しっきーのブログ

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「学校」と「ゲーム」のつながり

 漫画、アニメ、ライトノベル、テレビドラマなど、日本のコンテンツ作品で最もよく使われる舞台、モチーフ、世界観は、何と言っても「学校」だ。

 見渡す限り、「学校」の影響が色濃く表れている。クラスメイト、先輩後輩、授業、部活、行事、放課後…一体どれだけ、「学校」に関する憧憬が生み出され、強められてきたのだろう。それに対する反感も含めて、日本のコンテンツの中心には「学校」がある。


 それは、ゲームも例外ではない。ゲームの場合、舞台が学校になることはそれほどでもないが、そのシステムの中核には、根深く「学校」が組み込まれているというのが、僕の考えだ。


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 日本の学校制度それ自体に関しては、様々な問題がある。みんな何かしら言いたいことがあるはずだ。

 しかしここでは、日本の学校的なものが持つ「メリット」について考えてみたい。


 以前書いた記事「学校」と「企業」が成功しすぎた日本で述べたことだが、日本の「学校」は、卒業した後の企業の仕組みや、社会保証などの制度にまで強い影響を与えている。そこに関しては今いろんな問題が表面化しているのだけど、日本的な「学校」のシステムにも相応に良いところはあった。


 日本以外の国では、階層や格差がすぐ固定化しやすい。

 日本の場合も、それぞれの学校や企業に上と下、偏差値や給料の違いがある。しかし、それらが「学校」、「会社」という点では同じものだという意識が強い。というより、同質なものだからこそ偏差値などの指標で優劣をつけることができる。

 そして、学校における「クラスメイト」、会社における「同期」、部活やクラブなどで上下関係をあらわす「先輩後輩」という枠組みが、とても強い。そこに理想や妄想を注ぎ込むにしても、それに対して反感を持つにしても、漫画やアニメなどでは無視することのできないモチーフになっている。

 クラスメイト達は、当然だが、一人一人違う。能力の高い者もいれば低い者もいるし、それぞれ個性がある。しかし、彼らが同じクラスの生徒であるという点においては、「同じ高さ」にいる。身分や階層の上下関係はない。理念はともかくとして、実際に人間が営む制度として、これほど「平等」な仕組みはそうあるものではない。同じクラスであっても白人と黒人はまったく別の生き物、みたいな考え方はしないんだよね。これは、日本の「学校」が持つ非常に優れたところだ。(もちろん、同時に悪いところでもあるのだが)


 消費者が買い支えることで成り立ってきた日本のコンテンツ産業などの記事でずっと書いてきたことだけど、それぞれが「同じ高さ」に並んでいることは、日本型コンテンツにとって決定的な意味を持っている。



 日本人は勤勉だと外国からはよく言われるらしい。エリートだけではなく、国民全員がそれなりに頑張る。それが本当のことかどうか、褒められるべきことなのかどうかはわからない。ただ、そこに「学校」が一役買っていることは間違いない。

 同級生を作り出す「クラス」の強い影響力より、「同じ高さ」に並んだ均質性が維持され、「平等と競争」という矛盾した要素を同じ場所に押し込むことが可能だった。自分と同程度の者がライバルなため、やればできる、と思いやすい。

 中学、高校、大学、会社と、それぞれランク別の区切りがあって、能力ごとに枠に入るので、「それなりの競争」が維持される。その枠の中では、(たとえそれが幻想であっても)「みんな同じ」という前提があるから、努力して頑張るという気持ちをエリート以外でも維持することができた。


 このような学校の仕組みは、それを肯定するにしろ否定するにしろ、今の日本の核になる部分であり、多くの国民がそのような世界観の中で成長した。多くの作品の舞台に「学校」が選ばれがちなのも、まったく不自然なことではない。




 漫画やアニメやドラマと「学校」との繋がりは直接的なものだが、「ゲーム」には、そのシステムの部分で強く「学校」が現れている。


 まず、学校のメリットの一つである「努力」への動機付けとして、学校内においての「努力」とは成績の上昇のことである。日本のRPGとは何か?で述べたように、JRPGのベースには、「ただボタンを押せば数値が上昇する」という世界観がある。自分の成り立ちや、その場所にいる意味、役割などを考える必要がなく、思考停止で「努力」すればいいことがある、という価値観の表れだ。

 和ゲーと洋ゲーの違いで述べたように、洋ゲーは、現実にあるものを表現するために数値を使う。和ゲーは、数値自体が独立して、実態とは関係なく上昇していく。例えば、ドラクエやポケモンなどのゲームにおける「経験値」は、経験を積めば熟達していくみたいな実態の伴った成長というより、ドラゴンボールの「戦闘力」のように、ただデータとして数値が上昇していくような感覚に近い。この、実態と数値を切り離す特徴によって、日本のRPGにおいて自由で多様な表現が可能になった。


 現在、ソシャゲ、オンゲ、コンシューマーなどあらゆる作品に見られるモンスター系、キャラクター系を確立したゲームは「ポケットモンスター」だろう。ポケモンの製作者である田尻智は、はじめは、自然を模倣することによってポケモンをつくりだした。

 しかし、それはありのままを数値で表現するということではなく、和ゲー的なフィルター(実態から離れて、数値が抽象されること)を通した上で、自然をゲームの中に写し取ったからこそ、ポケモンに見られる奇妙で自由な想像力が可能になった。


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 ポケモンの特徴は、各ポケモンごとに強さの違い、特徴の違いはあれど、それが「ポケモン」だという点においては、みんなが「同じ高さ」にいる。ポケモン達は、それぞれに明確な役割があるわけでもなく、ただそのデーターベースの一つとして存在している。多様性があり、継ぎ足すことも容易で、そこに存在することの意味も問われることがない、同列な集団の一員だ。


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 洋ゲーなんかでは、それぞれのキャラクターにはそのキャラしかできない役割が設定されていることが多い。和ゲーのデーターベースでは、そこに存在する役割や理由は必ずしも必要がない。ただそこに所属しているというだけだ。だからこそ、平等であり、自由な創作が可能になる。


 また、多くの和ゲーに見られる「進化」という概念も、「先輩、後輩」の、上下関係への意識の強さ、わかりやすさから来ていると考えられる。みな等しく学年が上がること、それが当たり前だという価値観が日本の学校には強い。


 このように、「学校」的なシステムが、JRPGの核になる要素に大きな影響を与えていることが見て取れる。



 日本の「学校」は、現状、問題のほうが多くなってきている。もともと同質性なんてものは幻想だったし、その延長にある「企業」の仕組みも制度が崩壊している。しかし、現実にそういうものがなくなりつつあるが故に、抽象された欲望としての「学校」が強まっているということも、あるのかもしれない。

 「平等」という前提から、コツコツ頑張ってレベルを上げる「努力」。和ゲー的なフィルターを通した上で、各キャラクターが「同じ高さ」に並ぶ「データーベース」。「先輩、後輩」という明確な上下関係から生まれた「進化」。そのようなシステムは、現在でも和ゲーのフォーマットとして、非常に強い力を持っている。

 漫画やアニメだけではない。「学校」と「ゲーム」は、より深いシステムの部分で、分かち難く結びついている。




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