しっきーのブログ

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ゲーミフィケーションって何だろう?

 「ゲーミフィケーション」という言葉が最近けっこう使われたり、本が出版されたりしている。「ゲーム」の中にあるなんらかの良い効果を目的に応じて使おう、という取り組みとして紹介されることが多い。ただ、ゲーミフィケーションとは何かを定義するのは難しい。そもそも「ゲーム」という言葉の示す範囲が広すぎる。「マリオ」や「ドラクエ」や「シムシティ」や「FPS」や「将棋」や「すごろく」や「野球」や「サッカー」や「囚人のジレンマ」なんかも全部「ゲーム」と言うわけだから、その「ゲーム化=ゲーミフィケーション」なんて言葉が定まるわけがない。


 同じように「真面目なゲーム=シリアスゲーム」とか、インターフェイスに注目した「ゲームニクス」とか言われたりしてるけど、バズワードなので、提唱した人がいてそれがどう認知されていくか、という話でしかない。

 まあゲーミフィケーションには色んなことを言う人がいるんだけど、その色んなことの内の一つとして、僕のゲーミフィケーションに対する考え方を述べたいと思う。


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 ゲーミフィケーションとかいう言葉が出てきた背景には、「なんで勉強はまったく続かないのにゲームなら徹夜してもぶっ通しでできるんだろう?」という素朴な問題意識があると思う。それはすごくわかる!!ゲームにハマるみたいにして勉強ができたら捗るに決まってる。仕事や何らかのプロジェクトとかに関してもそうだろう。だから、これだけゲームが流行していてゲーミフィケーションの類の言葉が出てこないわけがない。


 じゃあゲーミフィケーションを実践するときに何をすればいいのか?という話になってくるんだけど、ランキングとか報酬とかコレクション性とかミッションとか目的の明確化とか言われることが多い。でもそれって、そもそも最初から現実にある。

 つまり、ゲーミフィケーションとは、一度現実からゲームに取り入れられて、そのゲームの中で洗練されたものを現実に再輸入する試みだと言える。じゃあ、その再輸入し得る部分とは何なのか?

 そこに対する僕の考えは、デジタルゲームの持つ特徴である、入力か出力までの速度と確信、「冗長性の縮減」だと以前書いたソーシャルゲーム批判という記事で詳しく述べた。簡単に言うと、ゲームという総体は現実の僕たちが持っている冗長さや複雑さを切り捨てる形で成り立っている


 もちろん、ゲームの特徴はそれだけではない。ゲームで編みあげられていった「仕組み」の部分に着目して何かしらの良い成果を上げようとする試みは、決して無益なものではないだろう。例えば、日本のゲームに見られる洗練されたチュートリアルやゲームデザインを他に応用することは誰でも考えたくなる。



 だが、僕は、言葉のイメージに近い意味での「ゲーミフィケーション=ゲーム化」に対しては、あまり良く思っていない。ゲームの内部にあるものを誰にでも使える「手法」にしてしまう際には、かなり注意が必要だと考えている。



 「ゲーミフィケーション」には色んな例があって、Duolingoで外国語学習をしたり、企業が取り入れたりとかしているみたいだけど、もっとも成功した例は日本のソーシャルゲームだろう。日本のソーシャルゲームは海外のものと比べても収益率が魔法みたいに高い。DeNAやグリーやガンホーがここまで大きな会社になり、mixiもソシャゲで復活した。


 僕はソーシャルゲームを「ゲーム」ではなく「ゲーミフィケーション」だと思っている。つまり、ゲームの中のほとんど「手法」の部分だけが使いまわされ、運営されている。すでにある色んな有名な作品とイベントコラボなんかをして、ユーザーから金を集めている。

 今のソーシャルゲームは、国内のゲーム市場の半分以上の規模を占めると言うけど、コンシューマーゲームとソーシャルゲームを同じ「ゲーム」としての括りで捉えるのは無理がある。あれは「作品」としてゲームを販売しているわけではなく、ゲームの「手法」を使って金を巻き上げるアプリケーションだ。


 あと、コミュニケーションとか対戦とかランキングなんかの要素がゲームの面白い特徴だと言われているし、確かにその通りなんだけど、最も収益を上げたであろうソーシャルゲームの「パズドラ」にそういったものがないという事実はよく考えたほうがいいと思う。




 ソーシャルゲームの延長で、多分「ゲーミフィケーション」はなんらかの「成果」を上げると思う。DeNAは教育アプリをつくると言っているし、社会的に評価される取り組みとして認められる可能性も高い。

 でも、「ゲーミフィケーション」という「手法」が優れたものとして無批判に広がっていくのは普通にまずいと思う。広告とかマーケティングとかは本来そういうものなのかもしれないが、基本的に人の弱い部分に漬け込んで金を儲ける仕組みだからだ。「それは常識的に考えてダメだろ!!」とみんなが言えればいいんだけど、程度の問題でもあるし、現状で国内ゲーム市場の半分の金がソーシャルゲームに落とされていると考えるとけっこう恐い。少し背景を考えれば金を落とさせることが目的だと明らかなものに、これほどの人がハマっているという恐ろしい事実がある。ゲームを始めるなりキラキラした絵が出てきて「レア!」なんか言われたら、そのまま激怒してアプリをアンインストールするのが文明人のとるべき態度なんだろうけどね。

 効率を上げるというだけなら確かにゲーミフィケーションはかなり有効な手法だろうが、ソーシャルゲームの延長上にそれほど「良い結果」が待っているとは思いにくい。



 僕は「ゲームは社会を良くできる」という理念には大賛成だ。ただそれは「ゲーミフィケーション」としての「手法」を使ってではなくて、作品としての「ゲーム」がやるべきことだ



 例えば、ゲームを学習に活かすことを考えてみる。プログラミングや数学を学べるゲームを作るとして、そのためは、既存の数学学習をゲームにする「ゲーミフィケーション」ではなく、数学ができるようになるゲーム自体を作るやり方でないと難しいだろう。

 例えば、数学をテーマにしたRPGを作ろうとする。基本になる仕組みが論理演算と代数だとして、それぞれ三角関数をやっている町とか指数関数をやっている町とかがあって、ベクトルの町と行列の町は交易が盛んで、敵になるモンスターは数学を使って倒すんだけど新しい手法を身につけるごとに倒しやすくなって……。みたいな、ゲームクリアするころには高校数学と基礎的なプログラミングが身についているようなゲームは、「手法」の延長ではできない。そういうものを作るには「作為」が必要になる。

 だからそういう試みは数学学習のゲーミフィケーションではなくて、数学のできるゲーム、というより、ゲーム自体の固有名詞として、「作品」として認識されるべきだ



 僕は任天堂とかの「ゲーム会社」に、どんどん遊びと同時に学習にもなるゲームを開発して欲しいと思う。ゼルダとかピクミンとか開発できる能力があるんだから、やっていく内にどんどん数学に強くなるみたいな大作タイトルを作ることだってできるかもしれない。WiiUの2画面というアイデアだってそんなに悪いものじゃないと思う。GamePadにすらすらと文字を書き込んで認識できるようになれば次世代ハードとしても一応いける。……まあ、あんまり変な妄想を語りすぎないほうがいいかもね。



 ゲーミフィケーションはバズワードなので、言葉が定まっていないまま勝手に論じても仕方がないかもしれない。僕はゲーミフィケーション否定派だが、現実において何がゲーミフィケーションで何がゲーミフィケーションでないかを考える作業は、ゲームとは何かという根本的な問題にも繋がってくるので、それ自体はまったく否定しない

 ただ、現実に何らかの強い影響を及ぼしそうなことに関しては、「ゲーミフィケーション(手法)」から「ゲーム(作為)」へ、というのが僕の主張だ。



関連項目

ソーシャルゲーム批判

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