しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

ユーチューバーに感じる嫌悪感の正体

 僕はYouTuberになりたい。名前は忘れたが、何かの実験の結果で、人間は初めて見る人よりも以前見たことがある人をより好きになりやすいというのを、テレビで見た記憶がある。

 普段から見ている人を好きになりやすいから、テレビに出る芸能人は同じスペックでも一般人よりモテるんだよね。そして、自分を見てくれる人がある程度の数いれば、比率に違いはあれど、必ず好きになってくれる人もいれば嫌ってくる人もいる。どれだけ邪悪なことをしても支持する層は一定数いるし、崇高な行為にも文句をつける輩は絶対いる。

 人間なんてそんなものね。



 つまり、YouTubeでなんやかんややってそれなりに視聴者数を増やせば、自分を好きになってくれる人が必ず一定数いるということ。母数を増やすほど、その中に可愛い女の子がいる確率だってどんどん上がっていく⤴︎⤴︎

 合コン?街コン? ( ゚д゚)、ペッ 俺はYouTuberでいくぜ!!


 僕以外にも、「そうだ。ユーチューバーに、なろう。」と思い立ったことがある人は少なくないんじゃないだろうか。しかし現実はそれほど甘くない。いいかみんな!「キンtv -ヒカキン」で検索なんてするんじゃないぞ!絶対だぞ!!



 今から参入してYouTubeで再生数伸ばすのが簡単なわけない。しかし、この頃ブログだけでは限界を感じてきたというのがある。テキスト→画像→動画と、個人が発信可能な容量が増えてきた中で、動画に手を出せないというのは時代に取り残されているとも言える。そう、時代はユー☆チュー☆バー!!


 マックスむらいは動画投稿と並行してゲームの攻略サイトをやっているけど、テキストを見る層と動画を見る層はまったく別らしい。得体の知れない奴が書いた長い文章を読もうとする人間はそれほど多くはない。動画を投稿することで、まったく別の層アクセスができる。だから、これからブロガーが動画に進出していくというのはおかしなことではない。

 動画はコンテンツ力が高いけど、まだSEOなどの仕組みとは相性がよくない。テキストと並行して動画が作れればかなり強いよね。


 仮に僕がYouTube動画を作るとしたら、本一冊分の内容を雑にまとめて、大体10分か15分くらいで、スライドも使いながら喋る。ぼんやり見てるだけで、なんとなく本の内容がわかった気になれて頭もよくなった気になれる素晴らしい動画をつくりたい。ポケモンの厳選作業とかモンハンの素材集めのBGMとして聴けばちょっと知識が増えてお得、くらいのものを目指すつもり。

 テキスト読む気がおきないときも、動画ならわりと見れたりするんだよね。文章と動画を同時に公開すれば、今よりずっと幅広い層にアクセスできるだろう。

 たいした見識もないままブログで情報を発信したがる性向と、長時間座っておとなしく本を読む能力、さらには顔を出してカメラの前で一人で喋る無謀さは、なかなか両立しにくいものなので、それができれば差別化した上でニッチな需要が狙えるのではないだろうか。


 しかし、ここで一つ大きな問題が生じる。

 このブログの名前は「しっきーのブログ」。僕の名前は「しっきー」。もし僕がユーチューバーになったなら、そのチャンネル名は「しっキンTV」。

 しっキン…失禁って、「おもらし」のことじゃないかああああああああああああああうああああああああああああ!!!!(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!(´・ω・`)





 それはともかくとして、本題。

 ユーチューバーというのもなかなか定義が難しいんだけど、いわゆる「ヒカキン」とか「はじめしゃちょー」とか「バイリンガール」みたいな人達は、ネット界隈で何かと嫌われたり馬鹿にされたりしている。人は興味を持たなければ嫌うこともないので、それなりの反感を集めるだけの理由がユーチューバーにはある。

 そもそも、YouTubeもニコ動もその他動画サービスも、全部機能は同じようなもので、投稿者側が動画を作って、それを各プラットフォームに投稿するだけだ。ニコ動にあげた動画とまったく同じものをYouTubeにあげることももちろん可能。

 ただし、それぞれシステムや使い勝手が違うし、そこで人気だった動画に影響を受けて作られた動画は、同じプラットフォームに投稿されやすい。そんなふうにしてコミュニティの特色が定まっていき、プラットフォームの空気みたいなものができあがる。YouTubeだとゲーム実況でも顔を出す動画が主流だけど、ニコ動は実況者の顔を出したものがほとんどない。



 個人的にYouTubeに対して感じるのは、ある種の最適化、それも、無国籍的(米国的)な方向性のものだ。

 もちろん、あらゆる動画がYouTubeにはあるし、個人で動画を投稿する試みそれ自体は、自由で多様なものだ。しかし、「ユーチューバー」の多くがやるような、不特定多数の前に顔を出して、短い時間で目を惹くようなことをする。そのような定型は、一見あらゆる文化に普遍的なように見えるが、そうではない。「自由と平等」の普遍主義とか、爆弾と美女のハリウッド映画と似て、無国籍的な種類のものなんだよね。


 「好きなことで、生きていく」というのも、ネタとしては面白かったが、今思えばユーチューバー達にとってもその広告を真に受けた少年少女達にとっても残酷な所業だった。



 自由なように見えて、実はそうではない。顔出しの動画を世界中に流して大勢に注目されようとすること自体に、「グローバルスタンダード」に似た無関心さ、暴力性がある。


 ドメスティックな傾向の強いニコニコ動画勢が、ユーチューバーを馬鹿にする(=反発する)のはある意味で当然とも言える。おそらく日本以外の国にも、ユーチューバー的なものに反発する国内勢力はそれなりにあるのではないかと思われる。


 別にYouTubeで顔を出している人が馬鹿だというわけではないし、ユーチューバー動画にも面白いものや有用なものがたくさんあると思うけど、動画プラットフォームとしてYouTubeがこれ以上勢力を拡大していくのは、喜ばしいことではないだろう。ユーチューバー的なものが国際規格になりつつあるのかもしれないが、それは「自由」という概念から遠ざかっていると考えたほうがいい。匿名でしかできないことだってたくさんある。



 要は、プラットフォームの多様性を保持することは大事だよ、ってことです。

 しかし、仮に自分が顔出しの動画を作ったとして、YouTube以外の場所にアップする勇気はないな。

 ニコ動は「コメントの洗礼」があるからこそ、動画が面白くなっていると思うのだけれど、それは投稿する側に強制できるようなことではないだろう。


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