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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

フーコーの「権力」

 何が人間を「正常」と決めるのか。人が「正常である」という規範的な考え方を受け入れるようになるのはどうしてか、それを強制するのはどのような種類の権力なのか。


 ミシェル・フーコーは同性愛者であり、「正常である」ということについて悩み続けた哲学者だった。そして、フーコーは人間の「真理」や「本質」という考え方そのものを侵犯しようと試みる。


治療の逆説

 フランスで狂人を監禁施設から解放したピネルという伝説的な人物がいる。彼のエピソードは事実の裏付けがない神話らしいが、多くの狂人を奇跡的な手際で監禁施設から救い出したと伝えられた。

 自分のことを将軍だと信じきっている鎖に繋がれた狂人に、ピネルは自分の奉公人になってくれるなら鎖を解いてやろうかと提案する。すると奇跡が起こり、その狂人の中に忠実な召使の美徳が目覚めた。

 ピネルが解放した患者は正気に戻ったわけではなく、ただ社会的なパターンに従って行動できるようになっただけだ。ある「まなざし」を与え、心に道徳を植え付けることによって、狂人は鎖から解放される。身体を鎖で縛るのではなく、心を鎖で縛ること。社会的で道徳的な自己を確立させることが「治療」になる。

 自己を疎外する社会の中に、自己を疎外したまま復帰することを要求すること。自己を完全に疎外することによって治療が実現される、という奇妙な逆説がある。


フーコー・コレクション〈1〉狂気・理性 (ちくま学芸文庫)

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パノプティコン

 おそらく、フーコーの思想で最も有名なものが権力論だろう。フーコーが示した「権力」の概念は、当時主流だったマルクス主義的な権力論を根底から覆すようなものだった。権力は単なる政治的な力関係や権力装置ではなく、それを信じる主体同士の関係の中で発生するものだ

 フーコーは、外部からの暴力としてではなく、主体の内部から機能する力として権力を分析する

 これまでの権力は「排除する」「抑圧する」「隠蔽する」「取り締まる」などの否定的な用語で考えられてきたが、フーコーの示した権力は、人々を内側から動かし、人々の主体そのものを作り上げていく機能を果たす。


 「パノプティコン」はイギリスの功利主義ベンサムが設計した刑務所だが、ベンサムは、「犯罪者を恒常的な監視下におけば、彼らに生産的労働習慣を身につけさせられる」と主張していた。


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 フーコーはパノプティコンという装置を近代の資本主義社会の基本的なモデルと考える。被支配者は、自分に注がれる「まなざし」の可能性によって、物理的な暴力無しに精神と身体を拘束され、その道徳性を向上させて生産性を改善する。

 ここでも、狂人の監禁施設と同様の逆説が見られる。自由な社会は、自由な個人によって形成されるのではなく、その反対に、身体を調教され精神を監視する大きな「眼」を内部に埋め込まれた主体によって作られる


監獄の誕生―監視と処罰

監獄の誕生―監視と処罰


生-権力

 近代以前の王の権力は「死を与える権力」だったが、近代において私達が晒されているのは「生を与える権力」であり、フーコーはそれを「生-権力 bio-pouvoir」と呼んだ。「生-権力」とは、住民の生死、疫病、出生率、死亡率をターゲットとする権力であり、ここにも逆説がある。

 国家が戦争という形で大衆を虐殺し始めた時代は、同時に国家が国民の健康に気を遣い始めた時代でもある。国が福祉社会を目指して国民の幸福を目標とし始めた時代に、戦争という国家的な規模での殺人が行われるようになった


「正常」という考え方が、「生-権力」と組み合わせればどうなるのか?

 健全を想定する「生-権力」は、劣った種や異常な種を絶滅すれば、我々の生そのものが健全で、正常で、純粋になると考える。19世紀以降の戦争には、好ましくない人種を破滅する人種戦争という側面が常につきまとっていた。

 自民族の純粋さを信じ、他民族の血を絶滅させようとしたヒトラーを、フーコーは「生-権力」の一つの結論だと考える。この「生-権力」は、人間を生かすこと、国民の生活の福祉を向上させることを名目としながら、他の種族を滅ぼすため国民を戦場に追いやった

 生かす権力は、殺す権力よりも残酷になりうるというのがフーコーの示した逆説だ。  
 そして、現代の福祉国家も、「生-権力」の力が弱まっているわけではない。

 むしろ一定の範囲でさまざまな逸脱を許すことで、支配の効率と柔軟性を高めている。これは新しい種類の国家であり、この国家は権力を行使する際に、細部にわたる国民の管理を必要とする。

 フーコーは、このような国家との戦いは、帝国主義やファシズム以上に困難なものであることを認めている。


知への意志 (性の歴史)

知への意志 (性の歴史)


フーコーの思想

 フーコーの思想には変遷があるのだが、自分の思想を真理として提示することを禁じて、読者が生きる上で役立てることのできるツールを提供する姿勢を一貫した。


 フーコーは同性愛者である自分自身に悩んだ。フーコーが示した可能性の一つは、人々が自分を放棄しないこと、自己の欲望を断念しないことにある。彼が示した世界では、権利を求める闘争ではなく、生を求める闘争が政治的に重要な意味をおびる。自分たちの生活する現場で、他者との間に生じている権力関係を作り変えていかない限り、自らの社会と生活を変えることはできない。


フーコー入門 (ちくま新書)

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関連項目