が主 記号や数値を多用
制作 プレイヤーにツールや場を提供 作り手が細かく調整
前提 文化に関係なくわかりやすい 前提が共有されている必要がある


 グローバル市場で多くの人に受け入れられやすいゲームは、FPS、スポーツ、カーレースや爆発など、感覚的な刺激メインのものが多い。これらは、現実のある部分を模倣(シミュレート)してゲーム内に表現し、プレイヤーに提供する。仮に操作やシステムが複雑であろうと、それが現実の模倣であるという点ではわかりやすい。


 一方で和ゲーは「確信」の「快」を掘り下げる形でゲームを作ってきた。和ゲーの特徴を一言で説明するなら、「うまくできる」「気持ちよくできる」を追求してきたゲームだ

 アクションにしろRPGにしろ、上手くプレイしている感覚、気持よくプレイしている感覚をプレイヤーが感じられるように作り手が調整してきたのが和ゲーの一貫したやり方だった。

 情報技術によって対象を模倣しようとするのと、プレイヤーが気持よくプレイできる作品を作ろうとするのでは、それなりに発想が異なる。洋ゲーは模倣の対象に現実があるからゲームエンジンなどの共通規格が定めやすいが、和ゲーは作り手の作為と調整にかかる比重が大きい。


 和ゲーにも「プレイヤー対プレイヤー」のゲームは多くあるが、それはボードゲームのようなルールの設定よりも、職人芸的な細かい「調整」で作られている。アーケードゲームや家庭用ゲームは、アップデートが不可能な「作りきり」なので、まともな対戦が成り立つように細かく調整する必要があった。現在も、格闘ゲームのような繊細な調整が求められるものは日本の一部のメーカーでないとまともなものを作ることができない。

BLAZBLUE CHRONOPHANTASMA EXTEND

BLAZBLUE CHRONOPHANTASMA EXTEND


 アクションゲームでもRPGでも、プレイヤーの「うまくできる」「気持よくできる」に注目している点は変わらない。アクションは動きと仕掛けによって、RPGは記号と数値の組み合わせによって、プレイヤーが上手くプレイできたり気持よくプレイできる場面を演出する。

ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス HD

ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス HD


 「うまくできる」を動きで生み出すのがアクションなら、数値で表現するのがRPGであり、経験値獲得やレベルアップのような、「ボタンを押したら数値が増える」は電子ポルノの最もシンプルな形である。その概念化されたRPG的な部分を推し進めることにより、グローバル基準から外れた和ゲー独特の前提が積み上げられていった。

 このような日本の「ゲーム」は、伝統的なゲームよりも、漫画やアニメなどの視聴作品の延長にあるものとするべきだと僕は考えている。それを裏付ける作品として、日本のRPGを確立した名作「初代ドラゴンクエスト」を挙げたい。


 日本で言われているRPG(ロールプレイングゲーム)は、ご存知のように字義からはかけ離れていて、いびつな概念になっている。

 RPGの原型と言われる「クトゥルフ神話」や「D&D」のようなTRPG(テーブルトーク・ロールプレイングゲーム)は、プレイヤーがそれぞれ自発的に会話や進行を務め、密なコミュニケーションが要求されるボードゲームだった。もちろん米国ではかなりマニアックなジャンルだ。

 RPGが日本人の国民的ゲームとなる流れを決定づけた「初代ドラゴンクエスト」は、TRPGはおろか、「Oubliette」「Wizardry」「Urtima」さえほとんど踏まえていない。元作品にはあった種族や性格や職業などの要素は削ぎ落とされ、ゲームシステムは完全に劣化していると言っていいだろう。それこそ単なる「ボタン押しレベル上げゲー」になっている。


ドラゴンクエスト

ドラゴンクエスト


 しかしドラクエは、親切な演出やストーリー構成、鳥山明がイラストを担当するメディアミックスを成し遂げ、誰もが壮大な冒険と達成する喜び味わえる作品に仕上げられた。元作品の「ゲーム」という系譜にあるものではなく、「漫画」や「アニメ」の系譜にあるものとしてドラクエは作られたのだ。その後、タイトルを重ねるごとにゲームとしてのシステムを充実させてはいくが、やはり根底には、今まで漫画やアニメでやっていたことをゲームの形式を借りてやった初代ドラクエがあるのではないだろうか。

 そしてその流れが、「パズドラ」「モンスト」など今の日本の運営型ゲームまで続いているというのが本記事の主張だ。むしろドラクエのように完結した作品(読み切り)ではなく運営(連載)が可能になっているので、より漫画やアニメに形式的には近くなっている。


 しかし、なぜこのような特徴が生まれてきたのかは、ゲームコンテンツそのものではなく、それらが成り立たせる背景を見なければわからない。そして、それが冒頭で述べた「ガチャ」の前提にもなっている。これからは、ゲームをとりまくコンテンツ産業全体の分析として、日米のコンテンツ産業の違いを見ていく。


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日米コンテンツ産業の違い

「ゲーム」の背景にある産業の文化的、構造的な要因について、参考にした書籍を踏まえて説明していく。

 アメリカと日本はコンテンツ産業の市場規模が世界1位と2位である。多くのコンテンツを宗教や権威に結びつけず、市場で売ることを目的に生産している点では共通しながらも、両者の「武器」になる産業の特徴は対照的である。


 以下は、東京大学出版『コンテンツ産業論』の第1章、出口弘著「コンテンツ産業のプラットフォーム構造と超多様性市場」と第3章、小山友介著「2つのコンテンツ産業システム」を参考にする。(また、その論では、漫画、アニメ、フィギュア、ライトノベルなどの日本の主要なコンテンツ産業を「日本型産業」と便宜的に呼称している。以降の本記事でもその記述に従う。)

コンテンツ産業論―混淆と伝播の日本型モデル

コンテンツ産業論―混淆と伝播の日本型モデル


 このトピックを大まかにまとめると、コンテンツの特徴は規模とプラットフォームに左右され、米国のハリウッド産業は大規模でプラットフォームが統合されたもの、日本に特徴的な漫画やアニメなどの産業は中小規模でプラットフォームが統合されていないもの、という分析になっている。


ハリウッド型 日本型
基本イメージ PUSH型 PULL型
作品規模 大規模 中小規模
ビジネスモデル ハイリスク・ハイリターン ペイライン低
知的所有権管理 厳しい 穏やか、同人文化あり
内容 幅広い顧客から支持 一部の顧客から強い支持
内容面の革新
次世代の育成 学校中心(Off-JTが充実) 個人ベース(OJTがほとんど)
国際化 前提で制作 国内向けに制作

(本書p84から図を引用)


ハリウッド

 ハリウッドは圧倒的大規模かつ、プラットフォームが独占されたコンテンツ産業だ。

 産業の規模が大きくなればなるほど、かけたぶんのコストを回収しなければならないので失敗できなくなる。逆に言えばハリウッドは、絶対に失敗しないやり方、作品を確実に売る方法をとっているからこそ大規模産業を存続させ続けているのだ。

 よくよく考えれば、ハリウッド映画はかなり妙な売り方をしている。公開からしばらくは「劇場」でしか見ることができないし、上映期間が終わってからは多くの場合二度と「劇場」で見ることはできない。これは作品の評判が出回る前に大量の宣伝によって一気に売り上げるブロックバスターと呼ばれる手法で、「劇場」という独占されたプラットフォームも含めて、ハリウッド映画を確実に売れるものにするための仕組みの一つだ。


 ハリウッドは制作過程と流通過程が支配(垂直統合)された産業である。個人や会社ごとに作品を作るわけではなく、まず「ハリウッド映画」という成功が約束された「場所」があり、そこを目指して1流の人材が競い合う。作品は企画ごとに必要な人材を募る「プロジェクト方式」で制作される。

 必ず多くの消費者に見てもらうため、また優秀なクリエイターを集めるため、「ハリウッド映画は、最高の人材によって作られ、十分な宣伝がされ、劇場というプラットフォームで、確実に面白くて大勢の人に見られる作品」という前提と信頼が必要であり、これが「確実に売れる仕組み」でもある。

 つまりハリウッドとは、最高の部品を集めて組み立て、それを独占されたプラットフォームによって大勢に見せるための「場所」なのである。

 だから、原作や監督や俳優などは外注要素にしかすぎず、最初から人気のある完成したものを持ってくれば失敗しないだろうという発想だ。日本型コンテンツの感覚では、作品の原作は文字通り「原作」なのだが、ハリウッドにとって原作は外注可能な部品の一つにすぎない。だから「日本のラノベがハリウッドの原作になった!」と喜ぶ人もいるが、どれだけ日本の作品がハリウッドの部品になってもハリウッド映画と対等であるわけではない。


 ハリウッド産業は徹底的なプロフェッショナル主義で、一部の天才しか作品に関われない故にクリエイターの待遇も良い。ハリウッドで制作している時点ですでに凄いことであり、ある程度の成功は約束されている。もちろん売れる売れないはあるものの、日本みたいに作品を作ってから当たるかどうか、みたいな考え方はしない。

 大規模故に国内の需要のみではリクープ(投資を回収)できないので、最初から海外に売ることを前提に作られる。世界中の才能を集めるので強い国際競争力を持ち、その高クオリティを持ってして攻撃的に海外へ売り出していく。また内容は、どの文化圏でもある程度は受け入れられやすい無国籍的なもの、大多数の共通項をとるような幅広い顧客に支持されるものを目指している。


 このようにして、ハリウッドは確実に映画が売れる仕組み、というより「確実に売れる場所」を用意し、今も多くのクリエイターがその場所に入れるように競い合っている。


日本型産業

 日本型産業は、統合と独占のハリウッドとは対照的に、小規模の産業が「群」になることで成り立つ産業だ。

 日本のコンテンツの核である「漫画」は、ストーリー、ビジュアル、構成、販売のすべてを一人の人間が行うことのできる、非常に作家性を発揮しやすいジャンルだ。

 個人や少数で作れる小規模産業の場合、作品が少し売れるだけでも十分にリクープ可能だった。大多数に支持されるものでなくとも、少数に気に強く入ってもらえればそれで商売が成り立ったのだ。よって、ニッチな需要を当てにしてマニアックな作品を制作することも可能だった。

 またプラットフォームは、漫画雑誌のようにいくつかの漫画の詰め合わせのような形で提示され、たまたま載った漫画に読者の需要が開発されることもままあったし、漫画雑誌の新規参入も盛んだった。現在に至ってはウェブという媒体で誰もが漫画を発表することができる。


 漫画のような小規模の産業群は、作品が見られた後の「人気」によって収益を得てきたのが特徴だ。

 そもそも、漫画やアニメや映画のような「情報財」は最後まで見ないとその価値がわからない。宣伝や前評判や信頼によって、視聴者は価値が判別できない情報財にお金を払うのだ。 ハリウッドは「完結した作品」を消費者が見る前に売るモデルであり、日本型コンテンツは「連載ものの作品」を見た後の消費者に買わせるモデルと言える。日本型コンテンツは、参入のハードルが低い代わりに、プロの肩書を得ても成功が保証されるわけではなく、継続して人気を得たものが生き残っていく仕組みになっている。


 見た後の「人気」によって利益を回収する仕組みは、アニメ業界においてはさらに顕著だ。漫画よりも人員が必要になるアニメは、テレビ局から貰える少額の放映料だけではとてもリクープできないので、作品の関連商品を売り上げることでなんとかリクープしてきた。

「ロボットアニメ」は主に玩具メーカーのPRとして作品を制作してきたし、深夜アニメは高額なDVDを買って支援してくれる層を当てにして「萌えアニメ」などを作ってきた。


「人気」の獲得とその収益化において、「キャラクター」の重要性は言うまでもないだろう。ハリウッドが「ハリウッドスター」を意図的に作り出すのは、作品の内容に関わらずその作品を見てくれる人を増やす防衛的戦術だが、日本ではキャラクターから直接収益を生み出しやすい、というか生み出さないとやっていけなかったために、キャラの生産はより熱心でなりふり構わないものになる。


 もう一つ、日本型産業にとって非常に大きいのが「メディアミックス」である。ハリウッドは映画産業が頂点で他は外注要素にすぎないのに対し、日本型産業では同じ元ネタや同じキャラクターが、漫画、アニメ、ライトノベル、ゲームなど、ジャンルを跨いで広がっていく。ハリウッドが集約させるものだとしたら、日本型産業はそれぞれの作品が横方向に電波し、重なり合っていくことで、その力を増してきたものだと言える。

 新規参入のしやすい小規模のコンテンツは日本のみならずあらゆる国で生まれているが、それらが「群」を形成することで、受け手が好みの作品にアクセスしやすい回路が生まれ、作り手もその需要を当てにして作品をつくれるようになる。76年から開催されていたコミックマーケットなど、日本ではそのような土壌がずっと育まれてきたのだ。

 さらに、国内の均質性と市場の大きさも「群」の形成に一役買っている。同一の言語を話す一億人の市場に、さらに全国放送のテレビや全国に発刊される漫画雑誌のようなインフラがあることによって、ニッチな需要や様々な試みが生まれる「産業群」が成り立ったのだ。日本の国内需要はまだまだ強く、現に日本でしか人気のない運営型ゲームが世界売上げランキングの上位に食い込んでいる。


 以上で見てきたように、産業規模の違いによって商業コンテンツの形態は左右され、ハリウッド産業と日本型産業はその対照的な例だと言える。


ゲーム産業

 欧米ではソフトウェア事業の延長としてゲーム産業が盛り上がり、さらにハリウッドに近いプロフェッショナル化と結びついたのに対し、日本では漫画やアニメなどの日本型産業の一部としてゲームが受け入れられていった。


 産業は規模によってその特徴が大きく変わると上述したが、ゲームは時代が進むにつれて作品の規模が大きくなり続けてきた産業だ。


 ゲームが中小規模の作品であった時代は、78年に開発された「スペースインベーダー」を皮切りに、80年代、90年代と、日本のゲームの躍進が続いた。ハードのスペックが低い時点では洋ゲーが「シミュレーション」の発想を十分に活かせなかったのも大きいが、ちょうど作家性が発揮しやすいくらいの規模だった時代の和ゲーは、たくさんの自由なクリエイターがゲームの「快」を追求し、単純に面白いものが多かった。

 和ゲーの黄金期は確かにあったし、また欧米のクリエイターの多くが「和ゲー」をゲームと捉え、影響を受け、研究した。(そのときに伝統的な「ゲーム」の概念が大きく変容したのではないかというのが僕の仮説なのだが。)


 しかし、2000年代からはゲームが大規模産業になり始め、洋ゲーが優位になる。シミュレーションという発想が十分に活かせるほどハードの性能が高くなり、専門化と分業化が力を発揮するようになった。シミュレートの対象である「現実」という共通規格があったほうが、目的のための技術導入と多人数開発はやりやすい。一方で、個人の作家性や細かな調整に比重を置いているほど大規模な作品は難しくなっていく。

 GTA(グランド・セフト・オート)やBF(バトルフィールド)のように、現実をデジタルに写しとるようなゲームはクオリティが高くなっていき、FF(ファイナルファンタジー)のように根幹の部分で個人の作家性を必要とするゲームは段々変なことになってきてしまう。


グランド・セフト・オート:サンアンドレアス 【CEROレーティング「Z」】

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ライトニング リターンズ ファイナルファンタジーXIII

ライトニング リターンズ ファイナルファンタジーXIII


 日本のゲーム産業は、持ち味であった作家性、細かな調整、参入のしやすさ、メディアミックスといった長所が大規模化によって発揮しにくくなり、過去の遺産を引き伸ばしながら厳しい戦いを続けているのが現状だ


 そして、携帯機器の普及によって出現したモバイルゲーム市場は、小規模でメディアミックスもやりやすく、ゲーム産業を日本型産業の側に引き戻した側面もあった。そこで成り上がったのが、モバゲー、グリー、ガンホー、コロプラなどの新興ゲーム会社であり、最初の図で見せたように、現在も主にその市場の収益が伸びつつある。

 かつてのように海外で流行るものが生み出せないのには多くの要因があるが、「オンライン」が前提にあると細かな作りこみによる調整がやりづらくなり、むしろ記号と数値に頼る視聴作品に近い部分をどんどん追求してしまったのが大きいと思っている。


 以上までで、コンテンツの産業構造的な特徴の説明を終えた。そしてこれからは、日本のコンテンツの文化的な要因をさらに掘り下げて論じていく。


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性表現の記号化

 日本のコンテンツには「性的な表現」が散見されるが、それらはミームのようにあらゆる日本のコンテンツに伝わっている。これほどまでの性的表現の多用は、日本のクリエイターの地位の低さとそれ故の制限のなさが一つの要因だろう。


 日本のコンテンツは公権力や世間から認められないアンダーグラウンドが部分が発展してきた。忌避されるというよりは軽んじられていて、プロとアマチュアの境目すらそれほどはっきりしていなかったため、社会的な尊敬がなかった。

 作品制作への金や権威の支援はなく大きなものは作りづらかったが、だからこそ自由にやることができた。


アメリカ ヨーロッパ 日本
強い産業 ハリウッド 芸術、文化 漫画、アニメ
モデル プロフェッショナル アート アンダーグラウンド
製作者 実力主義 貴族主義、階級文化 参加しやすい
消費者の集め方 宣伝と経済システム 価値と権威 参加と好み
クリエイターの評価 高い 高い(偉い) 低い
作品制作の自由さ 商業的理由に規定 芸術の文脈に規定 なんでもあり


 日本でも表現の規制を訴える人間は多いが、それでも海外の他産業と比較すればその影響は非常に小さい。日本ではまだそのような人達に対してうんざりできるほどの余裕がある。


 漫画においては、多くの作家に影響を与えた手塚治虫が積極的に性表現を取り入れ、「エロ」はミームのように現代までの漫画文化に伝わっているのだが、日本では消費者のニッチな需要を狙う産業の特徴とも相まって、ありとあらゆるエロへの探求が漫画という媒体で行われてきた。



 もともと、商用コンテンツにとってエロは非常に強力なものだ。ハリウッド映画にも美女が必ず登場するし、検閲の目が厳しいアニメーションなんかでは「バンビ」や「マイリトルポニー」など動物のキャラクターに性的な表現が取り入れられた。(だからアメリカ人はケモナーが多いらしい。)


 作品の「人気」から収益を得てきた日本のコンテンツにおいて、エロがいかに重要な武器だったのかは、現在の漫画やアニメやゲームを見渡してみればすぐに納得できるだろう。

 むしろその「エロ」表現は、意図的に描かれたというよりも、ほとんど様式のようなものになっていった。他の作家もやっているから自分も何となくやってみるみたいな感じで、とりたてて必要と思われないような大人気少年漫画にもお色気シーンがときどき描かれる。

 エロはもはや日本のコンテンツにおける様式のようなものであり、そして段々と、性的表現を行為そのものに結びつけるわけではなく、好ましさの記号として受け入れる文化が形成されてきた。


 それは、日本のコンテンツが写実(シミュレート)よりも、作為の部分に焦点を当てて作られてきたこととも関係しているだろう。映画の場合は現実の役者を使うのでそう簡単に性表現はできないし、やはり世界標準の考え方では、線画で描かれたエロも現実に近しいものとして考えられる。二次元のロリ美少女を好む大人はいつか現実の少女を襲いたいと思っている、というのは典型的な誤解と偏見なのだが、海外では下手をすればそのような考え方が一般的かもしれない。


 日本では、もともと現実と強いかかわりを持つはずの性表現が、様式として多用されることによって、「現実と直接結びついているわけではないがそれでも見た人を惹きつける記号」として使われるようになっていった。

 そしてそのような欲望を記号化する感性は、RPGにおいて数値の上昇にリアリティを感じることとも繋がっているだろう。


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子供文化と教育機能

 日本のコンテンツは、子供向けのマーケットを狙ったものでありながら、大人の消費にも耐えるものを意図して作られてきた。子供向けと大人向けの境界をはっきり分けない作品が多い。


 宮崎駿も「入口は低く広くて、誰でも招き入れるが、出口は高く浄化されていなければならない」ということを言っている。


出発点―1979~1996

出発点―1979~1996


 子供を惹きつけるほど親しみやすく、なおかつ以前よりも高いところに連れて行ってくれる学習機能を中に備えていることが、海外におけるジブリアニメや任天堂ゲームの評価にも繋がっている。

 日本のコンテンツはその内部に教育システムを持っていて、作品に親しんだ者を、消費者としても製作者としても育てていく効果がある。


もう一つの教育システム

 芸術や、ハリウッド産業もそうなのだが、公権力から評価されるような産業は、そのための教育機関(オフ・ザ・ジョブ・トレーニング)とも結びついてる。美術大学や映画大学はあるし、米国ではゲーム制作に専門の大学の課程が用意されている。

 日本のコンテンツは公教育から切り離されたアンダーグラウンドなものであり、漫画家やゲームクリエイターになるための道筋が整備されているわけではない。公的な価値や権威とは結びついていないが、誰もが何かの作品に感銘を受け、自分も作ってみたいと思うことでクリエイターになっていったのだ。


「漫画家になりたい」とか「ゲームクリエイターになりたい」というのは、親や世間からは普通褒められないものだが、しかし日本では「正統」な学校教育の裏側で、漫画やゲームがもう一つの教育システムを担っていた。

 日本のコンテンツは、「売れればそれで終わり」ではなく、消費者にも参加を求める。受け手が参加することによって、さらなる消費の促進と新しい作品の再生産が行われる。漫画雑誌や単行本では新人賞の開催のみならず読者イラストなどが募集されていた。敷居の低いイラストを起点に「何かを描いてみたい」と思わせることで、創作を促してきた。

 小規模の産業群は、消費者の参加意欲の厚みによって成り立っている。Twitterは日本人のつぶやきが一番多いし、2006年時点の調査では世界で最も多いのは英語ではなく日本語のブログだったらしい。何かを表現したいと思う日本人が多いのは、その参加を促す教育システムによる影響も少なくないだろう。漫画家が何気なくやっているようなコミックスの読者交流コーナーは、かけがえのなく重要なものだったのだ。


 海外では、基本的に子供が自分の好きな作品を選ぶ選択肢はあまりはなく、子供向け商品は親に売るものだとされている。しかし日本の漫画産業は「子供に選ばせる」ことを意識的にやっている。それこそ、漫画家は子供のお小遣いで生計を立てることも可能だったのだし、日本一の漫画雑誌である週刊少年ジャンプは徹底的なアンケート主義で知られている。アンケートは単行本を買うことのできない子供にも権限を与える仕組みだ。

 子供向け産業でありながら決して子供を見くびってこなかったことが、日本のもう一つの教育システムであり、日本型産業の強さに繋がっている。


バクマン。 1 (ジャンプコミックス)

バクマン。 1 (ジャンプコミックス)


任天堂という会社

 任天堂は、ハードのみならずソフトメーカーとしても海外にシェアを持ち、大規模化によって日本の家庭用メーカーの多くが低迷している中、革新的なゲームを生み出し続けている。それはほとんど奇跡を目の当たりにしているようにも見えるが、贔屓目抜きで見るなら、ノーマークの子供向け市場に安定したポジションを得ることができた点が大きいだろう。

 EAやアクティビジョンなど海外の強力なソフトメーカーは成人済みの年齢を対象にしたゲームを主に開発していて、子供向けにクオリティの高いゲームを作っている会社はあまり強くない。だから、任天堂は子を持つ親から安心して買い与えられるゲームとして認識されてきたし、「nintendo」は大人になると卒業するものだという風潮もある。


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 しかし任天堂は、家族みんなで遊んだり、子供でも遊べるが大人になっても遊べるクオリティの高い作品で、ファンを増やし続けてきた。

 また任天堂は日本のゲーム会社の中で、最も子供向けを意識して作ってきたメーカーでもある。ゲーム内での「上達」を一番重視してきたのが任天堂だ。上達が求められるゲームの一般的な例は「スーパーマリオ」だろう。



 次のステージに行くたびに難易度が上がり、最後のステージをクリアする頃には、プレイヤーは上達していなければならない。当たり前のことのように思えるが、現在においてもなおそのようなものを作り続けてきたのは、何かしら真摯なものがあったからだと思う。 「上達」の部分を数値に置き換えたのが日本のRPGであり、現在収益をあげている運営型ゲームもすべてそれだ。数値に置き換えてしまえば楽だが、「動き」だけで「上達」をデザインするのは難しい。

 逆に、任天堂は「上達」を数値に頼らず、「動き」の部分だけで教育システムを機能させ続けてきたからこそ、グローバル市場においても日本のコンテンツの特徴を武器にできていると言うこともできるだろう。


 任天堂はすでに海外市場向けの大規模な作品を目指し、日本型産業の土壌からは離れてしまっているように見えるが、「うまくできる」という電子メディアの「快」を根底に置いている点では、やはり日本の企業であり、それを子供でもわかるような直感的な操作で追求してきたからこそ、世界一のゲームメーカーであり続けているのだろう。



 14年ぶりの新作である「スプラトゥーン」は、電子メディアの「快」を追求しながら海外のゲームシーンも見事に取り込んだ、和ゲー文化の最先端を行く傑作だ。色をぶちまける幼児的な衝動と、訓練と状況判断が要求される対人戦の奥深さを両立させたゲームの世界観は、電子的な官能の極地を体験させてくれる。


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学校文化への憧れ

 漫画やアニメやゲームなどの日本のコンテンツは、正統文化からは否定されるものであり、その裏側でもう一つの教育システムを担っていることは述べた。


「正統文化」に対する「対抗文化」という考え方がある。ウィリスがやったイギリスの不良の調査や、ブルデューがやったフランスの社会階層についての調査などで見られることだが、ある「正統」なものに反抗してしまうことが、その正統性に同意を与えることにもなってしまう。対抗することはその正統性を認めることなのだ。


ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)


 ポール・ウィリスが調査したイギリスの労働者階級(野郎ども)は、正統的な教育とされる学校文化を自分たちで読み換え、そのアンチになることで自己を表現する。しかし正統なものを否定するということ自体がその正統なものに依存しているし、また正統な価値観(お勉強)を否定して自分たちの肉体労働を肯定することによって、自らキツい仕事を引き受け、正統文化(学校権力)の強化に力を貸してしまうという皮肉が指摘される。


 日本のコンテンツ文化は、正統文化(学校文化)とは対立する立場にあるのだが、しかしアンチというよりは、むしろ率直に「学校」への憧れを表現したものが多い。漫画やアニメではしばしば「学園」が舞台になり、そしてゲームでは、その構造に学校文化への憧れがあらわれている

 漫画やアニメにおいて理想の学校生活が描かれるように、ゲームにおいては誰もが「努力」できて、その成果が正しく反映されるシステムが欲望されている。


 海外から「一本道」と揶揄されるほどに単調で、ステージごとに区切りがしっかりあり、与えられた課題を忠実にこなしていくゲームシステム。目標をクリアするための努力が要求され、単調な作業を繰り返してレベルアップし、同じ枠組みの中で数字を上昇させていくことが喜びになるゲームシステムは、学校的価値への憧れから来ている。

 おそらく、日本の閉鎖的な学校空間の価値観を内面化していない人にとっては、ただ同じことを繰り返して数値を増やしていくだけの作業がどうして快いものなのか理解しづらいだろう。


 日本の運営型ゲームの多くが「レベル上げ」によって構成されている。

 プレイヤーに自覚があるのかはわからないが、限られた枠組みの中でのちまちましたレベル上げを楽しいと思えるのは、それが日本の学校権力に与えられた価値のメタファーであるからだ。誰もが簡単に「努力」できる電子ポルノの特性が、学校的価値と結びついているのが日本のRPGだ


 構造的にとても単調な日本のRPGは、アニメにおいて欲望が学園ものという形で表れるように、不自由な学校文化やその延長にある社会、すなわち正統文化が差し出す価値への追認である。正統教育の影にもう一つの教育システムを持っていながら、それは正統教育への憧れを秘めている。


 しかしあるいは、こうも言えるかもしれない。

 対抗することが結果的に正統なものの価値を認めることになるのなら、理想化することはその価値を貶めることにもなる。ゲームが学校教育や社会的成功を表現できているのなら、今いる制度や認識の中で僕達が欲望するものは、ゲームで味わえる程度のものにすぎない。それを踏まえてこそ、僕達は自分が本当に何を求めているのか考えることもできるし、もしつらくなればあえてその種のポルノに溺れることもできるのだ。


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中間形態の強さ

 日本型コンテンツは、中間形態としての強さを持っている。メディアミックスに見て取れるように、それぞれの境界が薄く、曖昧だ。

 ハリウッド映画などは、手の届かないほど大規模で高クオリティな作品なので、多くの観客はただ視るしかない。一方でゲームはプレイヤーが遊ぶための豪華なツールだ。つまり、「プレイヤーがコミットできないもの」と「プレイヤーが遊ぶためのもの」という分担が明確になっている。

 一方で日本の場合、「楽しませてもらうだけでは終わらない漫画やアニメ」と「操作が必要でありながら楽しませてもらうゲーム」というふうに、役割が曖昧になる側へ寄り合っている。作品ジャンル、作り手と受け手、プロとアマチュアの線引きが明確にならない巨大な中間の厚みが、その想像力の源泉になっているのかもしれない。


世界基準 日本→ ←日本 世界基準
能動 中間 中間 受動
ゲーム(世界) ゲーム(日本) 視聴作品(日本) 視聴作品(世界)
PvPゲーム PvSゲーム 漫画やアニメ 大作映画



 以上までで述べてきたような日本のコンテンツ文化の特徴が、「ガチャゲー」が成り立つ前提になっている。


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まとめ

「なぜ日本のソシャゲは国内で儲かり海外で流行らないのか?」というタイトルを回収しよう。


 海外基準で人気、つまりどの国でもランキングトップをとるような運営型ゲームは「プレイヤー対プレイヤー」であり、伝統的に「ゲーム」とされてきたものの延長にある。一方で、収益率は高いが日本国内でしか人気のないものは「プレイヤー対運営」であり、受け手と作り手の距離が近かった漫画やアニメの延長にある。


 日本の運営型ゲームが成立する土台は、多くの前提によって出来上がっている。


  • 日本のコンテンツ産業は中小規模の「群」であり、作品が見られた後の「人気」から主な収益を回収するビジネスモデルだった。
  • そのためにキャラクターが重要視され、メディアミックスで展開していく方法がとられてきた。
  • クリエイターの地位が低く規制が緩かったので、性的なものさえも記号として楽しむことのできる消費文化が形成されてきた。
  • 米国の学術機関で開発されたテクノロジーとしてのコンピューターゲームは、日本では漫画やアニメなど視聴作品の文脈でとり入れられた。
  • コンピューターゲームは「確信」の「快」による電子ポルノ的側面を持ち、和ゲーは特にその作用を追求してきた。
  • 日本のコンテンツは「入口は低く出口は高い」ものとして作られ、内部に教育機能を持っていた。漫画では受け手の創作を促し、ゲームでは「上達」が促される。
  • その上達が「数値の上昇」に置き換えられることで、世界的にはマニアックなジャンルの「RPG」が日本の国民的ゲームになった。
  • 日本のコンテンツは公権力から切り離されているが故に自由でもあったが、同時に公的(学校文化的)なものへの憧れを持っている。それはゲームにおいては与えられた目標に向かって努力する一本道の構造にあらわれている。
  • 学校的価値と、誰もが努力し成功できるゲームの電子ポルノ的側面が組み合わさり、単なる数値の上昇が社会的成功の記号としてリアリティを持つようになる。
  • クリエイターの作為に支えられてきた日本のゲームシーンは、ゲーム内で与えられる目標への承認を当たり前のものにしてしまった。
  • 「ゲーム」とは与えられた目標への努力であるという前提によって、運営の調整にプレイヤーが素直に従う「プレイヤー対運営」が可能になった。


 上記のような前提のもとに、「ガチャゲー」が成り立つ。


 ゲーム内の何らかの成功や達成は、学校的または社会的な成功(いい大学に入れるとか出世するとか)の代用品である。現実の異性の代用品としてAVがあるように、現実では難しい成功を手軽に味わうためのポルノとしてゲームがある。

 プレイヤーがそう意識していようといまいと、パズドラやモンストのような日本の運営型ゲームはそのような仕組みになっている。運営側は数値を調整しイベントやボーナスを繰り返すことによって、プレイヤーの心地よさと収益回収の両立を目論んでいる。


 和ゲーのポルノ的な側面は黎明期からずっとあったが、家庭用ゲームの時代はまだ「作品」であるという枷がついていた。「運営」が可能になることによって、ソーシャルゲームはそのポルノ的な側面以外を削ぎ落とし、「快楽装置の原型」をむき出しにしている。


「パズドラ」や「モンスト」が現在の成功に値するほど優れたコンテンツであるとは思わない。それらは今までの蓄積の上にフリーライドして、純粋に収益を回収するシステムのみを打ち出しているからこそ、これほど収益を上げていると考えることもできる。 「ソーシャルゲーム」と呼ばれていることからそのコミュニケーションに注目して語られがちだが、日本の運営型ゲームはコミュニケーションの機能がほとんど実装されていない。パズドラはほぼ無いし、他の協力要素があるとされるゲームも、基本的にはプレイヤーではなくキャラクターに焦点が当てられていて、操作しているのがNPCであっても役に立ちさえすれば(自分のポルノの邪魔にならなければ)何の問題もない類のものだろう。「クラクラ」のようにプレイヤー同士で対立、協力したり、チャットで会話できるわけではない。

 しかし、だからと言って日本の運営型ゲームにはコミュニケーションがないというのではなく、むしろ活発と言っていいだろう。プレイヤーの交流はゲームの「外部」にあり、掲示板、SNS,実況動画、コラボ先、二次創作、アンケートなどで行われている。

  日本の運営型ゲームはそれ自体で完結しているわけではなく、必要なコミュニケーションの部分を外部に委託しているのだ。その「外部」を共有できない海外ユーザーが馴染めないのは無理もなく、だからこそ「ガチャゲー」は国内で高収益を上げながら、海外では理解されにくいものになっている。


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おわりに

 日本のゲームは「ゲーム」なのか?という最初に述べた問題について、日本のゲームは、伝統的にゲームと呼ばれてきたものよりは漫画やアニメの延長にあり、中でも運営型ゲームは「ポルノ(快楽装置)」に近いものになっている、というのが僕の主張だ。

 日本のコンピューターゲームは、「確信」という電子メディアの「快」を追求するために「ゲーム」を取り入れた。そのような和ゲーが80年代、90年代と世界的に流行することで、「ゲーム」という概念自体が大きく変容したのではないかと考えることもできる。

 だが、それがゲームであるかゲームでないかというのは言葉の定義の問題にすぎない。重要なのは、そこに作為があるかどうかということであり、それが何を意味するかということだ。


「ガチャゲー」が大きく成功した理由は、目的を達成する手段であるキャラの入手をも目的にして「成功(自己に対する欲望)」と「所有(対象に対する欲望)」を関連づけ、さらにそれを課金システムに直結させたことだろう。


 しかし、「成功」と「所有」の一致は、「ポケモン」というゲームが最初にやり遂げたことだ。

「ポケモン」は、ほぼすべての日本の運営型ゲームの原型であると共に、最も海外に受け入れられたRPGでもある。

 アメリカではアニメ放映が先だったし、ゲームボーイというハードの力も大きかったのだが、それでもある程度ポケモンが海外に受け入れられたのは確かだろう。ポケモンの流行は、それが単に日本のコンテンツの土台の上だけで機能するものではなく、「入口は低く出口は高く」という和ゲーの教育機能を内部だけで実現できていたからではないだろうか。


ポケットモンスターピカチュウバージョン

ポケットモンスターピカチュウバージョン


 そもそも、ポケモンの製作者である田尻智が試みたのは「シミュレーション」だった。彼は工業化によって失われた自然を子供たちに再体験させるようとポケモンを作ったのだ。自然の対象は、記号と数値の差異で新しいリアリティに変換された。「ドラクエ」や「女神転生」や「MOTHER」を踏まえ、ポケモンはJRPGの一つの完成形に到達したと言っていいだろう。


 ポケモンのシステムを真似しながら、しかし最も重要な部分を削ぎ落としたことによって、今の日本の運営型ゲームが成り立っている。

 それは「出会い」だ。


 ポケモンというゲームにとって、旅をすること、そして新しいものに出会うことは、何よりも重要なことだった。当時の製作者がそこまで意識していたわけではないだろうが、現在から眺めてみれば、そこに込められた祈りのようなものにたじろいでしまう。


 「思っていることが、思っているとおりに実現する」ためのポルノであるゲームにとって、ストーリーや出会いは邪魔なものでしかない。はじめから「当たり」と「外れ」がわかっているからこそ「ガチャ」が成り立つ。リセマラから始まるゲームに「出会い」は存在しない。


 作られた当時は安易でなかったものが、単なる「手法」へと純化されてしまった。コンピューターゲームが背景の技術によって大きく変化してきたものである以上、「ガチャゲー」もまた必然であり、誰も文句を言うことができないものなのだけれど。



 僕は以前、「作為」が「手法」変わっていく問題について、長めの記事を書いたことがある。

 今ではソシャゲも仕方ないのかなとは思っているが、根本の主張はそんなに変わっていないと思う。


 そして次に書いたのが、こういうソシャゲを作ったらいいのでは? という記事だ。

 本記事で述べてきたような日本のコンテンツの特徴を活かして、ソシャゲの「手法」を学習に向けてみればどうかという話なのだが、あまり注目はされなかった。


 前回、前々回の記事ではゲームそのものに焦点を当ててきたのだが、今回はそのゲームを成り立たせる背景の分析として記事を書いた。そこで出てきたのが、「日本でゲームと呼ばれているものは伝統的な意味でのゲームなのか?」という問題、和ゲーが流行した時期に「ゲーム」という概念が大きく変容してしまったが、そのことに皆あまり気づいていないのではないかという問題だ。

 これに関してはもっとちゃんと調べる必要があると思っている。「日本のゲームは本当にゲームなのか?」というタイトルにしなかったのは怖気づいてしまったからである。できればまたいつか考えをまとめて論じたい。


 最後にさらっと僕のソシャゲに対しての今の考えを述べておくなら、別にソシャゲをやるのは何も悪いことではないと思う。ただし、自分が何を欲望しているのかには自覚的になるべきだ。

 アダルトビデオを、それがポルノだという認識なしに見ている人は危険だろう。同じように、ソシャゲにおける単調な作業を繰り返す理由を、ただ「面白い」とか「暇だから」とぼんやり思うのではなく、それが自分自身の欲望を反映しているポルノであるという認識を最低限持っておいたほうがいい。


 ということで、今回は以上です。長くなりましたが、最後まで読んでくださった方はありがとうございました。もし感想とか何かありましたらTwitterアカウントもしくはメールアドレス(bunjinsyobai[at]gmail.com)までどうぞ。



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