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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

ファミコンとその時代

本の感想 ゲーム

 ファミコンを現在に至る和ゲーの流れを決定的にしたものと位置づけ、それがいかにして作られたかを辿る本。ちゃんとした書き方がされてないのでそれほど資料性があるわけでもないが、当時のダイナミズムがわかる良い本だと思う。

ファミコンとその時代

ファミコンとその時代



 任天堂というのは、独りぼっちの企業なのです。独りぼっちの路線を歩んでいるのだということを最近つくづく感じます。


 これは1985年、「スーパーマリオブラザーズ」の発売目前にビジネス誌に掲載された山内溥社長の言葉らしい。

 この後マリオブラザーズは日本のみならず世界を席巻するようになるのだが、なぜこのような不安が吐露されているのだろうか。どのように任天堂は孤独だったのか。


 任天堂が作ったファミリーコンピューターは、あくまで「子供の玩具」というのが前提だった。


 ゲームは、遊んでみるまでその面白さがわからない。1回100円程度のアーケードゲームなら皆とりあえず遊んでみるかもしれないが、高価な家庭用ゲームはそういうわけにもいかない。実際、最初の家庭用ゲームは米国も日本もアーケードゲームの移植で始まった。

 高価な家庭用ゲームはそのようなハードルの高さがついてまわる上に、高価でハイテクな機器を売るためには大人の財布に働きかけるのが常道だ。しかし、任天堂は玩具メーカーとして、あくまで子供が遊べるゲームに拘った。その姿勢が日本のゲーム産業を決定づけたのである。


 ファミコンの開発当時、カセット式ビデオゲーム機が先発のメーカーから数多く発売されていたが、その大半には英数字キーボードが装備されていて、BASICでプログラムが書けるようになっていた。価格は6万円くらいだった。

 販売マニュアルには、「第一線で働くビジネスマンには必須とも言えるBASIC。本気の充実システムで、初級プログラミングからじっくり学習」「主婦にとって頭の痛いのが家計簿やローン管理・預金管理。本機があればすべて解決。プリンタを接続すると、より便利に活用できます」などと書かれていたらしい。

 このような感覚が、当時としては常識的なものだった。


 「ファミリーコンピューター」という呼称からして―それは家族全員が仲良く遊んでいるイメージを全面に押し出したものなのだが―いかに高額の子供向けゲームを売り出すか、という任天堂の苦悩が伺える。

 任天堂初のビデオゲームビジネスに、「カラーテレビゲーム6」「カラーテレビゲーム15」というものがある。6では6種類、15では15種類のゲームが遊べるということになっているのだが、「カラーテレビゲーム6」では「バレーボール」と「ホッケー」と「テニス」の3種類のゲームがあり、それぞれシングルスとダブルスがあるので「6」ということになる。「15」のほうは7(×2)+1で実質8種類が遊べる。

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 値段は「カラーテレビゲーム6」が9800円、「カレーテレビゲーム15」が15000円だった。当時、子供の玩具は高いものでも5000円以下、どうしても一万円は超えられないという判断から、任天堂は二つのバージョンを販売した。もし「6」のほうが圧倒的に売れれば赤字だった。しかし予想に反して「15」がたくさん売れ、開発陣を驚かせる結果になった。当時は子供用のゲームに高い金を払う層がこんなにいるなんて誰も思っていなかったのである。


 ビデオゲームブームが最初に起こったのはアメリカであり、それは「アタリ2600」という家庭用ハードによるものだったのだが、俗にアタリショックと言われる事件が起こる。

 ニューズウィーク日本版のビデオゲーム産業規模分析によると、1983年に30億$だったビデオゲーム市場が、1985年には1億$になった。しかし1988年には23億$に復活し、その市場規模の四分の三を任天堂が占めていた。

 つまり、アメリカでは一度壊滅的になったビデオゲームが、ファミコンの輸出によって蘇ったのだ。


 アタリショックという事件にも色々と議論があるのだが、おおまかにはこのようなストーリーになる。

 アタリ社は、「アタリ2600」という家庭用ゲームを開発し、「スペースインベーダー」をある程度原作に忠実に移植するなどして、高い人気を得る。その後は、「Activision」を始めとする優秀なサードパーティ(ハードを作らずにソフトだけを作る会社」が次々と参入して、良いゲームも多く作られる。

 しかし、アタリの親会社であるワーナー・コミュニケーションズの経営陣は、あまりゲームを遊んだこともなくコンテンツの質よりも経営を重視した。

 クリスマス商戦に間に合わせるという理由で、確実に人気コンテンツになるはずだった「パックマン」の移植を質の低いまま終わらせた。映画で大ヒットした「E・T」や「レイダーズ・失われたアーク」の優れた版権を収得したのはいいが、映画が人気だから売れるだろうと糞ゲーを作る。そして「アタリ5200」という後続機種を出すのだが、それが前の機種と互換性がない上にまともに遊べるソフトもなく、ついには家庭用ゲーム自体がユーザーから見捨てられることになった。


 この散々な結果を見て、サードパーティは家庭用ゲームではなくパソコンをプラットフォームにしてゲームを作るようになった。今もアメリカではPCでできることを前提に作られるゲームが多い。


 一方で日本は、もともとPC用に作られていた「信長の野望」「ファミコンウォーズ」「大戦略」「半熟英雄」などのゲームが積極的にファミコンに移植されていった。「ドラクエ」なんかも、もともとは米国のPCゲームを日本のファミコンにマッチするように作りなおされたようなゲームだ。


 ファミコンは、国内の優秀なソフトを引っさげ、PCがメインになりつつある米国のゲーム市場に殴りこみをかけた。

 米国では「ファミリー」という商標を他社が所有していたので、ファミリーコンピューターという名前は断念せざるをえず、NES(Nintendo Entertainment System)という名前になった。

 そこでは、あくまでゲーム専用機ということを打ち出し、玩具だということを強調するために光線銃と本体を一緒に販売した。

 スマブラで活躍中の「ダックハント」は、元は海外で人気のあった光線銃を使ったゲームだが、それをファミコン版で作りなおしたのだ。だからダックハントはアメリカで知名度が高い。

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 ファミコンが海外で市場を獲得してから、MicrosoftのXboxが流行するまでは、家庭用ゲーム(ビデオゲーム)と言えば日本という時代が続いた。一方で海外のデジタルゲームはPCで作られ、大人用のものが多くなっていった。高度な電子技術を伴ったものは価格も高くなりやすいが、そのため大人の財布を狙うというのは自然な考え方だろう。


 ハイテクな技術を、あくまで玩具という文脈の上に作ろうとしたこと。今でこそゲームは子供の娯楽で確固たる地位を築いているが、山内社長の言葉の通り、当時は孤独な試みだったのだろう。

 複雑なゲームシステムは、海外ではPCというハードウェアがその土台を請け負うことになったのだが、あくまで「A」+「B」+「十字キー」という単純な入力システムに拘ったからこそ、複雑なゲーム内容を単純な操作性とデザインに押し込める和ゲーの文化が形作られていった。

 ファミコンは、家庭用ゲーム大国である和ゲーの文脈を決定的なものにしたのだ。



関連項目