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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

子供の「しつけ」は親がするものなのか?

本の感想 社会 日常

 ツイッターのタイムラインで、あるつぶやきを見た。モザイクをかけて転載するが、つぶやいた個人がどうこうという話ではないことに注意。


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 内容自体はありがちなものだし、別に問題になるものでもない。ただ看過できないのは、リツイートとお気に入りの数だ。こういう、「偏見+勧善懲悪」みたいなコンテンツは、カタルシスを解消するある種の典型として常に人気がある。


 2ちゃんねるなんかでは、たとえば、「女という性別を利用して上手く立ちまわる女性」に「何らかの懲罰を与えるか、復讐を遂げる」みたいスレは伸びやすい。「女叩き」というコンテンツで、アフィリエイトサイトは積極的にまとめるし一定の層に必ず人気が出る。そういう種類のものは、そこから距離をとって見れる人からすれば、特定の偏見と欲望に基づいて作られたものだと感じるだろう。だがこのツイートの場合はどうか?


 ここで「悪い」されているのは、新幹線で「めっちゃ騒いで」いる子供に、「放置の構え」をとっている親だ。字面だけではその場の空気や詳しい状況を判断しようがないが、むしろその「字面」がツイッターでこれほどの人気を集めたことに着目したい。

 気になるのは、注意する際に発した言葉の意地の悪さと、そこに込められた攻撃性だ。これは、親に(子供にも)ある程度のダメージを与えないと反省しないだろうとの見込みで発せられ、実際にそれが功を奏したわけだが、RTとファボの多さはそれに対する喝采なのだろう。

 この事例は、子供は親がしっかりと「しつけ」るものであり、子供の無邪気な振る舞いに対して親を深く恥じ入らせることで「解決」するのが正しい、という価値観が強いことを裏付けていると思う。



 ここで参照にしたいのが、広田照幸『日本人のしつけは衰退化したか』という本だ。15年前くらいに出版された本だが、いまだに示唆に富む内容であることは上の事例からもわかる。


日本人のしつけは衰退したか (講談社現代新書)

日本人のしつけは衰退したか (講談社現代新書)


 本書の主張を一言で言うなら、「昔はしつけがしっかりしていた」とか「昔は今みたいな凶悪犯罪は起こらなかった」という話はまったくの大嘘だ、ということになる。出版されてからそれなりに時間が経っているので、本書の知見はある程度自明なものとして行き渡っていると思いたいが、過去を美化するロマン主義は常にある。「昔はしつけがしっかりしていた」と「最近の若者は~」も、ほぼ同義と考えていいだろう。


 本書では、「しつけ」がどのように捉えられてきたかが歴史的に検証されている。一般的に、都市化した家庭は子供を放任しがちで、田舎の山村は厳しい「しつけ」がなされていると(出版当時は)考えられがちだったが、実際は真逆だった。


 山村部の地域共同体では、両親とも働きに出ていたし、子守は少し上の子供か老人にまかされる仕事だった。子供は「しつけ」などしなくても周囲の環境から育つものという考え方が地域共同体においては自然だった。そもそも今僕たちが考えるような「しつけ」という概念がなかった。


 一家総出で働く農村から経済構造が都市型に近づくと、父親が働いて、ある程度余裕の出てきた母親が子供を「しつけ」るという意識が生まれてきた。(もちろん高学歴の一握り)

 自分の自己実現を子供に託そうとする教育ママみたいな存在はこの時点でも見られる。都市型の新中間層は基本的にインテリなので「学校」を見下す立場のものが多かったが、それでも今に比べれば学校に対する信頼は厚かった。


  50年代から70年代までは「学校の黄金期」だった。なぜなら、経済成長により、「しつけ」という考え方を持たない地域共同体の子供が大勢流入してきたからだ。当時の学校の「しつけ」は、田舎から来た子供たちにも新しいチャンスを与える役割を背負っていた


 高校進学率が9割に達するようになると、「旧習の克服」としての学校の黄金期が終わり、むしろ学校独自の基準(成績)によって恒常的に一定の「敗者」を作り出す装置になっていると親たちからの不信が高まる。かつては進歩的だったが、その時代にはすでに時代遅れの生活指導や集団訓練が非難されるようになる。


 かつて「しつけ」の機能を果たしたとされていた地域共同体が消失し、学校が不信の目にさらされることになって、家族のみが子供の最終責任者としての責任を強めてきている。本書が書かれたのは15年前だが、現在もこの話の流れの延長線上にある。むしろ、僕が子供の頃にはかろうじてあった(ように思えた)地域社会も衰退しているだろうし、少子化で子供に対する人権意識や過敏性は高まっている。昔は「しつけ」が厳しかったという観念がひとり歩きしているが、むしろ親の責任は昔から今にいたるまで段々強くなり続けている


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 そもそも「しつけ」という言葉の意味は多様である。どんな時代でも、労働に結びついた「しつけ」は常に厳しい。しかし、都市型の生活をする上で生まれてきた労働と結びつかない「しつけ」は漠然としていて、さらには矛盾している。

 実際の仕事と切り離された「しつけ」は、「望ましい子供」像をあれこれ取り込んだ「パーフェクトチャイルド」が想定されている。主な3つの傾向は「厳格主義・学歴主義・童心主義」で、つまり、人格も学力も優れていて、さらに童心も失わない子供だ。新幹線で騒ぐ童心のある子供を叱って人格や生活規律を身につけさせなければいけない一方で、教育ママのような学歴一辺倒ではなく子供らしさを尊重しなければいけない。子供の教育を担う親には、矛盾した「しつけ」を完璧にこなす「パーフェクトペアレンツ」であることが求められる


 もともと、そのような完璧な子供を親が育てるという価値観は、都市部の限られた層に特別に見られたもので、一般的に親だけが子供の「しつけ」をしてきたわけではなかった。地域共同体や学校が「しつけ」をする役割を上手く担ってきた時期もあったが、その「しつけ」も単純な時代の偏った考え方に過ぎなかった



 当たり前だが、親だけに「しつけ」の責任を負わせるのは無理のある話だ。だって、常識的に考えて、どれだけ親が頑張って「しつけ」ても、同じ学校に通う友達が不良だったら一緒に悪いことをするかもしれない。周りの環境次第で良くも悪くもなり得る。自分に当てはめてみれば当然のことだ。

 だが、「親」に責任を負わせようとする考えはいまだに根強い。「ベビーシッターの死体遺棄事件」という不幸な出来事もあったが、そのときにも親の責任を糾弾する声があまりにも多かったのは記憶に新しい。


 このように「子供は親がしつけるもの」という強い観念は、江戸時代から続く封建的な価値観と、「イエ」という枠組みを保持しようとする社会保障政策で強められてきたものかもしれない。(参考:与那覇潤【中国化する日本】日本の雇用は「身分制」


 経済が良かった時代は、家庭でやるような「しつけ」がある程度上手くいったと考える人も多いのかもしれない。その「結果」、立派にしつけられた人達が出来上がったかどうかは各人思うところがあるだろうが、そのときでさえ地域共同体も学校も今よりは断然機能していたし、子供や女性の人権だって低かった。かつて上手くいっていたという幻想があり、その社会の枠組みを今に引き継いでいるからこそ問題になっている。そういう話はわりと広い範囲でありがちなことだが、「子供のしつけに対する責任は親が負うもの」という間違った価値観もその筆頭だろう



 上記のツイートの件だが、親がいて、その子供が周囲に迷惑をかけているなら、子供を叱るか、せめて周囲に申し訳なさそうな態度を示すべき、と考える人は少なくないかもしれない。下手に自分が注意すると面倒くさいことになる可能性もある。仕方なく、嫌な気分でイヤホンを耳に差し込んだ経験を持つ人が多いからこそ、このRT数、ファボ数なのかもしれない。

 ただこの事例には、非常に象徴的な、「これこそが日本社会だああああ!!」という意味では逆に喝采を送りたくなるような陰湿さがある。これが実際にあったことなのか、つぶやいた人の創作なのかはわからないが、言葉を言った本人も、それをツイートで広めた人も、その言葉と行為の背景と自意識のあり方を冷静に審議に問われたとすれば、恥じ入るところもなくはないのではないか。


 自分の子供の頃を思い返してみて、人が大勢いるところではしゃぎまわった記憶はなかったか、親に叱られてもぐずり続けた記憶はなかったのか。親は新幹線の中だけじゃなく、ずっと、うんざりするくらい子供と一緒にいるのだ。都心で電車に乗ってて、ベビーカー押してる親を見ると、本当に子供育てるの大変だなあ、と思う。

 狭い空間に閉じ込められてみんなが仏頂面しているほうが異常だと考えることだってできる。「子供は社会が育てるべき」という価値観が共有されていれば、上記のツイートに対してあまりにも幼稚だと顔をしかめる人が多いだろう。



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