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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

「ゲーム」の定義と、ゲームが持つ超越性について

 どうも、しっきーです。これから、ゲーム産業とかコンテンツ産業について、毎日1記事更新する連載形式で書いていこうと思うよ。


ゲームの定義


 まずはゲームの定義の話から。

 万人が納得できる形で「ゲーム」という言葉を定義することはできない。ウィトゲンシュタインが、著書「哲学探求」の中で、「家族的類似性」という概念の例として持ちだしたのは「ゲーム」だ。


ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

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 世の中にはいろんな「ゲーム」があるけど、ゲームと呼ばれるものすべてが、「ゲーム」という本質を共有しているわけではない。つまり、すべての「ゲーム」に共通する概念など存在しない。一方で、ゲームと呼ばれるもので、どのゲームとも共通点を持たないゲームは存在せず、あるゲームは、必ず他の何らかのゲームとの共通項を持っている。

 一つ一つのゲームは、他のゲームと類似する要素を持っているが、すべてのゲームに共通する要素はない。このような特徴を、互いに重なりあったり交差し合ったりしながら領域を広げていくという意味で、「家族的類似性」と言う。ウィトゲンシュタインは、言語活動ってそういうものだよと主張した。


 何が言いたいかというと、「ゲーム」という広く使われている言葉の一義的な定義は不可能だということ。「ソーシャルゲーム」とか「アクションゲーム」とか「PRG」という言葉なんかも、もう厳密には定義できないくらい領域を広げてしまっているような気がする。



 というわけで、ここで言う定義と言うのは、「ゲーム」のどういう部分に着目するかということで、単なる初期設定にすぎない。結局この記事はゲームやコンテンツを通した自分語りだからね。そして僕なりにゲームの定義をしてみると


  • 入力の効果が「誇張」されて出力になる
  • 入力から出力までの「速度」
  • 自分の外部に「確信」がある


 ということになる。「誇張」、「速度」、「確信」という言葉を使った。これは、スポーツや対人戦などのゼロサムなゲームではなく、今のスマホゲーなど、デジタルゲームに重点を置いた定義。


入力の効果が「誇張」されて出力になる 

 ゲームは、入力に必要な労力よりも出力される効果のほうが遥かに大きい。その誇張は、アクセルを踏んでハンドルをきれば車が走るというものではなく、もっと規模が大きい概念的なものだ。

 実際には画面の表示が切り替わっているだけなんだけど、ゲームという世界の中に没頭してしまえば、単なる指先の動きが世界を変える力を持つ。

 例えば、ヴァーチャルリアリティで実際のRPGのフィールドの中に入れたとしても、多くの人間は移動するだけで疲れてプレイできないだろう。


入力から出力までの「速度」

 現実は冗長で、割り切れないアナログな時間が延々と続いている。

 生きているということの、遅さ。卒論の締め切りが迫っているという危機的状況に直面して、一つのことを集中して取り組むことの困難が身にしみる。疲れ、眠気、倦怠、散漫…。やりたいことと、それをやるまでの間に流れる無限の冗長な時間と憂鬱こそが、ゲームに対する現実の「遅さ」だ。

 それにくらべて、ゲームは入力したものがすぐさま出力と言った形で認識できる。その速さ、入力から出力までの円滑な手続き自体が力を持つ。そして、そのような入力と出力の連続によってゲームが成り立っている。


自分の外部に「確信」がある

 自分自身の思考に確信を持つのは並大抵のことではない。自分の能力というのも、テストなどで可視化されたり、資格といった裏付けをもたない時点では、非常に漠然としている。しかし、すべてが計算で行われるゲームの世界はそういった曖昧さとは対局にある。

 ビットの反転、記憶領域の書き換わりという、自分の外部にあるものが、ゲーム内で起こったことの効果と意味を保証してくれる


 ゲームの時間は、速く、明確だからこそ、冗長な現実にいる僕たちはそこに快楽を感じる。ゲームの速度と確信に身を任せれば、惰性でゲームに浸ることも可能だ。惰性でプレイできるというのはゲームの重要な特徴だろう。

 ゲームを寝ないでプレイし続けて死んだ人間もいるみたいだが、ゲームが人間の集中力の限界を引き出したというよりも、ゲームに現実が持っていかれたのだ。


ゲームが持つ超越性

 日本人がやるようなオンラインゲームやソーシャルゲームのメインの内容は「レベル上げ」で構成されている。例えば、「リセマラ(リセットマラソン)」とか、「スキル」や「運」というステータスを上げるためのクエスト周回など、多くの人がほとんど苦役としかいいようのない作業を進んでこなす。


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(画像はmixiのモンスターストライクより)


 そこでの成果の価値を保証するのは、当のゲームそのものでしかない。その裏付けは、恋愛や経済に比べていかほどのものなのか。こういった現象は、あるいは後世の人が見れば、今の僕たちが宗教の時代を振り返るときのような感慨を抱かせたりもするのだろうか。




 誰もが情報にアクセスできるようになり、何かと「確信」を持ちにくくなったのだと思う。宗教とか国家という枠組みが、かつてのように人生の意味を裏付けてくれる力を失った。


 一時期よく言われていた「セカイ系」などは、「きみ」と「ぼく」との恋愛が世界の危機に結びついている…みたいな、一対一の関係性の中に神や国体のような超越性を求めるというものだった。

 宗教や国家の力が弱まれば、ほんのささやかなことにそれと同じような機能(超越性)を見出してもおかしくはないということだろうか。


 人々の嗜好が細分化する中、恋愛であれ、知的対話であれ、政治運動であれ、二次元であれアイドルであれ、人を熱中させるものはそれなりに超越的なものを感じさせる仕組みを有しているのだろう。

 ここでゲームの超越性を考えてみるなら、「手続きの速度と確信」ということになると思う。ゲームの世界の中で起こる作用は、現実の冗長な時間に比べればずっと快適だ。何事も覚束ない時代には、その内容云々ではなく、手続きが与えてくれる快適さ自体が超越的になりうるくらいの力を持ってもおかしくない。もちろんその善し悪しにはコインの裏表がある。


 多くの人気スマホRPGは、「ボタンを押せば数字が増えていく」という簡単な仕組みをベースにしている。「意味」はなくてもいい。ただそれを上手くできるということが重要なのだ



 人間の生み出したあらゆる制度や様式は、無限に続く時間の複雑さを縮減するようにつくられている。近年ますます勢いを増しつつある「ゲーム」は、誇張と速度と確信をある意味では濃縮した形で、僕たちの前に提示する。これは一体何を意味するのだろうか…?


 ある側面では、ゲームはエンターテイメントというより、コミュニケーションツールや収益システムになりつつある。それを推し進めたのが、手元にあるモバイル機器の上で動き、細切れの時間に入り込む形で成功したソーシャルゲームだろう。

 かつては単なる娯楽として捉えられていた、ゲームや、マンガ、アニメなどのコンテンツ産業は、今や知的経済への転換の重要な足がかりとして注目されている。だが、これからの「ゲーム」は、娯楽でも経済でもなく、もっと避けがたい別の形で、僕たちの意識や生活の中に入り込んでくるかもしれない。



 今日から、だいたい30記事ほど、ゲーム中心にコンテンツ産業の記事を投稿していこうと思っています。明日や明後日も投稿しようと思うので、よかったら見てくださいね^^




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