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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

社会学の名著30

本の感想 社会 おすすめ

 社会学の名著を30冊紹介していく本。社会学には特定の問題を分析、解決するために考えだされた理論が多いので、自分の関心に近い研究を探すインデックスとしても役立つ。

社会学の名著30 (ちくま新書)

社会学の名著30 (ちくま新書)

 著者は『丸山眞男の時代』などを執筆した竹内洋。導入の仕方なども工夫されていて、基本的な要約と解説がおさえられながらも楽しく読める。著者の思い入れの強い本を紹介してる感じだが、多分すごく良い人なんだと思う。


ピーター・バーガー『社会学への招待』(1963)

社会学への招待

社会学への招待

 社会学はどのようなアプローチをするのか、社会学的洞察をすることにどんな意味があるのか、達人社会学者がユーモアとエスプリの利いた文体で贈る社会学の入門書。

 社会学は普段見慣れたものを扱い、その背後にある現実の構造を見通すことを試みる。例えば、好きになった人と結婚したいと思ってしまうこと自体、私達がいかに社会に刻印されている存在かを示している。「ものごとはみかけどおりではない」とし、現実の暴露、体裁の剥ぎ取り、相対化をなす。そのため社会学を学んだ者は保守運動にとっても革命運動にとってもやっかいな輩であり、そのような意識は単なる冷笑家の道に繋がりかねない危険もある。社会学には目が眩むような効用はないが、ちょっとした苦痛を和らげ、少しだけ人生を楽しくすることができるかもしれない。


ランドル・コリンズ『脱常識の社会学』(1982)

脱常識の社会学 第二版――社会の読み方入門 (岩波現代文庫)

脱常識の社会学 第二版――社会の読み方入門 (岩波現代文庫)

 人間は論理的・合理的・理性的であろうとし、そのために物理学や経済学などが作られた。しかし、合理性を行為や社会の存在基盤とする説明は神話にすぎない。社会そのものの存在基盤が、究極的には論理的嗜好や合理的協約ではない非合理な基盤にある。そのことを明らかにしたのが社会学であり、そうした視点から社会を見直していくことが社会学の面白さだ。

 先のピーター・バーガーが「見慣れたものの意味が変容するのを知るときの興奮」を味わう本なら、コリンズの本書は「なぜ物事がある一定の仕方で起こり、別の仕方では起こらないのかを理解する」ことによって世界についての知識を広げていくことに楽しみを見出す。


エミール・デュルケーム『自殺論』(1897)

自殺論 (中公文庫)

自殺論 (中公文庫)

 社会を構成しているのは個人であり、社会現象の原因は個人に還元できる、という論理の筋道ほど俗耳に入りやすいものはない。しかし、社会が個人の意志や欲望だけで説明できるものであれば、そもそも社会というものは存在しない。

 自殺は一見自殺者の個人的気質の結果のように見えるが、それぞれの社会集団に「人々を自殺へ駆りたてる、一定の効果をもったある集合的な力が存在」していることを、デュルケームは自殺率の調査を通して示した。純粋な個人行為と見なされがちだった自殺は、実は社会の集合的傾向から発生すると結論づけられたのだ。


ゲオルグ・ジンメル『社会学』(1908)

社会学―社会化の諸形式についての研究〈上〉

社会学―社会化の諸形式についての研究〈上〉

 ジンメルはドイツの哲学者・社会学者だが、彼が社会学を大学のカリキュラムに入れようとしたところ、いまさら新しく扱う対象が残っているとは思えないから、そんな学問はありえないと言われたらしい。デュルケームは個人に還元されない「集合意識」や「制度」など社会的事実という概念を発見することで社会学の領域を確立したが、ジンメルは「社会化の形式」という独自の概念を発見することで社会化の新たな領域を作ろうとした。

 政党、会社、学校など、各集団に起こる相互作用の「内容」はそれぞれ異なっている。しかし、相互作用の「形式」に着目すれば、支配・服従や競争・党派形成などの形式を、いかなる集団にも共通に見つけることができる。ジンメルの功績によって「形式社会学」という方法論が広まることになった。  

カール・マルクス/フリードリッヒ・エンゲルス『共産党宣言』(1848)

マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)

マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)

  • 作者: マルクス,エンゲルス,Karl Marx,Friedrich Engels,大内兵衛,向坂逸郎
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1971/01
  • メディア: 文庫
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 本書は共産主義者同盟の綱領であり、「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」という歯切れの良い文からはじまる。貴族と平民、領主と農奴がそうであるように、圧倒する者と圧倒される者が対立して闘争をおこなってきたのがこれまでの歴史であるとする。人間集団を利害の坩堝としたマキャベリやホッブスを闘争モデルの先駆者として見ることもできるが、「矛盾」や「闘争」を社会変動の構造的源泉として体系的に展開したのはマルクスが最初だ。

 社会主義国の崩壊や生活水準の向上で本書が持っていたオーラは消えたが、社会理論としての重要性を失ったわけではない。マルクス理論は、社会についての「統合モデル」に対応する「闘争モデル」の原型だからだ。「統合モデル」は、社会の要素が統合されて秩序を形成しているという見立てであり、「闘争モデル」は社会の要素が矛盾し葛藤していて、そのことが社会に変動をもたらすという見立てだ。


マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 資本主義…際限なく金を稼ぐ、という考え方は強欲さから来るようなイメージがある。しかし、近代資本主義が成り立つために必要だったのは「禁欲」だとウェーバーは言う。資本主義の精神がまだ根付いていない時代、労働集約を高めるために行われた出来高制は「報酬の多いことよりも、労働の少ないことのほうが彼を動かす刺激だった」と述べられるように、人をあまり働かせない方向に作用した。人は生まれながらにできるだけ多くの貨幣を得ようと願うわけではなく、勤勉はむしろ不自然な状態なのだ。

 ウェーバーは、資本家や企業経営者にプロテスタントが多いことに着目した。プロテスタントはカトリックと比較して非世俗的・禁欲的な教義を持つ。神に救われる人間はあらかじめ決まっているが、その兆候は現世の成功という形で現れる。つまり、現実において努力でき成功できるということが、自らが救済に値する証なのだ。このような絶対不安に根ざす自己確信への禁欲的努力によって、人々は勤勉と節制に励む近代資本主義の担い手になる。


ノルベルト・エリアス『文明化の過程』(1939)

文明化の過程〈上〉ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)

文明化の過程〈上〉ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)

  • 作者: ノルベルトエリアス,Norbert Elias,赤井慧爾,中村元保,吉田正勝
  • 出版社/メーカー: 法政大学出版局
  • 発売日: 2010/10
  • メディア: 単行本
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 中世の作法指南書には「食卓越しにも、食卓の上にもつばを吐いてはいけない」とある。言い換えれば、当時は食卓や手洗桶につばを吐いていたということだ。16世紀になると「つばを吐いたときはどこであろうと、必ずつばを踏み消すようにしなければならない」となり、18世紀には「ハンケチの中に吐くのがよい」とされ、痰壺が用意される。20世紀には人目につかない場所に痰壺を置くのがマナーになり、やがて痰壺は消えてしまう。つばを吐きたいという欲求さえもが消えてしまったかのようだ。

 痰壺の変遷は、必ずしも衛生観念の浸透によって起こったわけではない。礼儀作法書には「他人がいるところでは」という言葉が頻出する。他人の思惑に注意を払うことが文明化の原動力になっているのだとエリアスは言う。文明化の原動力である他者への配慮は、外的共生から自己抑制という内的強制となり、心の状態が変革される。

 このようにして、激しい感情を押しやるための「無意識」が作られる。かつては他人との戦いの中で解消されていた緊張や激情が、自己抑制によって押し殺され、戦場が個人の心の中へ移されるようになった。


ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』(1962)

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究

 公共圏が存在しなければ、為政者に対する反対は内乱などの暴力によって行われなければならない。それを避けるために「公論」という政治的公共圏が存在し、為政者は常にそこで支配の正統性を示す必要がある。

 古代ギリシャではポリス(公)とオイコス(家)とが画然と区別され、公的生活はアゴラ(広場)を舞台に「対話」と「共同の行為」として展開した。中世封建世界においては、君主や貴族、聖職者がその地位と偉大さを儀式や祭典で誇示する「代表的具現」という公共性が支配を正当化した。16世紀から封建制の解体が始まると、国家が公の権力を担うようになり、それに対比して私人の領域である「市民的公共圏」が誕生する。ロンドンのコーヒーハウスやサロンに代表されるように、そこでは自由闊達な議論が繰り広げられた。

 しかし社会福祉国家時代に入ると、国家の誕生によって分離したはずの「公」と「市民社会」が再融合しはじめ、画一化を強制する公共圏の暴力化が生じる。すなわち公共圏の「再封建化」だ。公共性の転換過程をたどった本書だが、インターネットの公共性がどのようなものか考える際にも大きなヒントを与えてくれる。


ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(1975)

監獄の誕生―監視と処罰

監獄の誕生―監視と処罰

 かつて、英国の名門パブリックスクールでは、放課後に生徒が密猟に出かけたり酒場で飲酒したりすることは放置されていた。教師の目に届かない時空間は生徒の領分であり、生徒の独立心を養うものとされていた。ところが19世紀前後になると学校側は寮の門限を早めたりして生徒の領分を取り上げ始める。やがて管理が進むと、生徒が今何をしているかわかるようになり、さらには数時間後の生徒の行動が予測できるまでになる。そのような監視の網の目が広がることと対応して、パブリックスクール名物である鞭打ち(体罰)が減少していく。

 フーコーが描く監視社会の権力は、暴力をともなった抑圧し禁止する権力ではなく、日常的社会実践を通して作用する権力だ。それは、時空間を組織化し、身体を部品化し、各人が自分自身へと自発的に強制を働かせるように仕向ける。今や権力は、社会が作り上げた様々な仕掛けの中に染み付いているのだ。


オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(1930)

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

 本書は、第一次世界大戦後のヨーロッパを舞台に誕生した大衆の心理をえぐり出している。オルテガは大衆のことを「自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである」と述べている。

 19世紀から科学は専門分化することによって発展してきたが、オルテガは科学者を「彼は自分が専門に研究している狭い領域に属さないいっさいのことを知らないことを美徳と公言し、総合的知識に対する興味をディレッタンティズムと呼ぶまでになった」と糾弾する。科学者は部分的に知者であるが、それ以外の広大な領域に触れないでいて、それでいて傲慢に振る舞う。かくて専門家こそ、「たちの悪い大衆」ということになる。


ディヴィッド・リースマン『孤独な群衆』(1950)

孤独な群衆

孤独な群衆

 アメリカの社会学者の書いた本だが、日本では1995年までに143万部以上を売り上げた大ベストセラーである。

 リースマンの分析では、習慣などの伝統に同調し無難に生きることを旨とする「伝統指向型」、どこかで植え付けられた目標や内面の声に従って人生を突き進もうとする「内部指向型」、外部からの信号に耐えず細心の注意を払い他者の気持ちを斟酌しようとする「他人指向型」の個人や組織や社会がある。社会の複雑さが増すと「伝統指向型」が上手くいかなくなり、三次産業が増えると「内部思考型」の頑張りがそれほど重要ではなくなる。「他人指向型」の時代には、友人や同輩、マスメディアなどの他者との折り合いが大きな課題になるのだ。


マーシャル・マクルーハン『メディア論』(1964)

メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相

 マクルーハン理論の核心は「メディアはメッセージである」という言葉にある。常識的には、テレビや新聞やラジオなどのメディアで流れるメッセージの内容が大切であるとされるが、マクルーハンはメディアという器それ自体が固有の作用を持っていると言う。メディアで表現される中身や内容ではなく、メディアそのものの固有の効果を指摘するのだ。

 かつては話し言葉(聴覚中心)の時代だったが、活版印刷の発見によって書き言葉(視覚中心)の時代になると、感覚革命が起こり、印刷媒体の均質性、画一性、線形性、反復可能性の経験が工業生産やマーケティングの基礎となる。視覚という単一感覚だけに作用する印刷技術は専門分化をもたらし部族社会を解体させたが、テレビが登場すると、全身感覚に作用するテレビは専門分化を促さないから、かつての「直感」と「統合的共感力」が取り戻される。このような「再」部族化は、地球村という「グローバル・ヴィレッジ」の誕生につながるという。


ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』(1970)

消費社会の神話と構造 普及版

消費社会の神話と構造 普及版

  • 作者: ジャンボードリヤール,Jean Baudrillard,今村仁司,塚原史
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 1995/02
  • メディア: 単行本
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 本書が刊行されたのが70年で、日本で翻訳が出たのが79年だが、「消費(する)」という言葉は、最近までは経済学の専門用語以外でほとんど使用されていなかったらしい。しかし近年ではあらゆる現象に「消費」という言葉を使うようになった。

 消費社会では、人々はモノをその使用価値において消費するのではなく、自分を他者と区別する記号として消費する。また、それは単なる顕示的消費に終わらず、個々人がそのような消費を実践することでそれぞれが差異の秩序の中に位置づけられ、秩序そのものを再生産する。消費社会(=成長社会)は常に消費者を必要とし、人々に消費の仕方を学習させる。消費のイデオロギーは未開社会における身分的儀式や宗教的儀式と同じように社会全体の統合イデオロギーとなり、人々の生活をもっと楽にするのではなく、人々を消費というゲームの規則に参加させるよう訓練する。


カール・マンハイム『保守主義的思考』(1927)

保守主義的思考 (ちくま学芸文庫)

保守主義的思考 (ちくま学芸文庫)

 保守主義の特徴は、抽象的な理念ではなく、現存する具体的なものを愛好することだ。社会科学者(理論信仰)には進歩主義者が多く、文学者や芸術家(実感信仰)には保守主義者が多い傾向がある。

 フランス革命は本国において貴族、国王、教会の間に防衛同盟をもたらしたが、社会の組み立てが違っていたドイツにおいてはイデオロギーとしてだけ影響を与えた。ドイツでは貴族と官僚との同盟が解体され、文筆知識人と貴族が結びついた。そこで生まれたのが、知性より感情を、理性より想像力をという「ロマン主義的保守主義」だ。これは官僚的合理主義とブルジョア的合理主義への対抗理論や運動となった。


ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』(1983)

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

 本書はナショナリズム研究のブレークスルーをなした画期的な作品だ。ある国民が一生の内で会い、知ることのできる人の数は限られているにも関わらず、彼は国家を信じ、同じ国家にいる匿名の国民の同時的な活動について確信している。国家は「想像の共同体」なのだ。

 アンダーソンは、「想像の共同体」としての国民という思考様式の原型を、イスラム共同体やキリスト教世界などに求める。しかし、それらは科学や経済的発展が進むにつれて崩れていく。そして新しい想像の様式が必要になったのだが、この再編に大きな役割を果たしたのが出版資本主義(プリント・キャピタリズム)だ。そこでは教科書に使われるような「出版語」が重要になる。口語での会話ではお互いを理解することが困難だったが、印刷物で共有される共通の言語が、読者同胞を「想像の共同体」として国民化する。


ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン』(1979)

ディスタンクシオン <1> -社会的判断力批判 ブルデューライブラリー

ディスタンクシオン <1> -社会的判断力批判 ブルデューライブラリー

 デュルケームをはじめ、これまでの社会学者が文化の社会統合機能に着目してきたのに対し、ブルデューは文化の支配/服従作用に着目している。文化や教養という一見無償の行為が、実は物質的、象徴的利益の最大化に向けての実践であり、階層化や選別に関与していることを明らかにした。

 ブルデューはフランス南西部の村で郵便局員の子供として誕生した。秀才だった彼は高等師範学校に入学したが、自分のように地方の庶民階級出身の学生が少ないことに気がつく。彼は自分も文化階級としてシステムを忠実に再生産することを望まず、ブルジョア文化と密通している正統文化のからくりを暴き、階層現象を徹底解剖した。


作田啓一『価値の社会学』(1972)

価値の社会学 (岩波モダンクラシックス)

価値の社会学 (岩波モダンクラシックス)

 作田啓一は日本の社会学者で、タテマエとホンネという日本の価値システムと社会システムの接合の問題にふれている。この二つの社会システムはそもそも葛藤を孕んでいる。価値(望ましさ)はどのような状況に対しても一貫することを要請するが、行為の体系である社会は外部の環境と交渉しながら存続していかなければならないという現実的要請があるからだ。

 タテマエとホンネはどの社会にもあり、問題とされるべきはその分離の特殊形態である。近代日本はアジアの他の社会に比べると伝統的価値の近代的価値に対する抵抗力が弱く、近代的価値がタテマエとして許容され、伝統的価値がホンネとして使い分けられた。しかしその使い分けが意識的にも合理的にもならず、「タテマエの姿をしたホンネ」や「ホンネの姿をしたタテマエ」という相互浸透が見られることに日本の特徴がある。


姫岡勤『家族社会学論集』(1983)

家族社会学論集 (1983年)

家族社会学論集 (1983年)

 本書は姫岡勤の十三回忌を記念してまとめられた論文集だ。本論文が発表された1944年頃は、現在から比べればはるかに義理や人情という言葉が日常語として使用されていたが、やはり衰退期ではあり、義理人情の感覚は近世封建社会が全盛期だった。本論文が「社会学的」社会意識研究であるのは、義理を近世封建社会の独特な社会関係をもとにして解いていることにある。武士の主従関係にみられる垂直的社会は上下関係における義理、村落民の隣交関係である水平的社会は平等関係における義理の特徴をあらわしている。

 本書には「義理」の他にも、「家父長的支配」「考の観念」「親子関係」「夫婦の上下関係」などにふれた論文が収められている、近世封建社会の社会意識研究の金字塔である。


アーヴィング・ゴッフマン『行為と演技』(1959)

行為と演技―日常生活における自己呈示 (ゴッフマンの社会学 1)

行為と演技―日常生活における自己呈示 (ゴッフマンの社会学 1)

 前近代社会の人なら、見知らぬ者が話しかけてきても不愉快や敵意をあからさまに表出したが、現代に生きる我々は丁寧に応じる。人格崇拝は、相互に敬愛し合うことで面目を維持する儀礼によって保たれる。キャッチセールスが成り立つのもこのような人格崇拝とそれを維持する面目保持の儀礼を共有事項としているからである。

 誠実であろうとするか悪事を働こうとしているかに関係なく、人はオーディエンス(他者)に向けてパフォーマンス(演技)をする。不信を招くような表現を排除し、さらに意図しなかった意味をオーディエンスが読み込まないように、常に適切な演技をすることが求められる。


ハロルド・ガーフィンケルほか『エスノメソドロジー』(1967)

エスノメソドロジー―社会学的思考の解体

エスノメソドロジー―社会学的思考の解体

 社会学にはエスノメソドロジーという方法論がある。「エスノ」=「人々」の「メソッド」=「やり方」についての「ドロジー」=「学」だ。

 客観主義のように出来事を外側からアプローチするのではない。あくまで参加者の認知や意味付けが場面のなかでどう作られていくかについて、場面を構成している人々の側からアプローチする。人々は日常活動を無意識のうちに合理的で納得のいくようにおこなっているが、そこでの行為や規則は自明視されていて意識されない。そうした暗黙の認知や意味付けという「現場の知識集成」を拾い上げ記述することによって、どのように秩序が形成されているかを明るみに出す研究手法である。


ピーター・バーガー/トーマス・ルックマン『日常世界の構成』(1966)

日常世界の構成―アイデンティティと社会の弁証法

日常世界の構成―アイデンティティと社会の弁証法

 社会学のアプローチとして、個人より前に社会があって個人はそれに規定されているとする立場の「社会決定論」と、社会はその部分である個人の営為の総和として説明されなければならないとする「主体構成論」がある。本書はこの両者を知識や意味によって架橋して、社会が人間の産物であり人間が社会の産物であることを同時に把握する視座の確立を試みている。

 副題は「知識社会学論」であるが、知識社会学が論理的な思考、大きな思想、イデオロギーを対象にしがちだったのに対し、本書は電話のかけかたなどの処理的な知識を含んだ、知識と言われるものすべてを対象にしている。


ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』(1977)

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

 本書はイギリス中部の工業都市にある新制中等学校で行われたエスノグラフィーである。エスノグラフィーとは聞き取りや参与観察によって特定の集団の生き方を記述していく研究方法のことだ。「野郎ども」と言われる学業の落ちこぼれは、優等生を軽蔑することで積極的に落ちこぼれを選択している。それは、野郎どもが彼らなりに学校社会の読み取りを行い、自分たちの流儀で読み換えるからだ。

 学校とは教師の手元に貯蔵された知識を「尊敬」と「従順」の見返りに少しずつ受け取る空間である。しかし、それは今の貴重な時間を犠牲にしてしまうことであり、そのような犠牲のうえで得られる事務員の仕事などは「女々しい」ものなのである。このような野郎どもの価値観は、「反抗」文化が「底辺」労働を積極的に引き受け、かえって社会的再生産をもたらしてしまうという逆説を含んでいる。


イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』(1970)

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)

 学校には、教師が言明したり教科書に書かれている公式カリキュラムとは別に「隠れたカリキュラム」がある。そのカリキュラムは誰にでもはっきりわかるのに、その言明の作用は隠されている。ひと昔前までは、校長や教頭が男で女性はみんなヒラの教師だったから、いくら授業で男女平等と謳っても女性は管理職になれないということを子供たちは暗黙に学習した。例えば教科の時間割の比重なども、これといって言明はしなくとも生徒に各教科の重要性の違いを伝達してしまっている。こうして見ていくと、最大の「隠れたカリキュラム」は「学校」という装置それ自体ということになる。

 学校を通して価値を受け取るようになると、想像力が学校化されてくる。かつて宗教と教会の同一視が起こったように、教育と学校の同一視が起こる。制度によるサービスを無批判に受け入れるようになり、やがは教育だけでなく社会全体が学校化される。卒業したからと言って学校という装置から解放されるわけではないのだ。


上野千鶴子『家父長制と資本制』(1990)

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)

 階級間で差別が産まれる階級支配と、男女間で差別が産まれる性支配との関係は、互いに葛藤し反発することもあれば、両者が調和して支配が強化されることもある。本書は現在の資本主義において、その作用が性差別にも加担していることを見抜いた。

 前近代社会では、生産労働(物やサービスの生産)と再生産運動(人間の生産)は一体のものだったのだが、近代社会においては両者が切断され、家事労働などの再生産労働は家族という私的領域のものとされるようになった。「男はソト、女はウチ」と言われるような、市場労働を男性、家庭労働を女性に割り振る価値観は、資本制と家父長制の調停形態である。「女子供」を市場の外の「近代家族」に追い出し、家事を不払い労働とすることで家父長的支配を貫徹させたからである。このようにして、女性は資本制における抑圧・搾取と同時に、家父長制による抑圧・搾取も受けるようになる。


アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?』(1990)

近代とはいかなる時代か?―モダニティの帰結

近代とはいかなる時代か?―モダニティの帰結

 「自滅予言」や「自己を実現させてしまう予言」というものがある。労働者の生活改善をしなければ反乱が起きる、みたいに、その予言が正しいからこそ、正しい対応策がとられることで予言が外れてしまうことがあり、銀行の破産のように、虚偽の噂が連鎖的に新しい行動を呼び起こし、最初の誤った予言を真実にしてしまうことがある。社会科学にはそのような知識と実践のフィードバックと循環があり、それを「再帰性」と呼ぶ。

 近代社会では、社会的知識の「再帰性」によって複雑性が増幅し、意図しなかった帰結がつぎつぎと生じる。情報や知識が世界を透明度の高いものにしながらも、再帰性のために思わぬ結果がふいに現前してしまう。


アーリー・ホックシールド『管理される心』(1983)

管理される心―感情が商品になるとき

管理される心―感情が商品になるとき

 他者への気配りと配慮を旨とする労働を「感情労働」と呼ぶ。かつては「肉体」労働が一般的だったが、サービス産業の拡大によっていまや「感情」労働が一般的になっている。肉体労働や頭脳労働において、仕事が標準化され単純化されることによって意思決定が企業の上層部に集中独占化されることが指摘されてきたが、同じことが感情労働にも起こっている。企業の上位層によって感情規則や感情管理のマニュアルが作成され指令されるから、労働者個人が感情労働を自分自身で制御できなくなっている。

 大人は子供を小さな感情労働者として躾けるようになる。癇癪を起こしてカーペットにインクをこぼした子どもは、カーペットを駄目にしたことよりも癇癪によってそうしてしまったことを咎められる。行動よりも感情へのサンクションが行使されるのである。そして、感情を管理され自分でコントロールしようとするほど、「自然な感情」に価値が産まれる。感情労働の時代だからこそ「いったい自分は本当は何を感じているのか?」という感情探しが恒常化する。


ロバート・D・パットナム『孤独なボウリング』(2000)

孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生

孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生

 米国ではボウリング人口が増加しているのに、リーグボール(地域のボウリング場に定期的に集合しておこなうチーム対抗試合)は減っていることから、「社会関係資本」が衰弱している象徴とされている。社会関係資本とは、社会的ネットワークとそこから生じる互酬性と信頼性の規範である。

 たとえ市民的美徳が豊かであっても、孤立した人間関係の中では美徳は力にはならない。市民的な美徳が互酬的なネットワークに埋め込まれているときにこそ美徳は強力なものとなる。本書はこのような人々の間の互酬性の量と質の変動とその帰結を、米国各地の文書館などから収集した膨大なデータをもとに分析している。20世紀初頭から社会関係資本は上がり続け、70年代から衰弱してきたという。その原因は、時間的、金銭的プレッシャー、郊外化、テレビなどがあるが、もっとも重要な要因が世代的変化だ。市民的活動を活発に行った10年代-40年代生まれの世代が、市民的関心のない子どもや孫に変わり、これが最も大きい社会関係資本衰退の原因になった。


ウルリヒ・ベック『危険社会』(1986)

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

 原始時代の危険はわかりやすかった。旅に出れば事故に合う可能性があり、衛生環境が悪ければ死亡率が高まる。このような危険は近代化の不足によるものだ。そして様々な危険が近代化によって取り除かれた。しかし、現在我々が直面している地球温暖化や放射能汚染などの危険は、伝統社会にに原因があるものではなく、近代化の原理そのものによって生み出された災禍だ。近代化が生み出した「危険」は、目に見えるわかりやすいものではなく、何らかの知識や計測機器がなければ把握できない。さらに、そのような危険は放射能が人体に与える影響のように、それがどのようなものかはっきりせず、議論と解釈を必要とする。。

 ベックは、このような社会を「再帰的近代社会」であるとする。「再帰的」という言葉は、自己に対峙していくという意味で使われている。このような再帰的近代における危険に対処するには、その危険の定義をめぐる闘争から始めなければならない。


中山茂『歴史としての学問』(1974)

歴史としての学問 (中公叢書)

歴史としての学問 (中公叢書)

 著者の中山茂は日本の科学史家だ。あるパラダイムにそって元素についての画期的な研究方法がなされると、パズル解きのように水素やヘリウムなど元素の体系が明らかになる。しかし、既存のパラダイムに沿ったパズル解きでは説明できない現象が別の方法で説明されると、今までのパラダイムが棄却されて「パラダイムシフト」が起こる。古典物理学に対しての量子力学、ニュートン力学に対しての相対性理論はパラダイムシフトの所産である。

 19世紀のアマチュア科学者なら、アイデアが無くなり興味を失えばその分野をやめて別の対象を研究すればよかった。しかし現代のように科学の専門職業化が成立すると容易に他の分野に移ることができず、専門職業化集団の中で認められることが目的になる。そしてその立場を自己弁護するために「科学のための科学」が始まる。明治日本では、政府が大きく介在して大学などの受け皿をつくり、学問集団がその後に形成された。そのために本場よりもますます学問分野のギルド的性格が強い。


ピエール・ブルデュー/ロイック・ヴァカン『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』(1992)

リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待―ブルデュー、社会学を語る (Bourdieu library)

リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待―ブルデュー、社会学を語る (Bourdieu library)

 本書は、ブルデューの授業をもぐりで受講して社会学の虜となり、アメリカで活躍するようになったヴァガンと、ブルデューによる合作本だ。ヴァガンが質問をしてブルデューが答える形式の社会学ライブも入っている。

 本書の眼目は、社会学が客観性に近づくための自省性(リフレクシヴィティ)の焦点化にある。社会学は人々の実践の条件づけとなる社会的要因を探索するが、それならば観測者である当の社会学者の社会的実践についても自省されるべきだろう。客観化する主体である社会学者自身をも客観化しようとする試みだ。これは単なる酔狂な遊びではなく、社会学という客観性が揺らぎやすい学問には不可欠な作業になった。




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