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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

『評価経済社会』というすごすぎる発想

 インターネットの登場は、農業革命、産業革命に次ぐ新たなパラダイムシフトだ!今僕たちは時代の変わり目に立っている!と声高に叫ぶ胡散臭い人はたくさんいるけれど、その中でも岡田斗司夫は頭一つ抜けている。『評価経済社会』とは彼が使っている言葉で、ネットの色んなところで言われてるから多分みんな名前くらいは聞いたことあるだろう。


 YouTubeとかニコ動とかTwitterで一般人が人気者になることができて、そういう人達はファンからの施し物で生活していけるから、これからは評価経済社会なんだよ。という程度の話に捉えられがちだけど、本をちゃんと読んでみたら、わりとしっかりした土台を持っていることがわかった。


評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている



 この本の重要なポイントは、もう科学はオワコンと言ってることだ。(オワコン=終わったコンテンツ=ネットスラングで、一時は栄えていたけどその勢いを失ったものという意味)



 かつて、産業革命によって、科学は宗教をオワコンにした。同じように今、科学と、科学が生み出した一連の価値観(合理的思考、資本主義、民主主義、近代的自我)がオワコンになりつつある。もちろん、宗教がなくなったわけじゃないように、科学もなくならない。それでも、かつてのように「科学こそが正義」だった時代が終わり、代わりに新しいパラダイムがやってくる。

 その新しいパラダイムとは「自分の気持ち」だ。評価経済社会とは、「自分の気持ち」が時代を席巻する価値観になった社会のことだ。何を言ってるかわからないと思うから、なんとなく解るように説明してみるぜ。興味があったらおつきあいくだされ。




 まず、パラダイムが変わる前の人間は、その後の価値観を受け入れられない。産業革命前の人間に後の価値観をは話すと「異端者だ殺せ!」となってしまう。そして、アルビン・トフラーの「引き返せない楔」という概念がある。一度パラダイムが変わってしまうと、もう元のパラダイムには戻れなくなる。

 農業革命が起こると、農地から離れられなくなって身分も固定してしまう。後になって狩猟社会のような自由を求めても、常に食べ物の心配をしているシビアな生活には戻れない。産業革命後の社会は、かつてあった安らかな宗教の救済を失ってしまったが、もう皆が神を完全に信じていた時代には戻れない。そして、「自分の気持ち」が何より重要になるパラダイムシフトは、科学や経済や合理的な選択を無条件に正義としていたわかりやすい時代が終わってしまったことを意味する



「宗教」というパラダイム

 中世ヨーロッパでは、「勤勉」は泥棒と同じ行為だった。「貪欲は悪」という価値観で、一人がたくさん働けば結果的に他人の土地や資源を奪うことになる。土地は限られて、下手に生産量を増やしたりすれば人口が増えて数年後飢餓に陥るし、揉め事の種にもなりやすい。だから農民は農民らしく、領主は領主らしく、聖職者は聖職者らしくすることが求められる。身分を逸脱して「勤勉」に働いたりなんかしてもいいことはない。

 飢えや病気などで死亡率は高かったけど、そのぶん教会がとても力を持っていた。当時は神を信じるか信じないの問題ではなく、神の元に行けるか行けないかが感心事だった。神職者はばったばった死んでいく人達を「天国に行けるからいいじゃん」と慰めるのが仕事で、尊敬されていたというレベルじゃなかった。生活は酷いものだったが、みんなが信仰によって安らかに神の元へ行くことができた


「科学」というパラダイム

 もともと科学は、神の真理を確認するために行われたんだけど、神の教えを否定せざるを得ない結果が出てしまった。科学はものすごい技術革新をもたらし、生活水準は飛躍的に上がる。皆が合理的な考え方を覚えると「経済学」も発展しだす。みんなどんどんスピードアップして富を創りだそうとするので、教会に祈る時間も減り、宗教の力は弱まっていった。

 封建制の時代は身分が固定されていたし、生産性を向上させるなんてことは忌むべき行為だった。だがパラダイムが変化することによって、人々の意識も社会の仕組みも変わってくる。民主主義により身分は開放され、資本主義の発展により自由とチャンスは増した。しかし「引き返せない楔」を打たれ、分をわきまえていれば職があった時代にも、何の疑いもなく神の救済を信じられた時代にも戻れなくなった。

 科学の力には絶大なものがあり、かつて「宗教」が中世の人々を救済に導いたように、「科学」は目覚ましい成長を遂げながら人々に幸福をもたらしてきた。だがその「科学」も、ついに耐用年数を迎えつつある。


「自分の気持ち」というパラダイム

 評価経済社会の前提は「科学」の力が弱まってきたことだ。客観的で揺るぎない「科学」が、もっと適当で、刹那的で、明確な根拠を求めることができない「自分の気持ち」にとってかえられることになる。そして、人々が「自分の気持ち」に従って互いに評価を与え合う社会がやってくる。



 どうして科学は力を失いつつあるのか。かつて科学が「正義」だった頃、例えば行動経済成長期は、働けば働くほど会社が大きくなっていった。次々と電化製品が開発され、みるみる生活が良くなった。インフラが整備され、どんどん立派な建物が建っていく。公害やエネルギー問題なんかも、当時は科学技術が発展していけば簡単に解決すると思われていた。近いうちに人は宇宙に乗り出して月や火星に住めるようになると予想されていた。


 科学は今も発展し続けている。だが、列車が走ったような、飛行機が空を飛んだような、テレビが家庭で見られるようになったような、スペースシャトルが大気圏を突き破ったような、そんな劇的なことはだんだん起こらなくなってくる。

 月面に着陸しても、それで何ができるわけでもないことがわかってしまった。医学が発展しているといっても、今だにガンも直せないし、不老不死は生きてる間に実現しそうにない。成人病は科学技術でどうにかなるようなものでもなく、普段からの心がけに頼るしかない。環境問題が何らかの科学的な力で一気に解決するみたいな見通しを今でも持っている人は少ないだろう。


 昔の映画やアニメなどに出てくる博士、科学者は博識で、何でも知っているすごい人だった。でも今は分野の細分化が進んで、自分の専門以外のことはまったくわからなくなっている。研究をするにも、企業や政府に必死にアピールして費用を捻出してもらうしかない弱い存在だ。原子力の問題なんてデータとれないから決定的なことは言えないし、マスメディアに流される専門家の意見も右往左往して、科学的な正しさが危ういということにみんな気づき始めた。

 <はやぶさ>が話題になって日本が湧いたときでさえ、小惑星の砂塵を回収したから何かがわかったというのではなく、「失敗が連続するもあきらめず、世界初の偉業を成し遂げた日本人たち」というストーリーにみんなが感動したわけで、科学の力とかじゃない。


 経済も同じことだ。昔は無限に経済が成長して生活はどんどん豊かになっていくという前提があったが、今は一生懸命働いても自分の生活が段々豊かになっていくなんて到底思えない。むしろ経済は全然成長しないし、資本の収益率のほうが高くてどんどん格差が広がっていく。良い仕事も減ってきていて、仮に職につけたとしても、逃げ切った世代や高齢者の社会福祉のせいで割を食うことになる。



 当時、その時代に生きた人達は、科学とは生活を良くする絶対的なもので、経済はずっと成長していくものだと思い続けている。しかし、若い世代の間には、科学や経済というパラダイムがもたらした「合理性」や「金」よりも、「自分の気持ち」を重視しようとする傾向が芽生えている。それは若者の嗜好、行動や、漫画やアニメの内容など、あらゆる方面で見られる。

 「自分の気持ち」を重視する生き方は、かつてのパラダイムの価値観(宗教、科学、経済)に背くことになる。宗教の時代に生きている人は「罪深い」と思うだろう。科学や経済の時代に生きている人は「怠け者」で「社会の厳しさをわかっていない」と言うだろう。パラダイムが変わるとはそういうことだ。



 多くの若い人にとって「自分の気持ち」が第一なのは、既存の「科学」や「経済」という価値観に従っても幸福を追求できないことが明らかだからだ。経済が成長していく時代は、会社に入って出世していけばだんだん生活が豊かになって楽しかった。しかし、その「成長」や「進歩」が見込めなくなれば、出世とかしなくていいから自分の好きなことをする時間を持ったり、やりがいのある仕事をしたいと思うのは当たり前だ。


評価経済社会

 「自分の気持ち」が時代の正しさになった世界では、宗教という敬虔なものよりも、科学という合理的なものよりも、「何がどれだけ自分に影響を与えるのか」が一番大事になる。評価経済社会では、各々が「自分の気持ち」を評価という形で相手に与えることになる。それが可能となりつつあるのは、インターネットとSNSというインフラが整ってきたからだ。かつては「影響」を与え「評価」を受けることができるのはマスメディアの特権だったが、これからは個人と個人の間で「影響」のやり取りができるようになる。ネットが発達していくと、人の評価というものが可視化されるようになっていく。


 今の政治家はどんどんタレント化している。有権者は利益に基づく合理的な判断よりも、「自分の気持ち」に従って投票者を決める。待遇だけで見ればブラック企業であるディズニーランドはバイト不足で悩んだことはないし、ファンが持つ「自分の気持ち」に訴えることができるからこそ、割高のグッズを売って収益を上げている。人気ユーチューバーや実況者がファンからものを貰ったり、グッズを売ってお金を稼ぐみたいに、個人レベルでもそれが可能になっていく。大勢がクリエイターやミュージシャンやアイドルや声優を目指して、みんなから評価を集めたがっている。はてな村民はいくら集めても何の意味もない☆が主食だ。


 岡田斗司夫は、評価>金 が成り立つようになれば評価経済社会というパラダイムに切り替わるという。自分が他者から貰う「評価」が金よりも重要になる時代がいずれやってくる。科学が目覚ましい力で人々を魅了した時代は終わったし、資本主義は人の仕事をどんどん奪っていくので、もう旧来のシステムに従ってもみんなが生きていけるようにはならない。

 中世の聖職者はまったく生産活動をしなかったが、宗教に関わっていたから生活することができた。これからは、他人から評価される人が生き残れる時代になる。今のような一部の有名人だけじゃない。普通の人同士が、お互いに影響を与え合い、お互いを評価し合うことになる。より高い評価を得る者のところに人や物やネットワークが集まる。


 当然、科学が消えるわけがないし、貨幣はずっと便利な道具として残り続けるだろう。ただ産業革命後の宗教のように、それほど支配的なものではなくなる。代わりに、「自分は何が好きか」に基づいた「評価経済社会」が旧来のパラダイムにとってかわる


 今までは、より便利なもの、より高品質なものを、より収益を上げて金を稼げるように、という競争だった。これからは、より好かれるか、より評価を集められるか、という競争になっていく

 評価経済社会というパラダイムシフトが起こると、産業革命後宗教による安らかな救済が失われたように、科学や経済が絶対的に正しかった時代のわかりやすい進歩や成長を失ってしまう。

 岡田斗司夫は、別に評価経済社会が良い社会だとは言っていない(面白いとは言ってたけど)。むしろ、他人から好かれるヤツが生き残るような恐ろしい社会がやってくると言う。クラスカーストで1位になるヤツや、ひたすらコミュ力が高いヤツ、芸人や人気ユーチューバーみたいな人達が、かつての聖職者や、今の資本家、実業家、科学者の立場にとってかわるだろうと予言している。たしかに、わりと嫌な社会に思えるからこそ妙に現実味がある。


 宗教がすべてだった時代の人は、神の元に、身分相応に敬虔で慎ましい生活をすることが正しいと思い込んでいた。科学が正義だった時代の人は、自らが合理的に物事を判断できる主体となり、揺るがし難い真実に向かって進歩、成長していくことが正しいと思い込んでいた。そして、ついに科学や経済は「自分の気持ち(人々の主観)」に覇権を譲り渡すことになる。自分の気持ちを大切にすることこそが正しく、そのような人々の「自分の気持ち」に影響を及ぼすことのできる人が、これからの時代に力を持つ


 かつて農業革命によって、人間は「自由」を失いました。

 住む場所が、土地に縛られるだけではありません。今日食べることとは関係ない「仕事」がたくさん発生し、年貢や種まきのため、倉にはあっても食べてはいけない食物が発生しました。

 好きな場所に住み、好きなものを食べ、好きなことをして暮らしていた生活を失ってしまったのです。


 また産業革命によって、人は「安定」を失いました。

 部族の一員という安心感や、先祖から受け継いだ土地というよりどころを失いました。

 誰からも自分が必要とされてないのではないか、自分は何のために生まれ、何をしたらいいのか、という不安がいつも心から消えなくなってしまったのです。


 現在の私たちが、狩猟生活を想像してその雄々しさや自由にあこがれを抱くように、農耕生活を想像して、そのいる場所のある安心感や連帯感、自然とともにあるゆったりとした時間にあこがれを抱くように、30年後の人々はこの前までの私たちの生活にノスタルジーを感じることでしょう。

 あの、家庭も社会も世界もすべてが上を目指し、未来を目指し、背筋を伸ばして生きていた、本当の正義と進歩が存在し得た時代は二度と戻ってはこないのです。


 もう、あとには戻れません。

 農耕民族がかつての自由を取り戻すために、農業を捨てて飢えにおびえる生き方に戻ることはできません。

 都会人が安心を取り戻すために、豊かさを捨てて祈るだけの毎日に戻ることはできません。

 私達は進歩や正義を取り戻すために、自分の気持ちや自分らしいネットワークを捨てることはできないのです。



 なかなか筋の通った考え方だと僕は思う。当然想定されうる批判として「岡田斗司夫の言うことはまったく科学的、実証的ではない」というのがあるだろうが、まさにその科学こそがオワコンだと彼は言ってる。科学や実証を持って彼を批判する人は、ガリレオを異端審問にかけた人達と同じってことになるわけだから、よくできてるよね。

 岡田斗司夫は色んなところで喋ったり書いたりしてるけど、「こいつ全部思いつきで言ってるだろw」と思うくらい隙が多くて、そこをつつくのは簡単だろう。でもそれは、岡田斗司夫自身が完全に評価経済社会に梶を切っていて、科学的、合理的な整合性なんかよりも、彼に共感する人を増やすことを重視しているからだと思う。


 上で述べてきた岡田斗司夫の考えの「真偽」は問いようがないが、それを「評価」するのは「僕たちの気持ち」なのだろう。

 僕は、今起こってる色んなこと関してかなり説明しやすくなるという点で、十分耳を傾けるに値する考え方だと思う。このエントリーでは枠組みしか紹介できなかったけど、岡田斗司夫はブログやニコ動などで色々言ってる。評価経済社会の提唱者だから当然かもしれないけど、無料で見れるコンテンツが多いので、この記事を読んで興味が出たらぜひ見てみてください。(岡田斗司夫オフィシャルブログ)




 岡田斗司夫がすごいのは、絶望的でもなく理想的でもない、ちょっと嫌だけどたしかにそうなのかもしれないな、という未来像を提示していることだ。そして、大衆を切り捨てようとしたり馬鹿にしたりしない。タレント性で政治家を選ぶなんて衆愚政治だとか、実力もないのにクリエイターになりたい若者ばかりでけしからんとか、ネット乞食は人間のクズとか、大学卒業しても何をしたいのか決められない馬鹿がたくさんいるとか、そういう皆が安易に非難しがちなことを、別の視点から真っ当に解説している。さすが、アニメをバックグラウンドにしているだけ立派だ。やはり日本のアニメの力は偉大ということになるのかもしれない。

 もうコンテンツ産業は金が儲からないから衰退していくという人は多い。だが評価経済社会なら、これからますます漫画やアニメやゲームが興世する時代がやってくることになる。そういった希望は、僕たちの実感から外れてもいないし、まだ未来に向かって前向きに行動させてくれそうなものなんじゃないだろうか。




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