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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

日本のソーシャルゲームは「ソーシャル」なのか?

 日本のソーシャルゲームって、ゲームの仕組み自体はすごく閉じてるし、ゲーム内にソーシャルな要素はほとんどない。でも、ある種のコミュニケーションツールとして使われてはいる。

 例えばそのゲームが学校で流行っているなら、それをプレイすることがコミュニケーションの輪に入っていくための有効な手段になるだろう。その点で、協力プレイできるというのは大きい。「モンスターストライク」の成功もそこにあったのだろう。


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 誰もがTwitterやYouTubeなどで情報を発信できるようになったので、高いランクだったり強いモンスターを持っていたりすればそれを自慢することができるし、ゲームのノウハウを公開することで承認欲求を満たすことができる。

 また、ソシャゲの「フォーマット」がユーザーに浸透してきたことによって、ある意味、「当たり障りなく」ゲームプレイを見せることが可能になった。広く受け入れられているが故に、個人のタレント性を見せるための「刺身のツマ」としてゲーム実況することが可能になる。

 ガチャ実況なんかはユーチューバーの間ですごく流行ってるよね。



 これが、そのゲームのユーザーからして面白いというのはわかる。強い関心のあることだし、金が絡んでるから賭博性もある。

 このように、ゲーム実況そのものを目的とするよりは、個々のタレント性を発揮するツールとしてゲームが使われている。もちろん、それは背景にあるゲームが持っている機能と世界観の裏付けがあるからこそ可能なことだ。


 ただし、コミュニケーションのツールになるという点では、ソーシャルゲームに限らずあらゆるコンテンツがそうだろう。別にそれが流行ってさえいれば何でもよく、必ずしもソシャゲである必要はない。



 「最近のソシャゲはオンラインが充実してるし、実況とかSNSに関係なく、ゲーム自体ソーシャルな要素ばっかりじゃないか」という反論があるかもしれない。

 だが、日本のソシャゲは、他者とのコミュニケーションによって発生するものに重きを置いていない。洋ゲーである「Clash of Clans(クラッシュ・オブ・クラン)」なんかは、「他者」という要素をしっかりゲームの中に取り入れている。(相手がどのような陣形を組んでいるのか、自分はどのようなユニットの構成でそれを崩すか、どれくらい資源を奪うことができるのか、など)


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 一方で、日本のソーシャルゲームのベースにあるのは、「誰にでもできる努力」と「無限に数値が上昇して強くなっていく世界観」だ。これは必然的に、他プレイヤーと争い合う要素を避け、一人きりで欲望を享受できる閉じた世界を作り出す。


 日本のソシャゲにおいては、コミュニケーションではなく、自分自身の目的(=レベルを上げること)に焦点が当てられている。他者を尊重しているわけでもなければ、対立する相手として他者がいるわけでもない。プレイヤー同士の繋がりは当たり障りのないものである必要があり、誰をフレンドにするかというのも、個人の特性より何を持っているかで決まる。

 クエストをクリアしたりレベルを上げるという目的が先にあって、他プレイヤーはその為の効率や効用として動機付けされている。もちろん、何か目標を掲げた上でのコミュニケーションは発生するし、それは現実のメタファーにもなっている。

 だが、ゲームの世界が誰にでも「努力」や「成長」を可能なように設計されているということを(だからこそ役割を持てるという悲しい部分を)、忘れるべきではないだろう。


 パズドラは、フレンドという機能以外に他プレイヤーと関わることはなく、かなり内向的だ。モンストなどのソーシャルな要素があるゲームでも、他人と一緒にプレイすることはできるが、それぞれの指向しているものは自分自身の直線的な上昇にあって、プレイヤー同士の関係の変化によってゲーム内の何かが変わるみたいなことはあまりない。


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 しかし、あえて挙げることのできるソーシャルゲームの最もソーシャルな点は、「欲望は他者の欲望」ということだろう。自分の「努力」に正比例して数値が上昇していくという仕組み自体は自立している。ただ、そのスコアやゲーム内の諸要素の価値は、多くのユーザーがそのゲームをプレイすることで強められる。


 日本のソーシャルゲームは背反する要素を抱えている。

 自分の欲望を満たすための自己完結した世界という点では閉鎖的でありながら、その欲望の根拠が他者に依存しているという点では「ソーシャル」だ



 この理由はひとえに、ゲームの中の価値を製作者が自由に作り出せる点にある。(二次元には被害者がいないから作者の好きなものを描けるというのに似ている)

 また、現実とは違って、その価値がプレイヤー同士の関係によって変化することはない。(例えば現実の「経済」とは違い、それぞれのプレイヤーにとっての価値のある世界は自立しているので、資源を奪いあったり配分が問題になったりなど、プレイヤー間の相互作用によって揺らぐことはない)

 そして一方で、ゲームの中の価値はユーザー間の「ソーシャル」な部分によって裏付けられている。


 かつて、このようなシステムは存在したことがなかった。


 ここからは個人的な予想に過ぎないが、現状で日本のソーシャルはそれほど「ソーシャル」ではない。だが、これからもっと別の形でのソーシャル性が生まれてくるということはありそうだ。抽象化された欲望をうまく扱うことができれば、漫画などで「二次元」がやっているように、現代人の膨れ上がった欲望を何らかの形で救済することが可能になるかもしれないし、その上で、他者との新しいコミュニケーションのあり方を模索することもできるかもしれない。

 ゲームと連動した出会い系サイトとか、面白そうじゃない?




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