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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

もう美少女と付き合える可能性がないということ

 どうも、しっきーです。可愛い女の子っていますよね。最近は、道を歩いていてすごく綺麗な女の人とすれ違っても、「(☝ ՞ਊ ՞)☝うひょー⤴︎⤴︎」みたいな感じにはならずに、心に冷たい風が吹きます。

 世の中には、可愛い女の子とデートをしたり、二人でご飯食べたり、一緒にだらだら時間を潰したり、同じ家に住んだりする人間が存在するんですよね。そして、そいつらも生物学的には私達と同じ人類なんですよ!どうですか?死にたくなりませんか?

 僕はもう23歳だし、大学を卒業します。


 これからは、女子大生の半径5メートル以内に入ることさえ、有り難く思わなければならない。仮に女子大生と会話する機会がこようものなら、「(食い気味に)い、いいんですかああ!?」と言わなければならない。もう暇な女子大生のブログを純粋に笑って読むことはできないでしょう。そもそも暇な女子大生もすでに女子大生じゃないし。





 現実が上手くいかないのなら、虚構に逃げる。そういうやり方もある。

 漫画やアニメ、ゲームなどのコンテンツは、ある意味で僕たちに「平等」をもたらした。どれだけ愛や理想を唱えようと、希少なものは奪い合わなければならない。みんなそれぞれ違うなら、相対的に価値のあるものは必ず発生する。

 「成功」という称号も、周囲とくらべての「かわいさ」も、その定義上、全員に与えられることはない。日本の二次元やゲーム文化の役割の一つは、現実で想定されている「価値」を、誰でも享受できるものにすることだった。

 「成功」を数値に抽象する。「かわいい」を記号的に表現し、特定の振る舞いや形式に落としこむ。そうすることで、フィクションや仮想世界の中では、誰もが「成功」するし、「かわいく」なることができる。その虚構の魅力が強くなるほど、残酷な現実から遠くに行くことができるのだろう。




 日本のコンテンツは、「God」のような超越的なものを想定することなく、現実の延長から虚構の世界をつくりだした。現実にあるものを「抽象」して、その土台の上に、「平等」で「自由」なあらゆる作品を生み出してきた。

 しかしそれゆえに、現実への憧れを断ち切ることができなくなる。

 現実を抽象して自由に消費できるようになったからこそ、抽象された欲望が現実に影響を与える。現実から逃げ出したはずなのに、逃げ出した先の虚構に現実が駆り立てられる。その現実から逃げるためにまた虚構を生み出して…というサイクルが、日本のコンテンツ文化の原動力でもあり、特定の方向へ欲望を推し進めていった要因だ。


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 「学校」や「クラスメイト」や「美少女」と、それに対する憧れと反発が、どれだけ多くの作品のモチーフになっているのだろう。

 大人になったからといって、「学校」を忘れることができず、「美少女」を諦めることができない。それは個人レベルの問題ではなく、日本のコンテンツ文化全体がずっと培ってきた「大きな憧れ」によるものだ。

 そしてみんなが、ごまかしながら生きている。



f:id:skky17:20150216233834j:plain みゃーもりかわいいよ!! みゃーもりと同じ会社で働きたい…(´・ω・`)



 自分が、漫画やアニメで「当たり前」として行われていることができないからといって、絶望するわけでもないのだけれど、「なんだかつらいな」という気持ちはある。それは、与えられた効用に対する、支払うべき対価なのかもしれない。


 仮想から一歩はみ出たところの危うさと、そこで踏みとどまらなければならない現実、諦めとも後悔ともつかない索漠…そういうものを伴侶として、これからやっていかなければならないのだろう。



 あるいは、現実と仮想の境目があやふやになっていくような混乱を、僕は望んでいるのかもしれない。これから「ゲーム」が現実と結びついていく、みたいなことを主張してるしね。


 それはともかくとして、コンテンツに親しんだ者は、現実と虚構の距離を探りながら生きている。そのとき、仮想世界で強められた憧れを現実に求めることだけは間違っているだろう。

 概念上の完全な円形や三角形を現実で再現することが不可能なように、RPGのキャラのレベルアップみたいなわかりやすい「成功」なんてないし、漫画やアニメに出てくるような「美少女」は現実には存在しない。まずは、それを受け入れなければならない。



 岡田斗司夫は、自分と関係を持った女性にランクをつけてリストにし、仲間内で公開していた。これにはみんなドン引きしていたみたいだけど、別におかしなことではない。ブサメンとか関係なく、女遊びが好きな某大学のイケメングループだって、仲間内でミス◯◯とヤッたとか、そういう話をしたがる。

 それは、現実の行為による快感よりも、仮想上で、言葉の上で強められた概念のほうが優っているからだ。実際の行為が期待に外れず、すべてを満足させてくれるものだったなら、その後で見せびらかすようなことをする必要はないだろう。

 岡田斗司夫も、現実の女の子達で満足するわけではなく、”処女膜を突き破る「ブチッ」という感触を味わえたのが良かったかな? “とか”「若い子は騙して抱いて、終わったら捨てろ」というのが僕の中の法則”、みたいなことをわざわざ誰かに自慢しなければならなかった。現実は虚構で強められた価値を常に下回り、裏切られた人間は虚構を振り回さなければならなくなる。

 そこに救いはない。



 僕には、二重の意味で、もう美少女と付き合える可能性がない。一つは、現実的に、これから可愛い女の子と仲良くなる機会はないだろうということ。もう一つは、今まで見てきた漫画やらアニメやらが形作った、頭の中で思い描くような「美少女」なんて、現実には存在しないということ。


 しかし、当然だが、僕たちは「美少女」とか「成功」のために生きているわけではない。もともと生きていることに根拠も意味も目的もない。人間はもっと複雑で冗長なものだ。何らかの「価値」を求めてしまうことは避けられないにしても。


 僕たちが求めがちな「価値」のほとんどは虚構なのだけれど、それは本当に虚構である必要がある

 「成功」は、岡田斗司夫みたいなたくさんの女と寝たとか処女膜を破ったとかではなく、パズドラのランクが500を超えたとか、ゲーム内のトロフィーをコンプリートしたとか、めちゃくちゃ難しい縛りプレイをクリアしたとか、そういうつまらない、現実と切り離されたことでなければならない。


 逆に言えば、仕事を貰えたとか彼女ができたとか、そういうことは、フィクションが提示しているものとはまったく違うのだろう。その現実の手触りは、ひたすら数字が上がっていくとか、二次元に表現された女の子みたいな、わかりやすいものじゃないはずだ。

 コンテンツが与えてくれる快楽はためらいなく消費すればいい。しかし、現実にある「成功」に対しては、どこかで覚めていなければならない。僕はそう思っている。

 そう思ってるんだけど…今まで何かで成功した感覚なんて味わったことがないし、それがどんなものかはわからない。


 書いている内に、なんか色々と悲しくなってきたし、悔しくなってきた。

 もう可愛い女の子と付き合うことはできないし、先行きは暗い。最近何かと調子が悪い。

 せっかくの長期休み中も、鬱々としているだけでは勿体ないので、そろそろ何かやろうと思っている。幸いにして、卒業旅行とか、友達と遊ぶとか、そういう予定なんて一切ないもんね!!

 たぶん2月中に、連載終わった後、このブログの記事で何か手を打ちたいと思う。そうしないと何のためにブログやってるのかわからないからな。明日から本気出す!!みんな応援してくれよな!!




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