しっきーのブログ

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非モテ諸君はニーチェを読もう

 ニーチェは非モテが読むべき思想家だ。分裂勘違い劇場君もニーチェ超おすすめって言ってたもんね。リア充爆発しろ的なルサンチマンを募らせる前に、一度ニーチェの思想に取り組んでみるのもよいのではないか。明日は僕の誕生日だしね!


キリスト教は甘え

 ニーチェは徹底期な思想家だと称される。彼は、ヨーロッパにおいて考えられてきたすべての価値、これこそが人間の求めるべきものである…といったものをすべて否定した。

 この世には真理があるとか、現世とは別に天上の世界がある、という考え方は、当時は今よりもずっと強固なものだった。しかし、ニーチェは徹底的に考え尽くすことによって、その支配的な価値観を否定するものを打ち立てた。


 どうやってニーチェは「神」や「真理」を否定したのか?その考え方がすごい。

道徳の系譜 (岩波文庫)

道徳の系譜 (岩波文庫)

 著書「道徳の系譜」によって、どのようにしてキリスト教の価値観が支配的になっていったのかを暴く。


 もともと、「良い」という価値観は、自分自身の力、自己肯定感として始まった。困難を乗り越える力、快楽を手に入れる力、他人を助けることのできる力を「良い」と人間は考えていた。

 しかし、キリスト教がその考えを転倒した。

 困っている人を助けることは、当然ながら、人間という生物の自然なあり方からしても「良い」ことだ。しかしキリスト教の「隣人愛」は、人間やその共同体の自然な範疇を超えて、どのような人間であっても助けることが「良い」とまで概念を拡張した。それは、やがて自分を犠牲にして他人を助けるのが「良い」ことであり、自分のためを思うのは「悪い」ことである、というところまで行き着く。

 「悪い」のは他者を損なうことであって、自分の喜びや快楽を求めることではない。しかしキリスト教的な価値観は、あの世の世界を想定して、本来「良い」ものであるはずの自分の喜びをも否定する。そこに大きな転倒が起こっている。


 このような転倒は、弱者のルサンチマン(恨み、嫉妬、反感)から生まれた。弱者が強者に対抗するため、現世の喜びを否定し自分たちの歪みを肯定するところから、キリスト教の価値観が確立され支配的になった。誰かが自分より幸せなのが許せないという考えの制度化だ。それは間違っている。

 人は、能力のある奴、楽しんでいる奴を否定して、弱者である自分こそが正しいという考えを主張しがちだ。リア充になるべく努力するよりも、リア充爆発しろ、みたいな言説を仲間と共有するほうがずっと楽だ。しかし、それは間違ってるんだとニーチェ先生は仰るのである。

 生殖は人間の自然なおこないだよ。パコパコ。 f:id:skky17:20150519215955j:plain


 キリスト教は童貞の僻み根性を煮詰めたようなもので、アダムとイブがりんごを食べて「原罪」を背負ったみたいな物語まででっち上げ、ついにはこの世に存在すること自体が疚しいもの、とまで言ってしまう。神のため、あの世の幸福のために現世を否定するような考え方はおかしいというのがニーチェの主張だ。だって神なんていないんだから。


神は死んだ

 もともと科学は神の証明を目的として発展してきた。しかし、その科学が発展するにつれて、神を否定するような結果をもたらす。科学的手法は、宗教の物語と違い反証可能性を持つ。誰がやっても同じ結果を確かめることができ、教会の特権もなくなっていく。

 この力により、人々はだんだん神の存在を信じられなくなっていき、無神論とかロマン主義とか相対主義とか懐疑論とかペシミズムとかデカダンみたいな、様々な思想が噴出するようになる。しかしそれは、誰かがキリスト教にアンチテーゼを打ち立てたわけではなく、自然科学の合理的な手法そのものから産まれてくるものだ。

 人は、キリスト教の物語に沿って、「苦悩」から「意味」を求め続けてきた。こんなに苦しいのだから、この苦しみには何か「意味」があるはずだと考える。そして、その「意味」を合理的に探し求める過程で、世界の彼岸には何もないという事実が明るみになりつつあった。こうしてニヒリズムが訪れる。この世界には何の意味も希望もないという考え方だ。

 よく誤解されるが、ニーチェはニヒリズムを提唱したわけではない。このニヒリズムを示した上で、それを乗り越える思想を展開したのだ。


永遠回帰の思想

 永遠回帰(永劫回帰)というのは、名前からして厨二病的なカッコよさがあり魅力的なのだが、とても難解だ。

 おおまかに説明すると、例えばプラトンはこの世の価値の根底に「イデア」という観念を持ってきて、それはキリスト教的な「神」とも親和的だったのだが、ニーチェはその根底の部分に「回転」を持ってきたのだ。

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 永遠回帰については、色んな哲学者が解釈しているのだけれど、ここでは竹田青嗣氏の解説を紹介する。

 ニーチェの永遠回帰は、あらゆるものが永遠に繰り返されるという世界観だが、それは物理学的な仮説から始まった。時間には始まりの時点も終わりの時点も求めることができない。つまり時間に開始も終了もない、と考えるとどうなるか?

 始まりも終わりない時間は「無限」だ。時間が無限であるなら、例えば今さっき僕がやったことも、これから僕たちがやることも、永遠に繰り返されることになる。


 ニーチェの言い分がわかりにくい人は、この世界観の最も単純なモデルとして、たとえばまったく抵抗のないビリヤードの台の上でたくさんの球が、摩擦によって力を失うことなく永遠にぶつかり合って動き回っている、という状態をイメージしてみるとよい。時間は無限にあるから、一定の空間の中で一定のエネルギーがその力を減じることなく運動していると、いつかある時点で、以前のどこかの時点で存在したとまったく同じ物質の配置、配列が戻ってくる可能性があるはずだ。すると、その次の時点から、一切が「何から何までことごとく同じ順序と脈絡」で反復することになる、というわけである。

 つまり、「エネルギー恒存の法則」が最新学説だったかぎりで、「永遠回帰」説は、近代科学の成果を徹底することで得られる唯一可能な「世界観」だということになるのだ。


 永遠回帰は、文字通り世界が永遠に回帰するはずだという物理学的仮説にすぎないのだけど、ニーチェ哲学においては、それがルサンチマンを打破する重要な考えになる。

 まず、世界に始まりも終わりもないのなら、キリスト教の神とか、ヘーゲルが言うような真理に近づいていくみたいな価値観はすべて否定される。つまり、生の一回生を否定して、現世を軽んじ来世に期待するような欲望のあり方が全否定されるのだ。

 そして、「君の行為が、いつも無限の繰り返しとしてそう欲されるべきものとなるように行為せよ」というような、今この時点でのおこないを肯定する思想になる。

 みたいな感じかな。難解な思想なので色んな考え方や解釈があるんだけどね。


ニーチェ的って何だ?

 ニーチェが嫌いという人は多い。童貞王小谷野敦もニューチェの厳しい思想は好きになれないと言っていた。

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

 でもニーチェだって喪男やったんやで。いろいろと大変な人生やったんや。少なくとも、彼の徹底的な思想を読むに値しないと言う者はいないだろう。

 しかし、ニーチェは普通に難しい。文章は読みやすいんだけど、読み終わった後に何書いてあったか全然わからなかったってばよ!って感じになるから。

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)


 素直に解説本から読もう。思想的な本を読んだことがまったくない人は通史本から読んだほうがいい。

反哲学入門 (新潮文庫)

反哲学入門 (新潮文庫)


 解説本でおすすめなのはちくま新書のニーチェ入門。ニーチェに限らずちくまの入門シリーズはハズレが少ない。他のも色々読んだほうがいい。そのうちブログでも取り上げようかな。

ニーチェ入門 (ちくま新書)

ニーチェ入門 (ちくま新書)


 簡単にわかるニーチェ!みたいな本よりも永井均みたいなアクの強い本を読んだほうが結果的にわかりやすいと思う。解説書を数冊読んでみてから原書にあたって、自分でどう感じるのか確かめてみるのがいいかも。

これがニーチェだ (講談社現代新書)

これがニーチェだ (講談社現代新書)


 あと、個人的におすすめなのは、村上ドラゴンの愛と幻想のファシズム。ファシズムとダーウィニズムを組み合わせてドヤ顔するというとても面白い本なのだけど、有名な音楽家を呼んでコンサート開いて、「う~ん、まさにこれはニーチェ的な瞬間だね~」とか言ってるのが超ウケる。

愛と幻想のファシズム(上) (講談社文庫)

愛と幻想のファシズム(上) (講談社文庫)


 というわけで、非モテ諸君は「リア充爆発しろ」とおもむろに叫ぶ前にニーチェを読みましょう。

 で、僕も一応読んだわけなんだけど、非モテがニーチェを読んで「ああそうか!僕は間違っていた。リア充を僻むんじゃなくて僕もリア充になれるように努力しよう!」と納得してしまうのは、むしろニーチェ的じゃないような気がする。

 ただ僻んでいるのではなく、本当に爆発させてしまうのが真にニーチェ思想を受け取った者の行動なのではないか、という気がニーチェを読んでいてしてくるのだよ。ヒャッハー!!

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 そなたたちはかつて何らかの快楽に対して然りと言ったことがあるか? おお、わたしの友人たちよ、そう言ったとすれば、そなたたちは一切の苦痛に対しても然りと言ったことになる。一切の諸事物は、鎖で、糸で、愛で、つなぎ合わされているのだ、――

 ――かつてそなたたちが、一度あった何事かの再来を欲したとすれば、かつてそなたたちが、「おまえはわたしの気に入る。幸福よ! 刹那よ! 瞬間よ!」と語ったとすれば、そなたたちは一切が帰って来ることを欲したことになるのだ!

 ――一切が改めて再来し、一切が永遠であり、一切が、鎖で、糸で、愛で、つなぎ合わされているような、おお、そういう世界をそなたたちは愛したことになるのだ、――

 ――そなたら、永遠的な者たちよ、そういう世界を永遠に、常に愛するがよい。そして、苦痛に対しても、そなたたちは語るがよい、過ぎ去れ、しかし帰って来い! と。というのは一切の快楽は――永遠を欲するからだ!

(『ツァラツスゥトラ』第四部「酔歌」)



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