しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

インターネットで成功する人は「世間知らず」なのか?

 日本人がよく使う「世間」という言葉を、正確に外国語に翻訳するのは難しいらしい。


 宝くじが当たると、アメリカ人はおおっぴらにインタビューを受けるし、名前も公開する。しかし、一般的な日本人は大金をもらったことを「世間」から必死に隠そうとするだろう


 例えば、道端に札束が落ちていて、周りには誰もいない。日本的な感覚では、まず頭に「世間」が浮かんでくる。怖くなって警察に届け出る人も多いだろう。

 キリスト教なら、「オーマイゴッド!…センキューセンキューありがとぅー!」らしい。洋画見てるとよくそんなシーンがあるよね。「神」の下に個人がいて、個人と個人のやり取りにも神が介在するから、落ちてる大金は神が自分に与えて下さったもの、となる。 

 日本の場合、「世間」の前で個人の存在が希薄だから、その金が自分のものだとは絶対に思えない。もちろん今のは極端すぎる例だけどね。



 日本人にとって「世間」とは一体なんなのか、万葉集、今昔物語から遡り、漱石、荷風、金子光晴まで、その輪郭をつかもうと試行錯誤した本が、阿部謹也の『「世間」とは何か』だ。

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)


 「世間」は一言であらわせる概念ではなく、また時代によっても変遷していくのだが、ものすごく大雑把にまとめると、日本人は個人ではなく「世間」で物事を考え、それは今でもそんなに変わらないよということになる。

 私たちはしばしば「世の中はままならないものだ」という。古人もしばしば「思い通りにならないもの」として世の中を歌っている。無常感の底にはそのような思いも込められている。しかし世の中が私達一人一人の思い通りにならないことは当たり前のことである。日本人は何故このような嘆きを千数百年にわたって繰り返し表現してきたのだろうか。ここにも世間のあり方があると私は思う。日本人はごく例外的な人を除いて個人であったことはほとんどなかった。皆何らかの世間を構成し、その中で生きてきたのである。(略)

 人々は自分の世間の狭さを嘆きつつ「思いのままにならない世の中」について嘆いていたのである。それはいいかえれば日本の個人は世間との抜きさしならない関係の中でしか自己を表現しえなかったことを意味している。このことと関連して、日本では長い間社会を対象化して捉えようとする姿勢が生まれなかった。世間という言葉で、人間関係の感性的な面がすべて表現されていたからである。

(阿部謹也、「世間」とは何か)


 日本人に根付いた「世間」がどれほど強力なものなのか。

 阿部は本書で、隠遁して「徒然草」を書き綴った吉田兼好について、『兼好はわが国の歴史の中で個人の行動に焦点をあてて「世」を観察した最初の人であったと私は思う』と述べている。小林秀雄は「徒然草」のことを空前絶後と評価したそうだ。

 兼好は、「個人」として世の中と対面したが、そのためには隠者でなければならなかった。世俗社会から逃れようとして僧の世界に入っても、そこにはまた別の世俗社会があるだけだ。だから彼は僧の世界からも逃れて庵を結び一人で暮らした。そこまでしないと「世間」を相対化することができなかったのだ。

現代語訳・徒然草 (河出文庫)

現代語訳・徒然草 (河出文庫)


 また夏目漱石は、「坊っちゃん」に代表されるように世間とずれた人物を描いた作家でもある。明治以降、欧米の価値観を取り入れ、日本人は「世間」に気づくことができた。しかし、それに気づいたからと言って何か手を打てるわけでもなかった。どうすることもできず、『坊っちゃんに身を寄せて架空の世界の中で「世間」をやっつける楽しみを味わってきた』に過ぎなかった。

坊っちゃん

坊っちゃん


 現在においても「世間」の力は強大だ。子供が犯罪を犯したとき、その親までも糾弾したがる人は多い。そのため、親は世間の前では自分の子供の厳罰を願わなければならなくなる。仮にそれがおかしいと気づいたとしても、「世間」はもうどうしようもないものとして日本人の中にある。というより、個人が世間に取り込まれている。


 ここから、話はみんなが大好きなインターネッツに移る。

 身分に関係なく誰もが発言できて、理性的な対話、科学的な検証ができるはずのシステムが備わっているインターネットが、いかに「世間的」かは、そこにどっぷり浸かっている人達なら何となく実感しているはずだ。

 インターネットにおける「世間」とずれた人を見つけ出し、いっせいに群がって石を投げるネットイナゴの習性には、なかなかの歴史の厚みがあるのだ。


 そう考えると、インターネットは「拡張された世間」と言えるだろう。閉じられた世界での感性が、成長しないまま範囲だけを広げてしまった。

 一方、ネットには偏在する個人を集める力がある。世間が大きくなっていくと同時に、狭い世間では爪弾きにされていたような人達も、集まってある程度の規模になることができる。


 ネットの力を使って成功したような人たちが宗教チックだったり、鼻持ちならない極端な考えを全面に押し出しているのはよく見られることだ。だが、「ネット=拡張された世間」という視点で見ると、その「世間」から外れた主張を押し通すことのできる人が、インターネットにおいて力を持つようになるとも言える。

 それは、同質性が比較的高く、「拡張された世間」である日本のネット空間においてはある程度の必然性があることなのかもしれない。


 「はあちゅう」を必死に非難したがる人たちの感性が、いかに「世間(半径5メートル)的」なのか、観察してみるとなかなか皮肉である。

半径5メートルの野望

半径5メートルの野望

 世間を批判し、それを対象化してると思い込んでいる人たちが、より強くインターネットという世間に囚われているということはよくある



 そのような環境を利用して、手っ取り早くブロガーとして名を上げる方法を考えてみた。

 ネットで拡張された「世間」を自分なりに分析。

 ↓

 自分の信念と折り合いをつけることができ、なおかつ「世間」とバッティングしそうな方角を定める。

 ↓

 決めた方角に沿って記事を書き続け、「世間」から爪弾きにされるような読者を回収していく。

 これができればみんなも人気ブロガーになれるよ ☆〜(ゝ。∂)


 ただまあ、強靭なメンタルは必須だし、闇は深い。

 長くブロガーとしてのプレゼンスを維持し続ける「ちきりん」は、「世間」から外れたことをほとんど強迫観念みたいに書くようになってしまった。

ディズニープリンセスと幸せの法則 (星海社新書)

ディズニープリンセスと幸せの法則 (星海社新書)


 ただ、「世間」の側でうまくやっているブロガーもいる。俗に言う、ウォッチャー系、メタ系、マウンティング系みたいな人たちだ。「世間」を意識しながら、そこから外れた人を掘り出したり、ネットイナゴと一緒に石を投げたり、たまに投げられたりする。

 ブロガー界の大御所である「やまもといちろう」なんかが「世間」にべったりくっつくタイプの代表格だね。きもいよね。

母ちゃんごめん普通に生きられなくて

母ちゃんごめん普通に生きられなくて


 もちろん、この記事を書いている僕自身、安全圏にはいない。インターネットにおける「世間」は、ブロガーにとって重くのしかかってくる問題だろう。

 僕は、極端なことばかり言うブロガーやら何らやらはみんなクソだと思ってるし、だからといって「世間」が正しいとも思わない。たまに、みんなまとめてクズだと感じることもある。


 こういうときこそ、「ひろいこころで\(^o^)/」ってやつが大事になってくるのかもしれないね。




他の記事もよかったら読んでみてね!