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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

『日本の文字』の特徴を知ろう

 普段はずっとキーボードで文字書いてるけど、いざ筆をとって書かざるをえない場面になると簡単な漢字を思い出せなくて困ったりするよね。キーボードと漢字変換機能がなければどれだけパフォーマンスが落ちるのかを思い知らされる。


 ブログなんかをやってたら、アウトプットするときの自分の思考がどれだけ入力形態に依存しているかというのは体感的にわかると思う。僕はスマホ打つの全然ダメだけど、有名ツイッタラーなんかは思考がスマホ入力に最適化されているのだろうか。

 このエントリーでは、石川九楊『日本の文字』を読んで、日本語の特徴と、日本語をキーボードで打つというのはどういうことなのかを考えてみたい。



 世界に無数に存在する民族の中で、縦書きの書字文化が残っているのは日本と台湾だけらしいけど、「ひらがな」を含む日本語は横書きにまったく向いていない。ひらがな「あ」「い」「う」とアルファベット「a」「b」「c」の文字の形態を比べてみると、ひらがなは上から下に、アルファベットは左から右に繋がるようにできていることがわかる。このような文字は「つながる」ことによって意味を獲得するので、もともと縦に書かれるべきひらがなを横に書くのは、アルファベットを縦書きするようなもので、日本語の力は弱められてしまう。ちなみに、ひらがなを横書きで「つなげ字」していくと段々アルファベットのようになり、アルファベットを縦書きで「つなげ字」していくとひらがなに似てくる。



 石川九楊は本当にすごい!!書家であると同時に評論家であり、字の形とそれを書いてきた経験から、日本語とは何かという問いに迫っていく。


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日本の文字―「無声の思考」の封印を解く (ちくま新書)

日本の文字―「無声の思考」の封印を解く (ちくま新書)



 石川九楊は、「三種類の文字を必要とする」のが日本語の特徴だと言う。漢字、カタカナ、ひらがなの三種類だ。


漢字の特徴

 漢字の特徴はいくつかある。まず、漢字は「一字が一語」として独立している。ひらがなやアルファベットは、例えば「あめ」「rain」のように「字」をつなげないと「語」にならないが、漢字は「雨」という一字で語が成り立つ。


 次に、漢字には重心がある。横に連ねるアルファベットにも縦に連ねるひらがなにも重心はない。しかし漢字は「へん」や「つくり」などの構成要素(部首)を一箇所に集める形で成り立っているから、重心のようなものを持っている。書家である筆者には筆跡の鑑定などの依頼も来るそうだが、人それぞれ漢字の重心に特徴が出るらしい。

 もともと漢字は縦書きするものだが、字を構成する要素が一箇所に集まり、また一つ一つの漢字が独立しているので、横書きにしても悪影響は少ない。


 そして、ひらがなやアルファベットは一つの「音」と「字」が対応しているのに対し、漢字は音と字が対応せず、決まった呼び方をする必要がない。「意味」と「字」が直接対応する「表意文字」だ。漢字は東アジアに広く普及していて、当時の知識人は国が違っても筆談で交流することができたが、声の交流はまったくできなかった。「字」だけで完結していて、読み方は何でもいいのだ。


 書字の世界では「点画(てんかく)」と呼ばれるものだが、漢字には「音と対応していない無声の単位」がある。「有声の単位」であるアルファベットなどは「a」という記号を「a」として発音、認識できればそれでいい。だが、書の世界には「転折をいつも丸く流すように書く」とか「前半の横筆部をゆるやかな右上がりのベクトルで書き、転折をいつも折り目正しく角張らせて書く」といった形でしか言及できない筆法がある。

 「草書体」という、一般人には何が起こってるかわからないような字体も、点画を意識すれば読み取れる。

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 ここまで文字がくずされうるのは、文字を構成する単位が音を乗せていないため、書字の論理が自由度を高めるからだ。どんなにくずされた文字であっても、そこに正字がもっていた本来の筆法の痕跡がうかがえれば、つまり書字の論理にしたがって書かれていると了解できれば、これが正書体の草化書体として理解され共有される。


 高校で習うソシュール言語学の「シニフィエ、シニフィアンの恣意的な言語構造」みたいな話は西洋では言語学の基礎だが、漢字文化圏には当てはまらない。形から意味を読み取るわけだからまったく恣意的というわけでもないしね。

 西洋言語学は声で伝達する「話し言葉」の表記記号として「文字」を位置づけているが、漢字ははじめに「文字」がある。つまり、西洋では「話し言葉→書き言葉」なのに対し、漢字文化圏では「書き言葉→話し言葉」なのだ。


カタカナの特徴

 「三種類の文字とか言うけどひらがなとカタカナって同じようなもんだろ、盛ってるだろ」と思われるかもしれないが、明治初期の言語改革論が盛んなときに、ひらがなとカタカナを統一しようという話はほとんど見られなかったらしい。当時は「漢字を廃止しよう」とか「ローマ字を取り入れよう」とか色々言われていたが、「ひらがなとカタカナまとめちゃえばいいんじゃない」という意見が少なかったことは現代からすれば意外に思える。

 音と対応した文字は「つながる」ことで意味を成すが、「カタカナ」という文字の形を見ればわかるように、どれも右上から左下に打ち込むような形になっている。これではひらながのような「つづけ字」ができない。なぜなら、カタカナは漢字の間に挟み込み、漢語をひらいて訓読体をつくるための文字だからだ。漢字の多い文章に仮名を増やすことを「ひらく」と言う。


 書道ではカタカナを書くときの手本が存在しないらしい。「つづけ字」ができないカタカナは単独で言葉や文体をつくる力に乏しく、なめらかに言葉を紡ぎだす文字としては成熟していない。しかし、一字一字が独立している漢字の間に入ることができるという点で、重要な役割を果たす。


ひらがなの特徴

 ひらがなは知っている通り、現地語の書き言葉化に成功した文字だ。日本は中国から漢字を取り入れたが、音と意味がつながらない表意文字だったため、カタカナを使った書き下し文で消化し、最終的に現地の音(話し言葉)を文字にしたひらがなと組み合わせることで日本語がつくられた。ひらがなは季節の移ろいや性愛などの心理的な描写を得意とするが、それゆえにもともと漢詩に込められた政治的な意味合いが消えてしまう。

 政治、思想、宗教の表現を得意とする漢字に対し、カタカナはそれを翻訳して「ひらく」役割があり(今も法の条文の一部は漢字とカタカナで書かれている)、ひらがなは「つづけ字」ができず文字として不十分だったカタカナから脱却して、独自の文体を獲得することに成功した。



 このようにして、日本語は漢字の文体(漢詩文体)カタカナ文体(訓読文体)ひらがな文体(和文体)の三種類の文体を持つことになった。「春眠不覺曉」と「春眠暁ヲ覚ヘズ」と「春の眠りは心地が良くて夜が明けたのに気づかない」とでは、それぞれの喚起力がまったく違う。





 西洋は声の文化だが、漢字文化圏は文字の文化だ。西洋では音を文字に書き起こしているので、アルファベットの形が異なれば音も異なる。一方で、漢字は読むときの「音」には拘らないが、それを「書く」ことが重要で、「美しい字を書く人は、知識、教養、思考のスタイルも美しい」とされてきた。手書きのエントリーシートはやめて欲しいけどね。

 西洋は歌声で思いを届けるのに対し、東アジアでは恋文を書いて思いを伝えてきたらしい。詩も、西洋は音の韻を重視するが、日本は文字で韻を踏む「字韻律」や意味で韻を踏む「意韻律」が重視された。これらの技法が、掛詞、縁語、見立、歌枕などの和歌の表現になる。



 今僕は、アルファベット表記のキーボードを叩いて日本語の文章を作成している。だが、それは日本語の成り立ちから考えるとかなり歪んだことなのだ。


 日常普段のローマ字入力によって、多くの日本人がアルファベットに親しみを持つようになり、あたかも言葉、文字がアルファベットからできているような錯覚が意識化に沈殿し、再生産されていく。このように不思議なことが現代ではまちがいなく生じている。私たちはこのような不思議な時代を生きている。


 うがった味方をすれば、パソコンを使って日本語を書かせることは、漢字(漢語・漢詩・漢文)の圧倒的な数の語彙をもち、それゆえ、抽象度の高い言葉をもつと同時に、他方でひらがな(和語・和歌・和文)の四季と性愛の具象的表現にも長じた日本語、その自由な表現を制限して、劣化させ、日本語を愚昧にするための陰謀ではないかとすら思える。パソコンを使い出してから漢字が書けなくなった、思い出せないという嘆きがあるように、字を書けなくし、日本語を使えなくすることを企む機械であるといえるのだ。


 そこらへんのおじさんが同じことを言ってたら「わろすwwwwwww」と一蹴してしまうかもしれないが、本書を読んだ後だと思うことも違ってくる。一流の書家である石川九楊からすれば、日本語の本分である「書く」ことを忘れ、西洋の「音」を基本にしたローマ字入力で文章を作成することが当たり前となっている現状に看過しがたいものがあるのだろう。


 本書は「堕ちるところへ堕ちてゆく」日本語に対し、「書くことの復権」として書道教育の充実を主張している。まあ書家だからそれは当然。あと、せめてもの妥協案として和文タイプライターを提案しているが、さすがにそれは無理wwwww

 しかし、こういう考えを「老害乙」と切り捨ててしまうようなら、たしかに「堕ちるところへ堕ちてゆく」のかもしれない。キーボードで入力せざるを得ないしても、もともとの日本語のあり方を考えることは常に必要だろう。



 入力方法が違えば、多分その結果も違ってくる。同じ人でも、キーボードを打つのと筆で書くのとでは違うものができあがるだろう。たしかに、明治や大正の文豪が書いた文章からは日本語の力が伝わってくる気がする。ただ、情報過多のこのご時世において、それと同じようなものを書いて見向きされるのかは疑問だ。


 キーボードで書くメリットは、何より「速度」だ。とくにブログなんてある程度早く書けなきゃやってられない。キーボードならキーボードで書くなりの文章があるし、それが筆で書いた場合と比べてどのようなものになるのかということは、これから文章を書く僕たちが考えていくべきことだ。なにも直書きの完全劣化ということもないだろう。キーボード入力の場合、ひらがなを横書きで書くときの不利はある程度解消されているのかな、とも思う。

 でも、それとは別に、たまには筆を手にとって書いてみるのも必要なことかもしれないね。




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