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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

逃避先としての日本型コンテンツのその先にあるもの

ゲームとかコンテンツの話

 芸術や娯楽は、多かれ少なかれ、何かから逃れるためにつくられる側面を持っているのだろう。日本の場合、その「逃げ方」は、絶対神のような超越性を想定するようなやり方ではなかった。日常にある要素を「抽象」し、それを誰もが享受できるものにする。現実のある部分を延長することで現実から逃避した。その対象になったのは、「強さ」や「女の子」など、ある意味で低俗な欲望だ。



 小さな者が見た目に表れない強さで巨大な者を倒す。それは戦後、鉄腕アトム、聖闘士星矢、ドラゴンボール、現在の様々な作品と、ずっと受け継がれてきた欲望のあり方だ。そこでは必然的に、現実のありのままから切り離された抽象的な「強さ」が扱われるようになり、それを説明するための「表現」が模索される中で、多様性のある作品達が生み出されてきた。

 「かわいい」や「萌え」は、現実の女の子から、抽象された女の子を生み出したものだと僕は考えている。アイドルや声優になるということは、自らは現実の存在でありながら、抽象された「かわいい」を獲得しようとする試みだろう。



 これまでの記事でずっと言ってきたことだが、「ボタンを押すと数値が上昇していく」世界観をベースにしたRPGは、現実における成長や熟達を「レベルアップ」、「スキル習得」などの要素に抽象している。もともと複雑で困難な人間の成長を、ただボタンを押せば増える画面上の数値に置き換えることで、誰もが簡単に「成長」することが可能になる。

 美少女アニメや女性アイドルに対しても同じことが言える。相対的に美しい異性に皆がお近づきになれるわけではないが、二次元は誰もが消費することができる。現実にいるどんな女の子も、「かわいい」や「萌え」という指標に基づくなら、想像上の存在である二次元には敵わない。生身の人間が元になっているのだが、その実態と離れて「かわいい」や「美少女」という概念が抽象され、誰でも創作、消費可能なものになる。



 実態から切り離されているからこそ、それは平等、公平なものになり、誰もが参加できる。逃避先、抽象された先の場所では、ある意味での自由と平等があったのではないか。

 日本のアニメ作品やRPGは、一度抽象を通した逃避先だったが故に、実態にとらわれない自由な創作が可能だった。




 そして現在、その逃避先と現実が近づきつつある、と僕は思っている。

 工業化が行き詰まり、必ずしも機能が価値を保証しなくなった社会で、コンテンツの価値は上昇しつつある。

 従来型産業の多くが低迷するなか、近年伸びている数少ない業界が、ソーシャルゲームやアイドルなど、その価値を根拠付けるものがうやむやなコンテンツ産業だ。

 かつては、生活と直接関係ないものであり、経済の悪要因として疎外されてきた漫画、アニメ、ゲームなどの娯楽産業が、手のひらを返したように注目され、大々的に取り上げられる。共同体や歴史やイデオロギーが決定的ではなくなって、人々が拠り所にするものもコンテンツ的になりつつある。

 今は、現実がより強く虚構を求めている。従来の枠組みでは何もかもが立ち行かなくなって、求めざるを得なくなっている。皆がそこに走っていけば、それはもう逃避先とは言えないだろう。

 逃避先であった日本型コンテンツ産業と、その元になった現実との境界が混じりあっていく。



 現在観測できる範囲で、日本型コンテンツの「システム」がより強く表れているのも、ソシャゲやアイドルだ。それらの共通項から、ある種の「フォーマット」を取り出すことができる。ソシャゲはどれもベースの部分がほとんど同じだし、AKBは同系統のグループをいくつも展開していて、他のアイドルにも強い影響を与えている。

 このような「フォーマット」を、単なるコンテンツの一つではなく、ある種の「ツール」として考えるべきだと僕は思う。現実を抽象し、これまでの様々な発明のなかで練り上げられてきた日本型コンテンツの「フォーマット」が、現実のあらゆるものと結びついていく未来が想像できる。逃避先にあるものが、現実に逆輸入される。


 「学習」は、そのようなフォーマットと比較的すぐに結びつくだろう。特に語学のように反復的で、続けるのにモチベーションが必要とされるものは、ソシャゲのフォーマットの上に乗せやすい。

 現在行われている、ソシャゲにおける「努力」(…レベル上げ、素材集め、スキル上げ、リセマラなどの作業)の熱量を、学習という方向に仕向けることはある程度可能なはずだ。その方法は、「ソシャゲ」というツールがベースになっているので、上に乗っかるものを取り換えさえすれば、様々な学習項目…英語RPG、歴史RPG、物理RPG、プログラミングRPGなどを、ほとんど同じやり方で作ることができる。


 経済という実態の部分とソシャゲのフォーマットが結びつくのも、時間の問題だと思われる。現実の商品と仮想上の資源を少し紐付けるだけで、おそろしく強力な仕組みが出来上がるだろう。メディアや広告も、そのような仕組みに回収されていく。根拠のないものに金を払わせるソシャゲやAKBの仕組みに、メディア、広告が飛びつかないわけがない。

 また、個人のタレント性を売り出していく動画投稿などは、その収益システムが広告から離れ、何かの「いいわけ」を通して(僕はそのいいわけは「ゲーム」になると思うのだが)、人気に対して直接金を受け渡しできるようなシステムができれば、もっと爆発的に盛り上がると思う。これは動画だけではなく、Twitterやブログやイラストなどでの人気も同じことだ。



 このような仕組みが、これからどうなっていくのかはわからない。複雑で冗長で、様々な深みのある現実に対して、日本型コンテンツの抽象化は、どれだけ力を増しても、あくまで特殊な考え方の一つに過ぎない。しかし、ある程度は普遍性のある中心的な概念を秘めていることも確かだ。(「上昇」、「平等」、「自由」、「手軽さ」…などなど。)

 現実から生み出された虚構が、現実の欲望の方向性をも定める。しかし、二次元で描かれる美少女を現実に求めるわけにはいかないし、RPGのようなレベルアップが現実にあると思い込んではいけない。

 これから、虚構と現実がシステムのレベルで混ざり合っていくとするなら、当然ながら良い部分と悪い部分があるのだろうが、一体何が虚構なのかということを、より真剣に見据えようとする必要があるのかもしれない。




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