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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

ソーシャルゲーム批判

 どうしてソーシャルゲームを批判しなければならないのだろうか。僕が子供の頃、「ゲーム」は親にもまわりの大人にもいい顔をされないものだった。一見眉をしかめたくなるものであっても、目の前に現れた新しい「遊び」を安易に非難するべきではない。それは何より、小さな頃ゲームを手にしていた僕たち自身が一番わかっているはずだ。僕が大切にしていたゲームソフトの数々は、一部の「子供じみた」大人と、僕たち子供のためのものだった。

 今は状況が違う。今の子供を持つ大人たちは、もう子供だった頃にゲームが身近だった世代だ。今や「ゲーム」は一大産業であり、日本が世界に誇れる文化の一つとしても認められている。ゲームはもう子供だけのものとは言えないし、僕自身ももう子供ではなくなってしまった。

 そして、僕は今ここで、「ゲーム」を批判しようとしている。新しく出てきた「ソーシャルゲーム」は家庭用ゲームを越えて、すでに国内のゲーム産業の半分以上の市場規模を占めている。新しい「遊び」を否定するべきでないと思ってきた僕が、今の「新しいゲーム」であるソーシャルゲームに文句をつけようとしている。批判しなければいけないと思っている。それはどういう理由なのか。


 その考えを説明するために、いささか長い記述が必要になってしまった。最初はあまり長く書くつもりもなかったのだけど、結局それなりの分量の、僕のゲームに対する考えをある程度まとめたものになった。

 この記事では、まず日本のゲームの特徴を洋ゲーと比較しながらソーシャルゲームが生まれてきた過程を追っていく。そして、ゲームそのものの特性を分析してから、ソーシャルゲームを批判するべきという、僕自身の意見を述べる。一言で記事の内容をまとめるなら、僕たちは「ゲーマー」であるべきで、これからの社会には「ゲーマー」が必要になる、ということだ。なかなか大きな話になってしまった。もしあなたがゲーム好きで、僕のとても長い話に興味があるなら、しばらくの間お付き合いください。


【目次】(ページ内リンクです)


 和ゲーと洋ゲーの違い> 洋ゲーは「シミュレーション」> 和ゲーは「パッケージ」> 日本のゲーム> マリオシリーズの変遷> ドラゴンクエストの変遷> 行動対応と行動非対応の間> まとめ


 オンラインゲームの特徴> ソーシャルゲームの特徴> ゲームとは何か> ゲームの中毒性とは> ゲームの中の「合理性」> ソーシャルゲームの「イノベーション」> パズル&ドラゴンズ> 補足


 どうしてソーシャルゲームを批判しなければならないのか> ゲーミフィケーションとは何か> 「ゲーマー」にできること




和ゲーと洋ゲーの違い

 日本で人気のソーシャルゲームは海外のそれと比較してもかなり特徴的なもので、これまでの和製ゲームの集大成とも呼べる側面を持っている。まず、話を始めるにあたって、日本のゲームの特徴を明らかにするため、和ゲーと洋ゲーの比較から始めようと思う。洋ゲーとは、アメリカや北欧やヨーロッパの会社が開発したゲームをまとめて指す俗称で、大手のパブリッシャーはだいたいアメリカの会社だ。和ゲーは日本の会社がつくるゲームのこと。もちろん、和ゲー洋ゲーというのは日本人が自国のゲームと海外のゲームを区別するときに使う言葉なんだけど、たしかにゲームを少しやる人ならぱっと見でそれが和ゲーか洋ゲーか判別できるほど違いがある。


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和ゲーのイメージ


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洋ゲーのイメージ


 ここでは、おおまかに和ゲーと洋ゲーを二分したいと思う。僕の分類では、大きく分けて洋ゲーは「シミュレーション」であり、和ゲーは「パッケージ」だ。


 ここで言う「シミュレーション」というのは、ジャンルとしてのシミュレーションゲームということではなく、ゲームのあり方がシミュレーション的という意味だ。洋ゲーは「シミュレーション」という発想に基づいてゲームを作成している。これは、コンピューターそのものの特徴を色濃く反映していると言える。海外のゲームメーカーはもともとソフトウェアを作っていた会社が多く、Xboxというマイクロソフトが開発したハードも日本と違って普及している。一方、日本のゲームはもともとの発想が「おもちゃ」や「漫画」に近く、その代表と言える任天堂が開発するハードはDSやWiiなど、アナログでインタラクティブな部分が強い。日本のゲームは、海外の「シミュレート」と比較して「パッケージ」的な発想のものが多い

 例えば日米では人気のあるゲームのジャンルもかなり違う。アメリカでは「スポーツ」や「FPS」と言ったジャンルが人気だが、日本ではそれらがあまり流行らず、かわりに「RPG」の人気が特別に高い。以後、洋ゲーの「シミュレーション」、和ゲーの「パッケージ」という特徴を詳しく説明していく。

洋ゲーは「シミュレーション」

 洋ゲーの大人気タイトルには、「GTA(グランド・セフト・オート)」などの犯罪アクション、「バトルフィールド」「Call of Duty」などのFPS(ファーストパーソン・シューティング)、「FIFAスポーツシリーズ」「マッデンNFL」などのスポーツゲーム、「シムシティ」「Civilization」などのシミュレーションゲームというジャンルに分類されるものなど、あらゆる種類のゲームが今も発売され続けている。あえて、これらの洋ゲーの共通項をとるとしたら、それが「シミュレーション」ということになる。

 「シミュレーション」的な発想は、前提になる条件を定めて、そこからの演繹でゲームをつくりあげる。より正確、精密なものを目指し、基本的には抽象的なものを嫌う。シミュレーション的なゲームは、現実の何らかの場面を再現するものが多い。

 例えば、「GTA」なら「犯罪のシミュレート」ということになるし、「バトルフィールド」なら「戦場のシミュレート」、「FIFAスポーツシリーズ」なら「サッカーのシミュレート」、もともとシミューレーションゲームというジャンルの「シムシティ」なら都市開発のシミュレートになる。

 洋ゲーのシミュレーションとしての特徴は、タイトルを重ねた人気作品を見ていくとわかりやすい。洋ゲーの進化の系譜をたどると、より前提条件を多く(精密に)、よりリアルに(現実に近く)、を志向していることがわかる


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 Grand Theft Auto(グランド・セフト・オート)とは、犯罪組織の一員になってあらゆる犯罪(銃の打ち合いやカーレースが主だが)に手を染めるクライムアクションゲームだ。舞台になる街や都市は、現実に存在するものをなるべく再現しようとしている。「ゲームで人は暴力的になるのか?」みたいな話は日本のゲームをメインにやる人にはデタラメな話に思えるけど、「犯罪のシミュレーション」であるこのゲームを自分の子供がやっていたら嫌だと思う親が多くても無理はない。これからよりタイトルを重ねるごとに、現実の犯罪のリアルなシミュレートになるとしたら、けっこう恐い話かもしれない。


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 FPSの代表的な作品「バトルフィールド」は、名前のとおり戦場のシミュレーションということになる。ファーストパーソン・シューティングという視点のあり方も、「実際に自分が戦場に駆りだされたらどうなるか?」をよりリアルに再現、体験しやすい仕組みだ。


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 「FIFAスポーツシリーズ」はサッカーのスポーツゲームだ。これも非常にシミュレーション的な発想で、選手や監督、スタジアムや会場の空気をより精密に表現することに力を注いでいる。ゲーム内の選手も実際にFIFAに所属する選手が登場し、ステータスも現実にいる選手のものにできるだけ近づけようとしている。


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 「シムシティ」は都市開発のシミュレートだ。タイトルを重ねるごとに、より現実の都市に近づけようと、前提条件とされる要素が追加されていく。


 また、日本で人気のRPGというジャンルも欧米ではたくさん開発されている。ただ、洋ゲーメーカーのRPGは日本と違い、正統な意味での「ロール・プレイング・ゲーム」だ。ここでは、箱庭RPGの大作である「スカイリム」を例に出したい。

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 日本のRPGに慣れている人がスカイリムをやれば、何か釈然としないところが多いだろう。種族など、前提として指定できる条件が多いのに、不細工な素材しかなく、頑張ってもあまり可愛くならない。後からキャラクターの見た目を良くするために、Mod(モディフィケーション)を一生懸命入れているのはなかなか微笑ましい。

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 日本のゲームユーザーがプレイしていて違和感を覚えるのは、ゲームの因果律(ゲームバランス)というものがほとんど機能していないところだと思う。自分の馬を殴ればレベルが上がっていくし、アイテムを強奪したりこっそり盗んだりできるシステムがあるが、ちょっと錬金なんかを使えば大量の金が手に入るのでメリットを感じない。ゲームの途中に難易度を変更できるという仕組みもなんだかおかしい気がする。(攻撃を食らった瞬間にメニューを開いて難易度を下げ、ダメージを軽減することもできる)

 日本のRPGのように、頑張ってレベルを上げて強い敵と戦うという少年漫画のような「RPG」ではなく、シミュレーション的な発想でファンタジーの世界を「再現」し、その中で「ロールプレイ」をするという、言葉そのままのRPGなのだ。だから、ゲームバランスが悪いという話ではなく、そもそもの発想が日本のゲームとは違う。オープンワールドというのも、前提条件を設定した後の細かい調整を放棄するからこそできることだ。

 ニコ動などの動画サイトでは、スカイリムのような洋ゲーを改造してアニメ作品なんかを作ったりしていてけっこう面白いんだけど、これもシミュレーションという発想が元にあるからこそ可能になるのだろう。



 また洋ゲーには、シミュレーションとロール・プレイングの関連で、映画の世界観を再現したゲームも多く見られる。

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 スパイダーマンやバットマンなどのハリウッド映画もそうだし、SFやゾンビもそのバリエーションだろう。洋ゲーの発想はある意味で非常にシンプルだと言える。それは、現実か、または映画やSFの世界観のシミュレーションだからだ。だから、ハードの性能が向上するほど、資金と人材をつぎ込むほど、より精度が上がり(現実に近づくという意味で)進化していくだろう。目的が定まっていれば、後は大規模に資源をつぎ込みやすい。洋ゲーの大きなパブリッシャーにはアメリカの会社が多く、ハリウッド方式と言われるやり方とも相性がいいのだろう。


 洋ゲーに似通ったゲームが多いのは、現実を「シミュレーション」するという側面が強いからだ。また、目的は同じなので、ゲーム内の物理エンジンも使いまわしやすい。最近の洋ゲーの進化を見ていくと、現実の物理法則をゲームの中で表現しようとするくらいのレベルまできている。

 製作者の手作業でゲーム内のバランスを精密に調整しようとする発想はあまりなく、そのぶん大規模なゲーム開発が向いているとも言える。ゲームバランスの部分は、製作側が積極的にいじるのではなく、オンラインで各プレイヤーの行動を分析し、そのデータを使って調整しようという発想になっているように思える。

 「シミュレーション」というのは、コンピューターサイエンスの技法に密接した発想だ。洋ゲーのディベロッパーの出自はソフトウェアメーカーが多く、IT技術の延長線でゲームを作ってきた。だからPC対応のゲームがメインだし、据置きのハードも「Xbox」というPCメーカーの「Microsoft」が開発したものがシェアを持っている。家電メーカーであるソニーのプレイステーションはそれと互換性がある。

 洋ゲーは、プレイヤーの年齢層が高く、基本的に大人向けにつくられている。現実の再現だけに残酷な表現も多く、年齢制限がつけられることが多い。日本のゲームは子供向けなのでCESAの審査を非常に気にするが、洋ゲーの市場は年齢層が高いであまり関係ないのかもしれない。また、チュートリアルやゲームの仕組みなども(和ゲーにくらべれば)不親切でわかりにくいことが多い。これも、設計思想がコンピューターに近く、子供ではなく大人を対象にしているからだろう。


和ゲーは「パッケージ」

 洋ゲーの「シミュレーション」と違い、和ゲーは「パッケージ」という発想でゲームをつくっている。「シミュレーション」は土台をつくり前提条件を設定することがメインなのに対し、「パッケージ」は始まりから終わりまで、すべて製作者の明確な意図に基づいてゲームを設計し、プレイヤーが行うであろう行動を一つ一つ想定する。(プレイヤーを把握、または管理しようとしているとも言えるだろう)

 手放しの「シミュレーション」という「手法」に比べて、製作者の「作為」が色濃く反映されることになる。デフォルメされた抽象的なものを取り入れることができるし、変わった認識の仕組みを生み出しやすい。「パッケージ的」と言うのは、最初から最後まで製作者が想定した予定調和的なゲームという意味だ。あるいは「職人的」、と言いかえてもいいかもしれない


 和ゲーのメインプレイヤーは年齢層が低く、もとがおもちゃメーカーである任天堂が市場をリードしている。子供向けに作られている分、わかりやすく丁寧なチュートリアルがあり、迷うことのないよう次のステップが示される一本道のゲームが多い。そのぶん細かい難易度調整を行うことができる。最終的な完成形からの逆算でゲームを考えることができ、一つの「作品」をつくるという意識が強い。そのため、完成度や快適なインターフェイスの面では優れているが、「シミュレーション」的なゲームより世界は狭く、「一本道」や「自由度が低い」と揶揄されることもある。


 洋ゲーの「シミュレーション」と和ゲーの「パッケージ」という対比は、段々明白になってきたように思えるが、デジタルゲーム黎明期の時点ですでに特徴が見られる。



ポン、ブロック崩し、インベーダー

 世界の商用ゲームと言われるのが、アメリカが開発した「ポン(1972)」だ

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 「ポン」は、テニスを画面上で「再現」したものであり、非常に少ない画素数ながらも、二人のプレイヤーで操作して遊ぶことができる。


 そして、「ポン」の技術を応用して次に発売されるのが「ブレイクアウト(1976)」だ。

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 「ブレイクアウト」はテニスの壁打ちを画面上で表現したもので、「ポン」と違い一人でもプレイすることができる。非常に有名なゲームで、「ブロック崩し」として日本でも普及した。実際にプログラミングを組んで「ブロック崩し」を作ってみればわかるが、ボールの速度を決め壁を設置すれば、壁の崩れ方とボールの当たる角度によって返ってくる玉が驚くほど多様に変化する。「シミュレーション」からゲームが生まれた好例だと言えると思う。


 そして、日本で流行していた「ブロック崩し」にヒントを得て、タイトー子会社の社員、西門知宏が開発したのが「スペースインベーダー(1978)」だ。インベーダーゲームは日本で大ヒットし、欧米にも輸出されるくらいの大ヒットだった。

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 「スペースインベーダー」には日本のゲームの特徴が現れている。それは、「コンピューター」としての技術に根ざした発想ではなく、プレイヤーの行動や心理を加味した想像力、製作者の「作為」が強く表れていた。ブロック崩しの壁はエイリアン(インベーダー)に見立てられ、ボールは宇宙船の撃つビームになった。そして、インベーダーの配置も、高得点を上げるシステムも、プレイヤーの動きを想定して、面白い遊びをつくりだす意図を作為的にゲームに盛り込んでいる。インベーダーには、「シミュレーション的」なものを「パッケージ的」な遊びに落とし込んだ最初の発想を見ることができる



ドラゴンクエストというガイドツアー

 日本ゲームの「パッケージ性」を顕著に表しているゲームソフトは、エニックスの堀井雄二がプロデュースした「ドラゴンクエスト(1986)」だろう。RPGはアメリカ発祥であり、その元になったのはTRPG(テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム)だ。テーブルをはさみ、ファンタジーの世界を舞台に言葉を交わしながらそれぞれの役割を演じる。(遊戯王で闇獏良とやったやつ)それをコンピューターでやろうとしたのがRPGの始まりだ。

 有名なテーブルゲームである「D&D」をベースに、「ウィザードリィ」や「ウルティマ」と言った初期のRPGが登場したが、それは一部の人が遊ぶマニアックなものだった。そのRPGを一つの「パッケージ」にし、誰にでも遊べる大衆的なソフトにしたものが「ドラゴンクエスト」だ

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 ドラゴンクエストの発想は、「魔王を討伐する」というわかりやすい最終目標をあらかじめ示し、そこまでの道のりにそれぞれイベントを配置しておく非常に「パッケージ的」なものだった。一本道で、順番に用意されたイベントをこなしていく。オブジェクトの配置や人のセリフも考えられていて、プレイヤーが直観的にゲームの仕組みや進め方を理解できるゲームデザインは、製作者に案内されるガイドツアーのようなものだった。そして、RPGという特性上、経験値を稼ぎレベルを上げれば基本的に誰でもクリアできる。レトロゲーは難易度の高いものが多く、当時一つのゲームをクリアするということは誰にでもできることではなかったので、ドラクエのように時間をかければクリアできるゲームは貴重だった。

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 壮大な世界観を持つ王道のファンタジーでありながら、誰にでもクリアすることができるガイドツアー、それがドラゴンクエストだ。だが「ロールプレイング」というもともとの意味からは大分離れてしまっている。ドラクエは海外では人気がないが、たしかに修学旅行みたいな日本人のメンタリティに合ったものかもしれない。堀井雄二がいかに誰でもゲームの世界に入り込んでいけるかという「チュートリアル」にこだわったかという話は有名だ。ドラクエは和製RPGの基礎を確立した作品であり、「ファイナルファンタジーシリーズ」や「ポケットモンスターシリーズ」などのRPGもドラクエから始まっている。



おもちゃ職人としての任天堂

 「ゲーム&ウォッチ」、「ドンキーコング」、「ファミリーコンピューター」というハードの発売、「スーパーマリオブラザーズ」の大ヒットで一躍トップメーカーになった任天堂は、もともとは玩具会社だった。任天堂がゲームをつくる姿勢には、常に「おもちゃ」という発想があり、ゲームのインタラクティブな部分に非常に強いこだわりを持っている。自らハードを開発し続け、WiiやDSなどのハードを見ても、「おもちゃ」としてのアナログな挙動を重視していることがわかる。

 任天堂のゲームは非常に「パッケージ的」だ。というより、その最たるものと言っていいかもしれない。アナログと地続きになった「動き」の部分からゲームを発想し、組み立て、調整し、「作品」として徹底的につくりあげる。例えば僕の好きな「ゼルダの伝説シリーズ」は、予定調和なパッケージ的ゲームの極致だと言える。(以前書いたゼルダ関連記事一覧

 スムーズな動きやオブジェクトの配置やバランス調整は、ほとんど職人的な完成度だ。そして、子供向け市場を見ていた日本のゲーム会社の筆頭として、あくまでも子供が最後まで遊べる「おもちゃ」として、わかりやすく親切につくられている。

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日本のゲーム

 洋ゲーは何かしら現実に存在するものの再現(シミュレート)なので、より精密でリアルになるほどわかりやすいという側面もある。一方で、和ゲーは基本的にリアルなものを指向してはいないので、技術が進化しタイトルを重ねるたびに、以前とは違ったことをしなくてはならなかった。その傾向は主にソフトではなくハードとしてのゲームを考えてきた任天堂に強いが、大体の和ゲーも同じだと言っていいと思う。この「違ったこと」をしなければならないという状況が、日本におけるゲームの想像力を育んできたのかもしれない。(もちろん安易な類似品や劣化作品もたくさんあるが)

 上では、日本のゲームの「パッケージ」としての特徴を示した。これからは、パッケージ的な日本のゲームという特徴を踏まえて、それぞれのジャンルの特徴を分析していく。


マリオとドラクエ

 誰もが知っているであろう、日本の有名なアクションゲーム「スーパーマリオブラザーズ」と、ロールプレイングゲーム「ドラゴンクエスト」は、後のあらゆる和ゲーの基礎となった偉大なゲームだ。この二つは対照的な特徴を持っている。ここでは、ゲームを分類するめに、「スーパーマリオブラザーズ」を「行動対応」型のゲーム、「ドラゴンクエスト」のことを「行動非対応」型のゲームと呼びたい


行動対応

 「スーパーマリオブラザーズ」は、十字キーを押した長さだけマリオがその方向に進む。ボタンを押すとマリオがジャンプする。クリボーを踏むとクリボーが消える。穴に落ちたり炎に触れたりするとマリオは死ぬ。といったふうに、可視化されたゲーム内のキャラクターの行動(作用)とそれによって起こる反応が一対一で「対応」している。つまり、目で見た通りの反応が起こり、数字やテキストなどの文字情報は必要ない。このようなゲームを、ここでは、「行動対応」型のゲームと呼ぶことにする。

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行動非対応

 マリオのような「行動対応」ゲームと違って、主にRPGと呼ばれるジャンル、例えば「ドラゴンクエスト」は「行動非対応」なゲームである。ドラクエでの戦闘は、「コマンド」というテキストに近い入力形式でおこなう。そこには速度やタイミングといったアクションの要素は要求されない。主人公のアクション(行動)は、「こうげき」「じゅもん」「どうぐ」などのテキストになり、攻撃の効果は「数値」で表現される。画面に表示されるビジュアルと実際のゲーム内の作用がそれほど密接に結びついている必要はなく、重要になるのは数値の処理の部分だ。ゲームシステムにおいて重要なのは「テキスト」と「数字」である。このようなゲームを、「行動対応」と対比して「行動非対応」と呼びたい

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マリオシリーズの変遷

 行動対応ゲームは、一般にアクションゲームとジャンル分けされることが多く、その代表とも言えるのが任天堂の「マリオシリーズ」だ。任天堂は入力と出力が噛み合った「行動対応」のインタラクティブ性に強いこだわりを持ち、一方で綿密な調整のもとに組み立てられた「パッケージ」的なゲームを作ってきた。

 マリオシリーズは膨大な作品が作られ続けているが、ここではマリオのメインストリーム(ここも議論があるかもしれないが)である、「ドンキーコング(アーケード)」→「スーパーマリオブラザーズ(FC)」→「スーパーマリオワールド(SFC)」→「スーパーマリオ64(64)」→「スーパーマリオサンシャイン(GC)」→「スーパーマリオギャラクシー(Wii)」→「スーパーマリオ3Dワールド(WiiU)」の流れを追っていきたい。


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「ドンキーコング」は1981年に任天堂が発売したアーケードゲーム。主人公にマリオという名前はこの時点ではついていないが、マリオシリーズの原型がある。画面固定のスクロールアクション。


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「スーパーマリオブラザーズ」は1985年発売のコンシューマーゲーム。ハードはファミリーコンピューターで、世界一売れたゲームと言われている。スクロールアクションとしてのマリオの原型になった作品。説明は不要だろう。


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「スーパーマリオワールド」は1990年発売のスーパーファミコン用ソフト。「スーパーマリオブラザーズ」の正統な進化系で、普通のジャンプに加えスピンジャンプというアクションが加わり、ヨッシーに乗れたりアイテムで変身できたりと、新しい仕組みが加わった。


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「スーパーマリオ64」は1996年発売。2Dの横スクロールだったマリオのシンプルな操作性はそのままに、3Dになった立体的な世界を冒険することができる。カメラを持ったジュゲムが撮影しているという設定の視点移動など、64黎明期の革命的な仕組みが多い。


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2002年ゲームキューブ発売の「スーパーマリオサンシャイン」。基本的な操作は「マリオ64」と同じだが、マリオが背負ったポンプによって、「水」を使った様々なアクションが新しく追加されている。


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2007年Wii発売の「スーパーマリオギャラクシー」。重力と宇宙をテーマに、球場の地形を駆けまわる新しい操作感覚を生み出した。Wiiリモコンの動きと噛み合ったアクションが魅力。続編の「スーパーマリオギャラクシー2」も発売されている。


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「スーパーマリオ3Dワールド」は、2013年発売のWiiU用ソフト。2Dスクロールと3Dの奥行きが合わさった視点が特徴的で、一つの画面で4人が快適に同時プレイできる。今までのマリオシリーズの良さを引継ぎながら、新しい発明が詰まっている。ゲームの新しい境地を切り開いてきたマリオシリーズの歴史に恥じない傑作。



 任天堂はハードメーカーでもあり、常にハードとソフトを同時に考えてゲームを開発してきた。その姿勢は職人的であり、他のゲームメーカーからすれば閉鎖的に見えるかもしれないが、それゆえに革新的な仕組みを生み出し続けている。DSやWiiなどデジタルなゲームにプレイヤーの挙動を取り入れる仕組みも、保守的な層には快く思われなかったが、「行動対応」型のゲームを作成してきた任天堂からすればまったく不自然なものではない。ボタンを押すという行動とゲームの作用を一対一で対応させてきたように、タッチ(DS)やモーション(Wii)とゲームの世界を結びつけた。WiiUのGamePadや、フィギュアと連動するらしい「amiibo」も、「おもちゃ」としてのアナログな部分を重視してきた任天堂らしい発想だろう。

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 「行動対応」の作品には、操作感や認識とごまかしようがなく結びついているだけに、新しいゲームを開発するためには「発想」が必要になることが多い。マリオシリーズだけではなく、任天堂は基本的に「行動対応」のゲームをメインに作っている。自らハードを作成し、新しい「遊び」を作り出すための仕組みを発明してきた。その意味で最も困難な道を歩いてきたと言えるし、それ故に現在も世界最強のゲーム会社の地位を確保し続けているのかもしれない。今回のE3で、久しぶりに完全新作「Splatoon(スプラトゥーン)」の発表があって、もうそれだけで感動してしまった。

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 「Splatoon」はシューティングゲームでもあり、放射するインクによる陣取り合戦でもある。イカになってインクの上を移動できたり、インクの中に身を隠せるなど、やってもいないのに安易な予想をするべきではないのだが、トレーラーを見ただけで面白いことがわかる。皆が息を呑んだその「発想」の素晴らしさは、過去から多くの名作がストックされた現在において、「新しい」ゲームを作り出すことの困難さも同時に物語っているのかもしれない。



ドラゴンクエストの変遷

 日本の「RPG」はもともとの「ロールプレイング」とはかなり違ったものになっていることは上で述べたし、おそらくプレイしたことがある人は皆が思っているだろう。和ゲーでRPGと言われているものの基本的なイメージは、経験値やレベルがあって、コマンド選択で戦闘が進んでいく、といった感じだと思う。ここではそれを、「行動非対応」ゲームと呼ぶことにする。

 マリオシリーズなどの「行動対応」ゲームは、プレイヤーの入力と画面内の作用が結びついていなければいけなかったが、「行動非対応」のゲームは、グラフィックと効果の関連がそれほど密接ではない。文字で記されるデータをグラフィックが補足される形でゲームが成り立っている。だからこそ、ファンタジーなど幻想的な表現と相性がいいと言える。また、グラフィックの向上に合わせて仕組みを変化させる必要は必ずしもない。

 日本の大人気RPG「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」はどのように進化していったのだろうか。一つは「ストーリー」だ。「パッケージ」としての和製RPGに不可欠なのが物語の部分だろう。設定や世界観やストーリーはほとんどのRPGにおいて重要な要素だ。

 もう一つが、RPGにおける「ゲーム」の部分、ストーリーの途中にある「選択肢の多様性」だ。RPGは、武器や呪文や道具などのゲーム内の「データベース(差異の体系)」を発展させてきた。多様で複雑な「データベース」があれば、プレイヤーは自分の戦略性を描き、よりRPGの世界を深く堪能することができる。


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初代ドラゴンクエスト。和製RPGの基礎となった作品。勇者が一人で魔王を討伐する内容だった。


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ドラクエⅡでは、主人公が3人になり、使用できる武器や呪文の種類も増えた。


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主人公と仲間3人の最大4人で冒険できる。それぞれステータスや覚える呪文が異なる「職業」といった概念が導入され、選択肢の幅が大きく広がった。このドラゴンクエストⅢで後のドラクエに繋がる基礎的なシステムができあがる。


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ドラクエⅣは、それぞれの登場人物に視点を当てたオムニバス形式の壮大な物語が魅力だ。仲間が馬車に入れるシステムもできた。


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「Ⅴ」では、プレイヤーの世代を超えた壮大な物語をテーマに、モンスターを仲間にできる要素も加わった。


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「Ⅷ」は、ドラゴンクエストの世界観を立体に起こした作品。グラフィックやキャラクターの造形が変化しても、コマンドで選択して戦闘するというおなじみのシステムには変わりがない。


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ドラクエⅩでオンラインゲームに。ネットに繋いで大勢の人と同時プレイできるようになった。


 「行動非対応」であるRPGは、ハードウェアの挙動とは結びついてない代わりに、ストーリーとグラフィックによる世界観と、ゲーム内のプレイヤーが選択をしたり戦略を立てたりできる仕組みを組み込むことで進化していった。現在は、「ドラゴンクエスト」ならコミュニケーションに、「ファイナルファンタジー」はより複雑で幻想的な世界観に、メインの流れがあるのかもしれない。

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「ファイナルファンタジー」シリーズも、シリーズ14作目までタイトルを重ねているが、ドラクエとはまた違った趣の世界観を持ち、「ATB(アクティブタイムバトルシステム)」など、コマンド選択のRPGの中にも動きのあるシステムをもたらした。


 ここで注意したいのは、動きの無いターン制やコマンド選択のシステムだからと言って「行動非対応」だとは限らないということだ。例えば(デジタルゲームではないが)「将棋」や「囲碁」や「チェス」はアクションと効果が一対一で対応しているので「行動対応」型のゲームだ。

 ドラクエやFFのような「行動非対応」ゲームは、「数値上昇的な世界観」を前提としている。それは、プレイヤーの習熟度やゲームの中で払った労力を「数値」で表すということ、つまり「経験値」や「レベル」のことだ。

 例えば「数値」によってアクションに影響を受けることがない「スーパーマリオブラザーズ」などは、ステージ1でもステージ8でもマリオの強さや機能にかわりはない。一方で、「ドラゴンクエスト」の場合、レベル1の状態でラスボスに勝つことは絶対にできない。もちろん、どういう選択をするか、という点でプレイヤーの実力は反映される。うまくプレイングすれば低いレベルで強い敵に勝つこともできるだろう。しかし、プレイヤーの習熟度や実力を数字に置きかえてしまうというやり方は、「ボタンを押せば誰でも成長(レベルアップ)できる」という点で敷居が低く大衆に受け入れられたが、それだけに安易でもある。「行動非対応」ゲームというのは、生身のプレイヤーの実力と「非対応」になっているという意味にもなってしまう。そして、この特性はオンラインゲームやソーシャルゲームの核になる部分だ。



行動対応と行動非対応の間

 もちろん、最近のゲームをある程度やっている人なら、その「行動対応」と「行動非対応」の中間があるということは知っているだろう。例えばアクションRPGと言ったジャンルがそうだ。「行動対応」(プレイヤーの実力が反映される部分)と、「行動非対応」(「数値」や「属性」などの指標で作用と関係なしに効果が決まる部分)の両方が、規模の大きなゲームにはだいたいある。「行動対応」寄りのゲームはプレイヤーの実力が反映されるし、「行動非対応」寄りのゲームは、ゲーム内で溜めたレベルなどの指標に強く影響を受ける

 現実にあるスポーツなどは、当たり前だけど「行動対応」のゲームだ。「行動非対応」は、もともとは計算機だったコンピューターから生まれたデジタルゲームらしい特徴と言ってもいいかもしれない。


 ちなみに、数値が介在するからと言って「行動非対応」なわけではない。行動と数値を結びつけるやり方も、ゲームではずっとやられてきたことだ。

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 例えばストリートファイターの場合、普通のパンチはダメージ1、キックはダメージ3、波動拳はダメージ5(数値は適当)などと、行動の度合いを数値のグラデーションで表現してきた。このような格闘ゲームというジャンルには、基本的に経験値やレベルなどがなく、プレイヤーの実力がもろに反映される「行動対応」ゲームだ。また、「シミュレーション」的な洋ゲーも、より「現実」に近づけるという方向性で数値をゲームに取り入れるので、この「行動対応」に分類されるものが多い。


 日本では人気の高い「モンスターハンター」というゲームは、キャラクターや武器の様々な「行動」に数値でグラデーションをつけている。

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 例えば、普通に斬りつけた場合はダメージ1、大振りの攻撃を当てればダメージ2、隙の多い溜め攻撃が成功すればダメージ5(数字は適当)などと、様々な攻撃の種類があり、なおかつプレイヤーの実力が反映される。一方で、武器や防具によって「ステータス」が上昇するRPG的なレベル上げの要素も備わっている。

 強い武器を使えば、先ほどと比較して、普通に斬りつけた場合はダメージ10、大振りの攻撃を当てればダメージ20、隙の多い溜め攻撃が成功すればダメージ50などと、攻撃力が上がる。プレイヤーの実力があれば弱い武器でもモンスターを討伐することができるし、プレイヤーの実力が低くても強い武器を揃えればなんとかなるゲームバランスになっている。つまり、モンスターハンターは「行動対応」と「行動非対応」の中間にあるゲームだ。


 アクションが上手ければレベルをほとんど上げなくてもクリアできるゲームから、どれだけアクションがうまくてもステータスが低ければどうしようもないゲームなど、それぞれのゲームには、「対応」か「非対応」、どちらの側に寄っているかの「度合い」がある

 例えば、「マリオシリーズ」や「格ゲー」などは「行動対応」の側だし、「ドラクエ」などの「RPG」は「行動非対応」の側にあるものが多い。また、「モンスターハンター」はその中間(かどちらかと言えば非対応側)にあり、「オンラインゲーム」や「ソーシャルゲーム」はアクション性が強いものであっても「行動非対応」の側に寄っているものが多い。また、「ポケットモンスター」のようなゲームは、ストーリーを進めていくときにはレベルを上げればなんとかなる「行動非対応」だが、レベルを統一して他のプレイヤーと対戦するときは「行動対応」の側に近づく。

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 ゲームを作る上で、プレイヤーを上達させて始めから終わりまで導く調整が必要な「行動対応」ゲームに対し、「行動非対応」ゲームはレベルさえ上げれば誰でも次に進めるという点で安易なものになりやすい

 純粋な「行動対応」のゲームをつくるためには任天堂やカプコンくらいの高い技術力が必要になる。そして、「行動非対応」の安易さ、簡単さは、後の「オンラインゲーム」や「ソーシャルゲーム」に繋がっていく。もちろん僕はゲームの傾向によって良し悪しがあると主張したいわけではない。ドラクエやFFなどの和製RPGが日本のゲームの素晴らしい達成であることは間違いない。




 ここまでで「行動対応」「行動非対応」と分類してきたが、その前提として、日本のゲームが「パッケージ」として作られてきたことが重要だと思っている。洋ゲーの場合は発想が「シミュレーション」なので、あまり行動に対応しているかどうかを考える必要もない。

 そして、「パッケージ」としての日本のゲーム全体の進化の傾向は、「より敷居を低く、わかりやすく、親切に」というものだった。まず、日本のゲーム会社は玩具や漫画などと関連があり、ゲーム購買層の年齢が低く、子供が最後までクリアできるものをつくらなければならなかった。そして、技術の発展に比してシステムや概念が複雑になっていく中で、それをうまくパッケージとしてのゲームの中に落とし込まなければいけなかった。そのために説明書がいらないチュートリアルや、プレイヤーを上達させるゲームデザインの手法が蓄積されてきた。

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 複雑な操作を直感的に把握し、上達して最後までクリアできるというのは優れた日本のゲームの特徴だ。(ピクミンについて以前書いた記事



 洋ゲーのようなシミュレーションの場合、操作方法は難しかったとしても、現実の再現という意味では非常にわかりやすいし受け入れられやすい。メインユーザーが大人ということもあり、ある程度複雑で不親切なものをそのまま提示できる。また、「よりリアルに」という方向性が定まっているので、大規模な開発もしやすい。


 和ゲーは、「おもちゃ」として、これまでにないゲームとしての表現をまずプレイヤー理解してもらわなければならなかった。そのためにそれぞれのゲーム特有の「様式」を生み出しながら、「入口は低く出口は高い」ゲーム体験を作り出すようになった。だから、「一本道」と言われるゲームが多くなるのも仕方ないことではあると思う。


 また、和ゲーの中でも、子供向けではなくハードゲーマー向けにつくられ、海外で高い人気が出ているものもそれなりにある。

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 フロム・ソフトウェアが開発した「デモンズソウル」「ダークソウル」は、高い難易度と重厚な世界観のダークファンタジーとして知られるアクションRPGだ。子供向けとは言えそうにない高い難易度で知られるこのゲームも、非常に和ゲー的な「パッケージ」という発想でつくられている。どんな武器があり、どんなフィールドで、どんなモンスターやボスがいて、それをどこに配置するのか。難しくても理不尽にはならないような難易度設定、ゲームバランスを非常に苦労して探っている感じがプレイしていてわかる。雰囲気は洋ゲーに近くても、制作者の側からの綿密な調整がなされているという点で(後からパッチを当てることにしてプレイヤーにテストプレイをさせているという意見もあるが)、非常に日本のゲームらしいソフトだと僕は思っている。(デモンズ、ダクソについて以前書いた記事


 和ゲーは製作者の「作為」が色濃く反映されるので、ものの配置や難易度調整など、作り手とプレイヤーとのやり取りと言った部分が大きい。だからこそ「簡単にしてやりなおす」とか、「救済アイテムが出てくる」みたいな安易な妥協策があると、僕たちは何か嫌な気持ちになるのだろう。



 また、和ゲーの「格闘ゲーム」や対戦要素のあるゲームは、作為の込められた「パッケージ」の中での対戦と言った要素が強い。

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 そのため、対戦ゲームには非常に綿密なバランス調整が必要とされる。格闘ゲームと言われるジャンルや、「大乱闘スマッシュブラザーズ」などのゲームも、徹底したテストプレイと細かい調整の賜物だろう。突出して強いバランスブレイカー的なキャラクターがいるゲームはあまり良く評価されない。

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 RPGやアクションなど一人向けのジャンルでも、「これを使えば楽勝」などと言ったものがあると、ゲーム内の世界が歪んでいる気がするので、あまり良い気分にはならない。そういう点での和ゲーユーザーの目は厳しいのかもしれない。ここは洋ゲーの「シミュレーション」的は発想と対比されるところだ。(ちなみに、シミュレーションはシミュレーションでそれを突き詰めるとバランスがとれる、ような気がする)



まとめ

 ここでは、和ゲーと洋ゲーの違いについて説明してきた。もちろん、「シミュレーション」「パッケージ」という分類、また「行動対応」「行動非対応」という分類は、大きく見てそういう傾向が指摘できる、という僕の主張にすぎない。当然ながら、どんなゲームもシミュレーション的な演繹とパッケージ的な調整で作られるだろうし、洋ゲーも和ゲーもお互いに影響を受け合っている。説明から漏れるソフトはいくらでも見つかるだろう。あくまで、これは僕がここで話を進める上での分類だ。


 しかし、今までの話を踏まえれば、和ゲーにはリアルさや自由度が足りないとか、洋ゲーはワンパターンとか、そういう議論が的外れだと言うことがわかるだろう。ゲームを制作する会社の出自と、もともとのゲームに対する発想が違うのだ。



 コンピューターサイエンスなど、学術や産業と結びつきやすい「技術」とゲームが一体になっている「シミュレーション」としての洋ゲーは、それなりに安定して発展していくだろうしシェアも広げやすいだろう。技術の進化とゲームの進化がイコールになっているからだ。和ゲーは作り手の「作為」によってゲームバランスを調整してきたが、これからはオンラインによる技術の発展に即して、シミュレーションとしてのバランスメイクがますます有効になってくる。さらに、ゲームバランスの調整の部分は後づけになるので、そこらへんは和ゲーからも学びやすい。


 一方、日本のゲームは、コンピューター技術を基礎としたデジタルゲームとしてはかなり独特なので、なかなか洋ゲーの技術を取り入れるのも難しい。もともと発想が違うんだから、日本は日本のゲームを突き詰めればいいと僕は思っている。だが、今後技術が発展し、ゲームの規模が大きくなるに従って、作り手の「作為」でゲームを組み立てる「パッケージ」的なやり方は難しくなるだろう

 任天堂は本当に頑張っていて、今回のE3を見ても賞賛したいところが多い。赤字になったと言っても、ソーシャルゲームと任天堂のゲームはまったく違う種類のものだから、任天堂が任天堂である限りは大丈夫だと僕は思うのだが、さすがに、一つのゲーム会社として重荷を背負いすぎているかもしれない。

 「ドラゴンクエスト」は、新しいゲームの発想を見いだせずに、過去の遺産を消費しながらネトゲやソシャゲに参入して流行の後追いをしている。ファイナルファンタジーは、個々の技術は高いと思うのだが、ゲームを調整して一つに統合する部分がうまく行かず、全体としていびつになっている。というか迷走しているように思う。

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 フロムソフトウェアなど、一部海外にシェアを広げているゲーム会社もあるのだが、他のサードパーティであるカプコンやコナミなどはいろいろと厳しい。


 この責任を製作者に求めるのは酷だと思う。仮に会社が潰れたとしても、かつての「パッケージ」的な輝かしいゲームの価値が失われるわけではないし、僕たちがそこから受け継いだものを正しく受け止めればいいだけ話だ。だがそれも、なかなか難しくなりつつあるのかもしれないという危惧もある。


 ここからは、オンラインゲーム、ソーシャルゲームの話に入っていきたい。この記事のテーマは、和ゲーから派生したソーシャルゲームの問題を指摘することにある。ここまでの話を踏まえた上で、これからの話の主旨を短く説明すると、こういうことになる。

 「シミュレーション」としての洋ゲーは「手法」であり、「パッケージ」としての和ゲーは「作為」だった。そして、日本のゲームの特徴である「作為」から、シミュレーションとはまた違った種類の「手法」が生まれてきた。それが今のオンラインゲームでありソーシャルゲームだ



オンラインゲームの特徴

 オンラインゲームは、ネットを通して同じ場所にいないプレイヤーと一緒にプレイするゲームの総称だ。もちろんいろんな種類のものがあり、コンシューマーゲームにオンライン対戦機能があるものから、始めからオンラインゲームとしてつくられたものまで様々だ。オンラインゲームにも、「シミュレーション的」な発想のものと「パッケージ的」な発想のものがある。

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 オンラインゲームの最初の基本的な発想は、多人数が同時にプレイできるという点だ。MMORPG(マッシブリー・マルチプレイヤー・オンライン・ロール・プレイング・ゲーム)の最初の成功例と言われる「ウルティマオンライン」は、その意味で非常にオンラインゲームらしいゲームだと言える。チャットでの会話、PK(プレイヤーキラー)やPKK(プレイヤーキラーキラー)などのシステム、コミュニティ、派閥などの生成、建築システム、ワールドシミュレーターでのデザインなど、それぞれのプレイヤー達の総和からゲームという社会がつくられていく。オンラインゲームはコンシューマーゲームと違い、不具合や不均衡があったときにゲームバランスを調整するのが簡単だ。だから「シミュレーション」的な発想で、プレイヤーの行動の均衡をとった調整をすることができる。そうした「手法」は数量的なデータが積み上がっていくので、その精度は上がっていくだろう。



 オンラインゲームの特徴は、多人数のプレイヤーが同時にできるというのもそうだが、アップデートによりゲームの運営側から簡単にゲームをいじることができるというのが非常に大きい。この機能によって、コンシューマーゲームとまったく違うゲームのあり方が可能になった。。後からアップデートできるという特徴は、洋ゲーのシミュレーション的な発想のゲームになるとバランス調整がしやすいということになるし、パッケージ的な日本のゲーム(RPG)になると「データベースを継ぎ足すことができる」という発想になる


 「パッケージ的」なオンラインゲームは、日本や韓国の会社が開発したものが多い。その元になったのが、ほとんどの場合「行動非対応」のRPGだ。上で述べたように、「行動非対応」ゲームはプレイヤーの習熟度やゲームの中で払った労力を数値で表し、さらに、それがずっと増え続けていく「数値上昇的な世界観」を前提としている


 ドラゴンクエストやファイナルファンタジーなどは、モンスターを倒して経験値を稼ぎレベルを上げる「数値上昇的な世界観」のゲームだ。その「数値上昇」は、もともとはゲームをクリアするための手段だ。それがコンシューマーゲームである内は、「数値上昇的な世界観」は「作品」としてのゲームソフトの中にある単なる一つのルールだった。しかし、いつでもアップデート可能なオンライゲームになることによって、物語と一体だったRPGの「作品性」が剥奪され、その「数値上昇的な世界観」だけが残ることになった。そして制作側の目的は「作品」をつくるこではなく、ゲームを「運営」することになり、オンラインゲームは単なる「レベル上げゲーム」に堕してしまう。

 「レベル上げゲーム」としてのオンラインゲームやソーシャルゲームの仕組みは、ただ「ボタンを押すと数値が増える」というだけのことだ。これはもともと作品としてのRPGの中にあったものだが、いつでもデータが継ぎ足せるようになったことで終わりがなくなり、レベル上げそのものが目的になってしまう


 基本的にオンラインゲームやソーシャルゲームのプレイヤーは「ボタンを押して数値を増やし」ているだけなのだが、ただボタンを押すだけだとゲームにはならない。そのために、もともとRPGにあった仕組みである「データベース」によって、プレイヤーの選択や戦略を作り出す

 「データベース」とは、前述したように、「ステータス」や「属性」や「武器」や「呪文」のことだ。基本的にMMORPGは、「数値上昇的な世界観」に「データベース」が上乗せされた形になっている。そしてその仕組みは、アップデートで新しいステージや敵を追加していくオンラインゲームにとって都合が良い

 新しいデータを追加しようとするとき、「行動対応」したアクションゲームの場合は運営の負担が大きい。数値ではなくプレイヤーの行動、作用の部分で新しい内容を作り出さなければいけないからだ。一方で、ゲームの中身が「データベース」になっていた場合、そのデータベースの組み合わせを少しいじるだけで、簡単に「新しいもの」を追加することができる


 例えば、新しくボス敵を作り出したいとき、現状で一番強いボスから、HPを200アップ、攻撃力を50アップ、防御力を100アップ、属性は氷属性にして、◯◯の特殊能力があり、HPが30%以下になると◯◯の呪文を使ってくる、などと、既存の「データベース」の組み合わせを変えて、さらにステータスを高くすれば、「新しくて強い敵」を生み出すのは容易い。もちろんRPGとはもともとそのようなものであって、オンライゲームは、従来のRPGのエンディングを取り去って、無限にラスボスを追加していく仕組みだとも言える。

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 また、RPGの内容の部分にあたる「データベース」は、和ゲーの特徴である「パッケージ」の中に含まれているものだという認識が必要だ。「把握可能」なパッケージの中にある「データベース」という特徴は、後にソーシャルゲームで非常に高い収益を上げる「ガチャ」を可能にした。


 ゲーム内での「ガチャ」という仕組みは、韓国が開発した「メイプルストーリー」が僕の知っている限りでは最初だ。基本無料アイテム課金という収益形態でで、ゲーム内で「ガチャ」を回せば強い武器が手に入る。ここで重要なのは、武器の「購入」ではなく、ランダム性のある「ガチャ」という仕組みだということだ。「ガチャ」はゲーム内の「武器」や「防具」という「データベース」の中のどれかがランダムで手に入るという課金の方法だが、これは「シミュレーション的」な発想のゲームではできない。


 オンライゲームにしろソーシャルゲームにしろ、「シミュレーション的」な洋ゲーの課金方法は、月額課金か、ゲーム内の何らかの資源の「購入」か、ゲーム内の何らかの制限を解除する「アンロック」だ。欧米に「ガチャ」が受け入れられないのは(もともと「ガチャ」というものを知らないのもあるだろうが)、前提条件を重視する「シミュレーション的」は発想がゲームにあるからだ。金銭が発生するときに、その効果がはっきりと事前にわかっていなければならない。

 「ガチャ」という課金方法が成り立つためには、把握可能な「パッケージ」としてのデータベースがユーザーに受け入れられていなければならない。「ガチャ」で出てくるものが当たりか外れかも含め、「パッケージの中のデータベースのどれか」として把握、同意されている必要がある。「確率」が商品として成立するのは「パッケージ的」なゲームの特権だろう。そして、「ガチャ」という仕組みは、ソーシャルゲームの普及と組み合わさって猛威を振るうことになる。


ソーシャルゲームの特徴

 ソーシャルゲームの基本となるシステムは、オンライゲームの延長だ。「ボタンを押すと数値が増える」レベル上げゲームであり、その内部にデータベースを持っている。PCでやっていたことをそのまま携帯機器でやっていると考えていい。ソーシャルゲームは「ソーシャル」と謳われているが、現状流行しているものを見る限り、オンライゲームから社会性が薄まり、よりゲームとしてのシステムが剥き出しになったものだと思える。  日本のソーシャルゲームの何よりの特徴は、異常なまでの収益率の高さにある。欧米でもソーシャルゲームは流行していて、僕の見立てでは、日本のソシャゲと比べれば質も高く、クリエイティブなものも多いと思う。市場も広くプレイ人口も多い。ただし、収益率で見ると日本のソーシャルゲームにはまったく及ばない。理由は、洋ゲー的なシミュレーションの発想では「ガチャ」が成り立たないからで、それは比較的真っ当な商売をしているからだとも言える。粗利益率が50%以上とも言われる、日本のソーシャルゲームが異常なのだ。


 現在、恐ろしいほどの高収益を上げている日本のソーシャルゲームは、インベーダーから培われてきた和ゲーの技術のある意味での極致を実現している。手の尽くされた親切さ、敷居の低さは、基本料金無料というシステムと結びつき、多くの人間をゲームの世界に没頭させるのに役立った。ゲームの基盤となるデータベースは、アップデートによる継ぎ足しを容易にして、同じようなステージが無限に生み出せるようにした。予定調和な「パッケージ性」は、データベースの中のどれかをランダムで取得する「ガチャ」という超高収益な課金方法を可能にしたそしてソーシャルゲームは、現在僕たちが非難するように、人の弱い部分に漬け込んで金を搾り取る手法として運営されている

 これから、ソーシャルゲームの持つ特徴をより明らかにするために、ゲームそのものの仕組みを詳しく分析していきたい。



ゲームとは何か

 そもそもの話、「ゲーム」とは何なのだろうか。「ゲーム」という言葉が示す範囲はあまりにも広いので、正確に定義することはできない。ただ、あえて僕がこの話を進める上で、ゲームの持つ特徴を指摘する形で定義してみるなら、「ゲームとは冗長性を縮減するもの」ということになる。

 デジタルゲームの本質は、入力から出力までの速度と確信にある。ゲームでは、プレイヤーの入力(ボタンを押す、スティックを倒す、画面をタッチするなど)が可視化された反応(ゲーム内で起こる作用)として出力される。入力から出力までの円滑な手続き自体が力を持つ。そして、それと対比されるのが現実の冗長さだ

 現実はどこまでもアナログで、冗長な時間が続いている。そして僕たち自身の身体も、あまりにも複雑で冗長なものだ。散漫な集中力、倦怠、憂鬱、疲労、眠気、空腹、などなど、様々な生理的要素が僕たちの思考や理想を「邪魔」することになる。ゲームは、冗長でアナログな現実に「速度」と「確信」の切り込みを入れるエンターテイメントと捉えることができる。

 ゲームにおいては、「入力」がすぐに可視化される形で「出力」され、その「確信」はビットの反転という物理的な事実が保障する。もちろん、これはデジタル技術全般に言えることなのだが、特にゲームは「冗長性の縮減」という機能だけから成り立つことができ、ボタンを押すなどの単純な「入力」形式をとることが多いという点でも、その特徴が顕著だ。


セカンドライフが廃れた理由

 「セカンドライフ」というものを知っているだろうか。一時期アメリカで話題になった、ウェブ上にバーチャルな仮想空間をつくって、現実の空間をネットの世界に延長しようとした試みだ。その前提にはオンライゲームの普及があった。

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 一時はメディアで賑わいを見せたが、結局セカンドライフはうまくいかなかった。これが失敗した理由はいろいろあると思うが、一つには*現実に近づけようとして、現実の「冗長性」まで表現してしまったからだと考えられる。ゲームを成り立たせるのは、入力から出力までの速度と確信だ。リアルに近づけようとするあまり、その特性を無視して冗長になってしまえばゲームではなくなる。

 「シミュレーション」という発想で作っている洋ゲーの有名タイトルの数々も、「戦場」や「犯罪」や「カーレーシング」や「スポーツ」と、それ自体がゲーム性を帯びているものか、現実にある過激な部分に焦点を当てないとゲームとして成り立たない。都市開発の「シムシティ」などのシミュレーションも、ゲームの中で流れる時間を縮減することによって「ゲーム」になっている。

 僕は、現実をより精密に再現しようとする「シミュレーション」的なゲームがいつか突き当たる壁が、この「冗長性」だと思う。正確に現実をシミュレートしようとすると、ゲームを成り立たせる「入力から出力までの速度と確信」という機能が薄れ、現実の冗長さが顔を出してしまうからだ。ここらへんの解決策に関して、僕は洋ゲーメーカーに提言したいことがいくつかある気がするのだが、まあそれは次の機会に譲りたい。



ゲームの中毒性とは

 ゲームに「ハマる」ことは誰にでもあるし、それは悪いことではない。ただ、ゲームに中毒性があり、ゲームの世界から抜け出すことのできないネトゲ廃人などが問題になっているというのもまた事実だ。

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 僕も、ネトゲ廃人だった時期がある。ある時期にずっとパソコンでオンライゲームをしていた。やっていたゲームを良いものだとは思っていないので、どのゲームかはここでは言わない。ただ、あのときずっとゲームをやっていたことを今は後悔している。ハマっていた時間はそれほど長くないのだが、受験生と浪人生のときだったから時期が悪かったと思う。一応、なんとか大学に行くことはできたのだが、ゲームで人生がめちゃくちゃになってしまった人のことを考えると心が痛む。


 僕がネトゲで何をやっていたかと言うと、ずっと「ボタンを押して数値を増やしていた」のだ。オンライゲームもソーシャルゲームも、上に乗っかっているものを取り払ってしまえば、ひたすら「ボタンを押して数値を増やしている」に過ぎない

 僕の定義では、「ボタンを押して数値が増える」という時点で、それは「ゲーム」だ。「冗長性が縮減」され、「入力」するとすぐに「出力」が返ってきて、数字が増えるという形で「確信」できる。これはRPGの前提としてある「数値上昇的な世界観」の根底の部分でもある。RPGの物語としての終わりを剥ぎ取り、アップデートによりデータを継ぎ足して、「数値上昇」の部分をひたすら繰り返すのがオンライゲームの特徴だということは上で述べた。



ゲームの中の「合理性」

 上で述べたように、「レベル上げゲーム」には「データベース」があり、そこにそれぞれのプレイヤーの選択や戦略が生まれる。このようなゲームがもたらす快楽、中毒性の本質は、「これをやりたいと思ったことが、思った通りに実行できる」という部分にあると僕は考えている。それを成り立たせるのが、ゲーム自体が持つ特徴である「冗長性の縮減」だ

 (それは一定の教育の成果でもあるのだが)人は初期最適化の欲望を持っている。マスタープランを思い描き、それが想定した通りに実行されることが基本的には善いこととされる。現代では、目標を見据えて「計画」を立て、その計画に沿ってやるべきことを「実行」し、当初の目標を「達成」できなければ成功は覚束ない。「計画→実行→達成」のプロセスを踏めることが美徳だと僕たちは教えられるし、社会のいたるところでそれが求められる。そして、ゲームの中ではそれが「誰にでもできる」ようになっている

 その最もシンプルな形が、レベルを上げたいと思う(計画)→ボタンを押す(実行)→数値が増える(達成)というものだろう。その時点で、それは働いて貯金を増やすとか、運動して筋肉量をつけるとか、練習して上達する、など現実のアナロジーでもある。

 ここでは、便宜的に、「合理性」という言葉を使うことにする。自分のやりたい計画が、思い描いた通りに達成できるという意味での「合理性」だ。(もちろん何を「合理的」だと思うかは人によって違う)

 つまり、オンライゲームやソーシャルゲームは、誰でも「合理的」な「計画→実行→達成」というプロセスを辿ることを可能にさせる装置であり、そこには「冗長性の縮減」というゲームそのものの特徴が働いている。また、このような「合理性」をゲームの核と据えたゲームは、和ゲーの「パッケージ性」と非常に相性がいい。把握可能なパッケージの中にあるデータベースだからこそ、思い通りに「計画→実行→達成」しやすくなる。このようなゲームにおいて、初めて対面した驚きというものは重視されない。もしそういった部分にゲームの楽しみがあるのなら長い間ゲームにハマることはできない。ほとんどのネトゲユーザーは新しいものを求めているわけではなく、攻略wikiを見ながら最も効率の良いレベルの上げ方を探し、「合理的」にボタンを押して数値を増やし続けるのだ。


 「もっとも自由度の高いゲームは現実、でもバランス調整は糞」と皮肉交じりに語られるように、現実はゲームの中ほど公平でも簡単でもない。現実の世界で、自分の思い描く「計画→実行→達成」というプロセスを完璧にやり切るのは難しい。

 例えば、オンライゲームのレベル上げは、勉強をして偏差値を上げようとする行為と類似しているところが多くある。数学は◯◯という問題集を一日◯ページずづ進めることにして、英語の文法は◯◯の参考書で、単語の暗記は寝る前にやって……など、計画を立てるときは、キャラクターのステータスを振り分けるようなもので楽しい。しかし、それを実際に計画通りこなすのは、往々にしてうまくいかないことがある。なぜなら、現実はゲームと違って冗長だからだアナログな時間が気だるく続き、自分の身体という制限があり、ゲームのように「速く」もなければ「確信」を与えてくれるものでもないからだ

 もちろん、「計画→実行→達成」を現実でうまくやれる人もいる。そういう人は「成功」する確率が高くなるだろう。だが、個人でそれができたとしても、集団になったり、やることの規模が大きくなると難しくなる。計画を立ててそれに沿った形で万事を進めるというのは理想なのだが、その主体が冗長な人間である限りうまくいかなくなることが多い。そして、社会の至るところでそのほころびが生じている。勉強のできる人間の集団が、自分たちの内部での合理性に固着するあまり現実にやるべきことと齟齬を起こしているというのは、わりとありがちな現象だろう。


 また、現実の勉強とゲームで違う点は、「確信」が主体の内部にあるか外部にあるかということだ。勉強の場合は自分の内側で起こっていることなのでそれなりの集中力が必要になるが、「出力」が外部にあるゲームの場合、ボタンを押すなどの惰性を伴った行為でもそれができる。だからネトゲやソシャゲなどのゲームデザインは、惰性でもある程度のことができるインターフェイスが有効になる。



 ここまでで言ってきたことは、ネトゲなどをやったことがない人にとってはわかりづらいと思う。例として、最新作でMMORPGになった「ドラゴンクエストⅩ」を出したい。

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 ドラクエⅩでは、それぞれの「種族」があり、「戦士」「魔法使い」「僧侶」「武闘家」「盗賊」「旅芸人」「パラディン」「レンジャー」「魔法戦士」スーパースター」「バトルマスター」「賢者」「まもの使い」「どうぐ使い」などの「職業」があって、職業ごとに使える「武器」や「スキル」が違う。武器の種類も「片手剣」「両手剣」「オノ」「棍」「ムチ」「爪」「弓」「ブーメラン」などたくさんあり、さらに「スキル」や、武器や防具やアクセサリーの効果などなど、豊富な「データベース」がある。

 これらの「データベース」から何通りもの組み合わせが生まれる。それがプレイヤーの「選択肢」になり、そこから「計画→実行→達成」という合理的な一連のプロセスを繰り返すことができる。

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 例えば、最初は「スライム」しか倒せないが、レベルを上げると「いっかくうさぎ」、「ドラキー」と、倒せるモンスターが増えてくる。基本的に、プレイヤーは今あるリソースの中でもっとも効率良く経験値を稼げる方法を探る。それこそがオンライゲームにおける「合理性」であり、ネトゲの「楽しい」とされる部分はこういうところにある。

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 ネトゲ用語で、効率良くモンスターを倒して経験値を上げる行為を「狩り」と言う。◯◯の呪文を覚えたら、その呪文に弱いモンスターが多く出てくる◯◯で狩りをする。◯◯の武器が手に入ったら、◯◯という場所で狩りをして、出てくるモンスターは◯◯を最初に倒すようにする。金を稼ぎたいときには◯◯にいる◯◯を倒す。魔法使いが多めのパーティーだと◯◯で狩りをしやすく、◯◯を覚えた武闘家がパーティーにいると◯◯での狩りをするのが最も効率が良い。など、その場面によってとるべき最効率の方法が違うので、プレイヤーは知恵を絞ったり、またはwikiを見たりなどして、「合理的」に自分のキャラクターのレベルを上げていく。結局は「ボタンを押して数値を増やしている」だけなのだが、合理的に「計画→実行→達成」をこなすのが「楽しい」のだ

 プレイヤーはゲームのところどころで「選択」を繰り返していることになるのだけれど、それを「興味深い選択(Interesting Decisions)の連続」と言うことはできないだろう。日本ゲームのパッケージ性にかまけて、あくまで把握可能ものをこなし続けるだけだからだ。


 あと、ネトゲでは効率良く経験値を稼ごうとする人が多いが、べつに最効率である必要はない。効率を気にせずまったりプレイすることが「合理的」なプレイヤーもいるだろう。問題は「計画」が合理的に実行、達成されることであって、「計画」の部分は別にその人がよければ何でもいい


 この「合理性」という見方で、ゲームに課金するユーザーも説明できる。例えば1000円出して買えるアイテムを使えば、経験値のもらえる量が10時間の間2倍になるとする。ゲームの外側にいる者にとっては、現実のお金を使ってゲーム内のデータを買うことは馬鹿げたことだろう。だがゲームの内側にいるプレイヤーにとっては、そのアイテムを使えば20時間かかるものが10時間で終わり、現実でバイトなりをすれば1000円を1時間で得られるとしたら、「合理的」に考えて、課金してアイテムを買えば9時間も得をすることになる。このように、オンライゲームはゲームの中にプレイヤーを惹き込み、その内部で「合理性」を追求させることによって金を搾り取ろうとする


 内省的な感想になるが、僕の経験から言えば、ゲームの持つ「冗長性の縮減」という要素と、把握可能な「データベース」の中での「計画→実行→達成」という「合理性」は、ある種の麻薬のようなものだ。それは、現実との類似点をいくつも持たせながら、一つの「夢」を体現しているのだろう。ゲームの中では、誰もが金や時間をかければ一定の成果が出せるという点で平等だ。そして、パッケージの中の把握可能な世界が延々と続いていき、不確実なものですら「確率」として把握できるようになっている。激しい戦闘を繰り広げているように見えながら、優しく、安易な世界だ。こういうことを書くと怒られるかもしれないが、「小説家になろう」という妄想を書き綴るための小説投稿サイトで、多くの作品が「呪文」や「スキル」などのRPGに見られる世界観を下敷きにしているというのは、いかにもといった感じだ。


 僕は比較的すぐにネトゲをやめることができたのが、その理由は、そこが現実の冗長さを失った世界であるということに気づいたからだと思う。もちろん麻薬のようなものなので、気づいたからといってどうしようもない部分もあり、意志の問題もあるのかもしれない。それでも、現実の冗長さに向きあおうとする意識のあり方は、ゲームから現実の世界に目を向けようとするときに、それなりに有効な方法だと思っている。例えば、オンライゲームに費やした1000時間を資格の勉強に使っていれば今頃◯◯の資格くらいは持っているのに……という考え方自体が罠でもあるのだ。こういうことを今のネトゲ廃人に伝えたいのだが、まあネトゲに依存している人はこの文章をここまで読むことはないだろう……。


(あと、ドラクエⅩをここでは例を上げたが、ドラクエは月額課金だし、一応「ストーリー」なども作って頑張ってる感じはある。ネトゲとしては良心的な部類だろう。それでも、本当に他と違うMMORPGを作るつもりなら、「レベル上げ」という部分から脱却してRPGを考えなければいけない。ネトゲのもとになるシステムを完成させたドラクエだからこそ、別の仕組みを作りだしてくれることを期待していたんだけど……)



 どうやって収益を上げるかというビジネスモデルによってゲームの形態が決まる。アーケードゲームの場合は、プレイヤーの回転率をいかに良くするのかがゲームデザインの課題だった。いくら面白くても、ワンコインでずっと居座られては商売にならないからだ。

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 コンシューマーゲームという形態なら、プレイヤーに選んで買ってもらえるくらいのクオリティーを持った「作品」としてのゲームを作り続けることができた。オンライゲームは月額課金制なので、いかにプレイヤーをゲームの世界に留めるかが課題になる。よって、プレイヤーをゲームの世界に依存させることが目的となった。さらに、それが基本的無料、ゲーム内課金というより高い収益を上げる方法に「進化」していった。この流れ自体は、収益形態がコンテンツを規定すると考えるならばある種の必然なので、否定してもどうしようもないのかもしれない。



 このようなオンライゲームやソーシャルゲームの元になった仕組みは、もともとの「パッケージ的」な和製RPGだ。問題になっている「数値上昇的な世界観」も、データベースが作り出す「合理性」も、そのゲームが「作品」である内は一本の"線"だった。しかし、終わりを無くし、データベースを継ぎ足し続けることで、それはひたすらループを繰り返す"円"になった。その円は、プレイヤー自身がかけた金や労力、レベルやランクという数字の上昇によって太く濃くなっていくだろう。だが、それは理想を描いた概念であり、現実にいる冗長な存在である僕たちが主体である限りいつかは破綻する。具体的には、プレイヤー自身に限界が来るか、運営がサービスを廃止するかだ。そして、ゲームは自らの世界が破綻した後には何一つ僕たちに保障してはくれないのだ。


 日本のゲームの特徴である「作為」から、シミュレーションとはまた違った種類の「手法」が生まれてきたと言った。それが、今オンライゲームで使われている、「冗長性の縮減」と「合理的な選択」によって人をゲームに依存させる「手法」だ。もし、少しでもプレイヤーのことを考えてゲームをつくろうとする「作為」があるのなら、人の弱い部分に漬け込んで金を搾り取るようなことは絶対にしないだろう。ネトゲ制作者の人格に問題があるというわけではなく、深く考えずに、「手法」に従ってゲームを運営しているだけなんだと思う。そして、そしてソーシャルゲームの普及により、ゲームのことなんて今まで考えたこともなかった層がこの「手法」によって利益を得ようとしている。

 日本のRPGから、オンラインゲームを経て生まれてきた「手法」は、ソーシャルゲームによってさらなる発展を遂げることになる。ここからは、ソーシャルゲームの「イノベーション」について書いていきたい。



ソーシャルゲームの「イノベーション」

 すでに、国内ゲーム市場の半分以上をソーシャルゲームが占めている。僕がこの記事を書くきっかけになったのも、ソーシャルゲームの大流行があったからだ。

 僕は、「冗長性の縮減」というゲームの特徴から、把握可能なデータベースの中で合理的な「計画→実行→達成」を誰でもできるようにしたものが、オンラインゲームの「手法」だと主張した。もともとこのような考えに自信があったわけではなく、なんだかんだ言ってもゲーム内のコミュニケーションや世界観やシステムに優れたものがあるのだろうと思ってきた。だが、今のソーシャルゲームの爆発的な流行によって、自分の考えでもそれなりに説明はつくと思うようになった。


 少しやったことがある人は知っているとおり、ソーシャルゲームにはそれほど「ソーシャル」な要素はない。従来のゲームにくらべて非常に容量が少なく、単調なことしかできない。だが、それゆえに、オンラインゲームの「手法」の部分がより濃縮されていると考えるべきだろう。

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 基本的な構造はオンラインゲームとまったく同じで、むしろ「コミュニケーション」や「世界観」といった部分を削ぎとっている。

 ソーシャルゲームの「発明」は、ゲーム内部での「手法」だった「合理性」を、現実の「時間」にまで拡張したことだと僕は考えているゲームの内部にある合理的な「計画→実行→達成」のプロセスに時間を組み込むことによって、日常生活にゲームを浸透させた。これはハードとしての携帯機器の特徴ともうまく噛み合っていた


 ソーシャルゲームにある特徴的な要素は、「時間によって回復する資源」だ。パズドラで言う「スタミナ」のように、ゲームをプレイするのに必要になり、現実の時間が経つごとに回復する。


怪盗ロワイヤル


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 「怪盗ロワイヤル」は、DeNAが2009年にリリースされ、登録者数1000万人を突破しドラマ化や小説化もされた。黎明期のブラウザゲームで、できることは非常に少なく、「5」押しゲーと揶揄されていた。「5」というのは、携帯電話(ガラケー)の真ん中にあるボタンのことで、「5」に決定のショートカットキーが割り当てられていたので、基本的に「5」を押し続ければゲームが進むからだ。まさに「ボタンを押すと数値が増える」ゲームなのだが、ただ、合理性に現実の時間を取り入れた「怪盗ロワイヤル」は、「時間がくるとボタンを押して数値を増やすゲーム」だった

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 怪盗ロワイヤルは、できることがほとんどないボタンを押すだけのゲームだった分、現実の「時間」という要素を強く意識していたように思える。そのために他プレイヤーとの時間差を利用してお宝を奪い合うという、ちょっとソーシャルな要素もあった。


 ずっとゲームの画面に向かっているわけではなく、資源を消費してミッションをこなした後はゲームをやめ、時間が経って資源が回復したころにまたゲームを始めるのだ。やることはただボタンを押して数値を増やすだけなのだが、そのボタンを押せる回数が制限されていて、なおかつそれが「時間」によって回復することが重要だった。休憩時間や通勤時間の合間合間に資源が貯まっていることになるので、現実の時間と連動する形で「計画→実行→達成」が成り立つ時間の隙間を見つけてゲームをする上で、その時間にちょうど資源が貯まっているという事実が、そのただボタンを押すだけのことを「合理的」にする


 「怪盗ロワイヤル」にも、一応「手下」の種類や「武器」といった「データベース」が存在するし、選択肢や戦略性もあるのだが、従来のゲームからすれば子供だましのようなものだった。それでもここまでヒットした理由は、「合理性」に「時間」を巻き込むことができたからで、ゲームのハードが手元にある「携帯機器」だったことも大きい。この時点ではまだ「ガチャ」と呼ばれるシステムは出来ておらず、基本料金無料で「強い武器を買うことができる」という課金方法をとっていた。(「ガチャ」という仕組みは豊富なデータベースがあるからこそ成り立つ)

 後の和製ソーシャルゲームは、この「怪盗ロワイヤル」やGREEの「釣りスタ」などの大流行を参考にして(パクって)、だいたいどれも「時間で回復する資源」という仕組みを取り入れている。



 PCの前でやるオンラインゲームの場合、ゲームをやっている最中はずっとやるし、やらないときはゲームとは違う世界にいる、1か0かだった。だからこそ廃人が生まれやすい。ソーシャルゲームの場合、元のシステムはオンラインゲームの延長なのだが、扱える容量が小さかったぶん現実の「時間」に働きかけるようになった。携帯機器をハードとして、より敷居が低くマイルドになったオンラインゲームの仕組みが、現実の時間と噛み合わさる形でプレイヤーの「手元」に実現した



Clash of Clans(クラッシュ・オブ・クラン)

 また、海外でもソーシャルゲームはリリースされている。「ガチャ」という仕組みがないので収益率はそれほど高くないが、「時間」という要素をうまく取り入れて高い収益率を持つゲームもある。

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 スマホ向けの戦略シミュレーションゲーム「クラッシュ・オブ・クラン(通称クラクラ)」は、フィンランドのゲームメーカー「スーパーセル」が開発した。洋ゲーだけあって、基本無料アイテム課金のソーシャルゲームながらも「シミュレーション的」な発想だ。村をレイアウトするときのプレイヤーの自由度も高く、クランを作ったりと、ソーシャル性もなかなかある。

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 「ガチャ」という課金方式ではないが、「時間」という要素をうまく取り入れている。というより、ソーシャルゲームの基本的な仕組みを作ったのは欧米のメーカーで、日本はそれをパッケージ的な発想で取り入れたにすぎない。

 この「クラクラ」では、戦闘のためのユニットを作ったり、施設を建てたり、金やエリクサーを採掘したりするときに、「時間」が必要で、課金すると手に入る資源はこの時間を短縮できる機能を持つ。これは(ソーシャルゲームにしては)なかなか良くできた仕組みで、ゲームとしてのクオリティーもそこそこ高い。それでも、結局収益率が高いのは「パズドラ」なのだ。ソフトバンクが「スーパーセル」を買収したが、「パズドラ」と「クラクラ」ではかなりゲームの元になっている発想が違うと思う。まあ、そこはあんまりよく考えていないのかもしれない。


パズル&ドラゴンズ

 日本のおいて最も有名で、もっとも収益を上げたであろうソーシャルゲームタイトルが、ガンホーの「パズル&ドラゴンズ(通称パズドラ)」だ。やったことがない人でも名前くらいは知っているだろう。この「パズドラ」は、現状で、日本のゲームが生み出した「手法」の総決算とも言える

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 まず、パズドラは、まったくソーシャルではない。申し訳程度にフレンド登録したユーザーのモンスターをパーティーに入れる機能があるだけだ。ネトゲのようなランキングもなければ、モバゲーやグリーのようなプラットホームも必要とせず、対人要素すら実装されていない。ソーシャルゲームにとっては、そんなものはいらないということになる。他人と繋がるような要素がほとんどないにも関わらず、パズドラはソーシャルゲームの頂点だ。なぜなら、把握可能なデータベースの中で、やりたいと思ったことが誰でも簡単に実行できる、という部分がこのようなソーシャルゲームの本質だからだ

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 パズドラの優れている点は、合理的な「計画→実行→達成」の内容となる「データベース」がソーシャルゲームにしては豊富であり、さらに「パズル」と「データベース」がうまく連動していることだ

 パズドラにおける「パズル」は純粋なパズルではなく、ドラクエにおける「コマンド」と同じような機能を持つ。そして、パズルという片手で動かせるシンプルな仕組みの中に、「ゆらぎ」と言われる実力で差がでる部分や、「運」の要素や、それほど頭を使う必要のないときは「惰性」でもできる幅の広さがある。「データベース」にあたる「モンスター」の種類は、「火」「水」「木」「光」「闇」という「属性」があり、パズルの「属性」とデータベースであるモンスターの「属性」が対応している。さらにモンスターの「スキル」といった能力も「パズル」の部分に作用する仕組みのものが多い。そのシステムによって、容量が少なくシンプルな操作ながらも、多様な選択肢や戦略性が生まれる。それが「パズドラ」の優れた部分だ。


 ソーシャルゲームに異常な収益率をもたらす「ガチャ」という仕組みは、この「データベース」の部分がしっかりしているからこそ成り立つ。「データベース」から生み出される選択肢や戦略性が豊富なら、ガチャで出たモンスターを中心にパーティー構成を考えて行動するという「合理的」な楽しみができたり、このパーティーを完成させるためにはこのモンスターが必要で、そのためにガチャを回し続けなければいけないという「合理性」が発生することもある。


 また、パズドラにも「時間によって回復する資源」があるが、このような「データベース」を豊富に持つソーシャルゲームが合理性と時間を結びつける手法として、「期間限定イベント」を頻繁に開催することができる。例えば火曜日には火属性のモンスターがたくさん出るイベントがあって、自分のパーティーに水属性が多ければ、このクエストに調整しやすいなど、現実の時間に則した「合理性」が生まれる。金曜夜のこの時間帯は経験値が2倍、とするだけでも、現実でやるべきことを早めに切り上げてその時間に集中してプレイする、などの「合理性」が生まれる。


 さらに、データベースがしっかりしていれば、「コラボ」なんかも簡単にできる。パズドラは「ハローキティ」や「ドラゴンボール」や「ハンターハンター」など、様々な人気作品とコラボをしているが、そのやり方にしても、データベースの中の1体のモンスターとして追加すればいいだけなので簡単だ。そして、その元ネタである作品が好きで、ゲーム内でそのキャラクターを入手することが「合理的」だと思う層を釣り込み、課金させて金を落とさせる。コラボした側は、ソーシャルゲームとのコラボがどういうことを意味するのかよく考えたのだろうか……。

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 以上で説明したのが、和ゲーの生み出した「手法」だ。それが「手法」であるからこそ、ゲーム作成のノウハウを持っていない会社までもがどんどん参入し、同じようなゲームが乱立している。基本的に、収益を上げているどのソーシャルゲームも、「ボタンを押して数値を上げていく」途中で金を落とさせる仕組みで、土台の部分はまったく同じだ。その上に「パズル」が乗っていようと、「クイズ」が乗っていようと、「カードバトル」が乗っていようと、「ビリヤード」が乗っていようと、タバコの銘柄くらいの違いでしかない。「計画→実行→達成」という快楽を味わうための麻薬みたいなもので、よくできたソーシャルゲームもあるが、それは「面白い」というよりも、むしろ「良質」と表現したほうがいいのかもしれない



補足

 ここまでで、僕は「ポケットモンスター」の話をしてこなかった。「ポケモン」こそは、「パズドラ」や他のあらゆるデータベースにモンスターを使うゲームの基盤となった作品であり、そして、どれだけ他のゲームがポケモンを目指そうとしても、どうしてもポケモンのようにはならない。

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 ポケモンを語る上で重要なのは、それが、おそらくはすべてのRPGの中で最も「作為」の部分が強いゲームである、「MOTHER」を下敷きに作られていることだ。(以前僕がMOTHERとポケモンについて書いた記事

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 そして、「作為」の強いゲームでありながら、その内部にあるデータベース(それぞれのポケモン)が「作品」からオーバーフローした形で息づいているのがポケモンの特徴だと僕は考えている。これは、データベースの部分だけを取り出して引き延ばそうとする「ソーシャルゲーム」などの"劣化ポケモン"とはもともとのあり方が違う。

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 また、アップデートを更新して環境を調整していくオンラインゲームのように、ポケモンにも「アップデート」はあるが、そのアップデートを一つの独立した作品ごとにおこなっている。これはこれでとんでもないことで、こんなことができるのはポケモンだけだ。重要なのは、アップデートの一つ一つが新しい物語であり作品だということで、その「作品」から溢れるようにして「ポケモン」というデータベースが広がり、それぞれの作品間を繋いでいる

 一方で、ポケモン廃人というのがいるように、かなりヤバい(狂気じみた)部分を持っている。ポケモンというゲームの特徴については、また機を改めて語りたい。




 もう一つ、僕はずっと「データベース」という言葉を使ってきた。ゲームの作品性が剥奪されて「データベース」だけが残るという部分なんかで、「物語消費」(大塚英志)-「データベース消費」(東浩紀)という言葉を連想した人も多いのではないだろうか。ソーシャルゲーム自体、ビックリマンシールなどを始めとするコレクション性や、美少女ゲーム、ノベルゲームなどの「萌え」文化や「オタク文化」と関連が深い。「艦隊コレクション」など美少女系のソーシャルゲームも大流行している。

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 ここで、あえて僕は「消費」という言葉を使ってこなかったし、美少女系のソーシャルゲームにも言及してこなかった。オタク文化の「消費」と、ここで僕が使ったゲームにおける「合理性」という考え方について、この先、色々と書けることがあると思っている。(例えば、ゲームの中でプレイヤーは「合理性」を「消費」しているのだろうか?という話など)そして、「数値上昇的」、「合理的」という今のソーシャルゲームの手法が、なぜ日本のゲームの中から生まれてきたのか、という問題にも繋がってくる。

 ただ、それを書こうとするとあまりにも膨大になりすぎるので、ここで論じることはしない。また別の機会に(もし書ききる気力があれば)記事を投稿してみたいと思う。




どうしてソーシャルゲームを批判しなければならないのか

 ここまで書いて、パズドラや他のソシャゲ愛好家からは批判が来るだろう。「ゲームをやっている内は合理的とか考えないし、パズドラの話題で友達や仲間とコミュニケーションもとれる。だいたい、お前が好きなマリオやゼルダはソシャゲを批判できるほど高尚なものなのかよ?」そう言われるかもしれない。たしかに、その通りだ。どんなゲームでもずっとやれば愛着が湧く。それを外から構造を分析して否定するべきではない。また、友達や会社の同僚がそのゲームをやっていたなら、自分もやってみるべきだと思う。それは大切なことだ。流行しているからこそやらなければならず、それ故にコンテンツが成り立つという仕組みもあるのだろう。

 また、別にソシャゲが好きではない人からも、ここまでの文章を読んで批判が来るかもしれない。「誰でも合理的に行動できる」という仕組み自体が、能力が低く現実では合理的にふるまえない人の気休めになっているのではないか。プレイヤーが満足して、それが何らかの解消になっているならそれでいいんじゃないか、という考え方もできる。また、パチンコをやってる層がソーシャルゲームに流れ込んでいると言われるけど、搾取される人間はどうしても一定数存在するので、ソシャゲ程度なら他の仕組みよりもいくらかマシだという意見もあるだろう。それも正しい。現在流行しているソーシャルゲームをなんらかの規制でなくせばいいとは思わないし、別にやりたい人はやって、お金を落とせばいいと思う。


 ただ、僕が考えているのは、現状ではなくて、これからのことだ。これからソーシャルゲームがどういう方向に向かっていくか、それを僕たちは注意深く見ていかなければならない。そして場合によっては批判したり阻止する必要があるだろう。

 まず、合理的な「計画→実行→達成」が誰にでもできるようになるというゲームの特性から、ネトゲやソシャゲのような「レベル上げゲーム」が運営され、プレイヤーを依存させて収益を上げてきた。そのゲームの「合理性」が、ソーシャルゲームによって常に手元にある携帯機器と現実の時間に結びついたそして、これからその「合理性」が、現実の経済やあらゆるシステムと結びつく、というのが僕の考えだ。もし、経済に「ゲーム」の領域が及べば、もうつまらないからやらない、などとは言っていられない。興味あるなしに関わらず、僕たちは「ゲーム」に巻き込まれていくことになる。これから、いわゆる「ゲーミフィケーション」と言われるものについて話を進めていく。



ゲーミフィケーションとは何か

 「ゲーミフィケーション」とか、「シリアスゲーム」とか、「ゲームニクス」といった言葉を聞いたことがあるだろうか。まあ言葉の定義とか色々と議論されているのだろうが、どれもざっくり言ってしまえば、ゲームの中でうまくいってる部分を現実の社会問題やビジネスや教育に応用できないだろうかということだ。


 もともと、シリアスゲームという言葉が広まったのは、米陸軍が新兵募集用のゲームとして、「America's Army」というFPSをリリースしたのがきっかけと言われている。軍の広報予算を使ってゲームを作ったのだ。

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 こういうのはもろに「シミュレーション」的なゲームの発想だ。現実をゲームにまるまる映して、訓練の仕方とか武器の使い方とか戦場での戦い方を学ぶ。アメリカなんかではゲームの研究が盛んで、ゲーム研究で学位がとれたりする(うらやましい!)のだが、こういった「シミュレーション」はコンピューターサイエンスの技法の一つとして、軍事的な研究や他のあらゆる実験と結びついているのだろう。日本はゲームが発展してる割に学術的な研究は著しく遅れていると言われるけど、軍事シミュレーションなんかと兼ね合いのあるアメリカに比べて、子供向けの「おもちゃ」として発展してきた和ゲーの特徴からすれば無理もないと思う。


 こういう「再現」の他に、ゲームの「レベルデザイン」の部分、「チュートリアル」や「動機付け」に注目して、教育などに応用しようとか、「可視化」や「早いフィードバック」や「ランキング」などのシステムをビジネスに役立てようとか、色々ある。たくさんの種類のゲームがあるのだから、「ゲーミフィケーション」も多様になるのは当たり前だろう。

 世の中でどういう「ゲーミフィケーション」が行われているのかについて、できるだけ情報は追っているつもりのだけど、何かしら社会にいい影響を与える試みでそこまで輝かしい事例は今のところ見当たらない。つまり魔法みたいな方法ではないということなのだが、今現在、一番「ゲーミフィケーション」に成功しているのは日本のソーシャルゲームであることは間違いない。(DeNAやGREEやガンホーがここまで大きな会社になり、mixiがソシャゲで復活したという点で。もちろんこれはソーシャルゲームを「ゲーム」と捉えるべきではないという皮肉だ。)



 そもそも、ゲームは現実を再現したり、現実の一部を切り取って出来上がったものだ。「可視化」とか「ランキング」とか「コミュニティ」というものはゲームだけが持っているものではない。(「ゲーム」という言葉の定義が定かではないので一概に言えないかもしれないが)「ゲーミフィケーション」とは、一度現実から「ゲーム」に輸出され、何らかの形で強められたものを、現実に再輸入しようという試みだと言える。じゃあそこで再輸入するものは何なのか。


 たぶん、ゲーミフィケーションが熱心に提唱される背景には、「なんで勉強はまったく続かないのに、ゲームだと何日もぶっ通しでできるのだろう?」という、僕たちの日々の実感(?)があるんだと思う。そこに対しての僕の答えは「冗長性の縮減」ということになるのだが、まあ、他にも色んな要素があるだろう。


 「これほどゲームに熱中している人がいます!ゲームの中には優れた仕組みがあります!これを社会問題やビジネスや教育に役立てましょう!」とゲーミフィケーションを推奨する人は言うが、ゲームが大好きでゲームをもっと社会に役立てたい、という気持ちはすごくよくわかる。ただ僕は、一人のゲームが好きな人間として、ゲーミフィケーションに対して警戒するのが自分の役割だと思っている。

 もっとも成功した「ゲーミフィケーション」であるソーシャルゲームは、「ボタンを押すと数値が増える」という仕組みの途中で、人の弱い部分につけこんで金を巻き上げているその延長に何らかの「良い」成果が待っていると、僕は思えないゲームが「冗長性の縮減」をベースにした一連の魅力で、人間をその中に強く惹き込むものであるとすれば、僕たちはその背景にあるものが何か見極めなければならない。「ゲームの中に組み込まれる仕組み」に対して常に注意をはらうべきだ



 僕が思う最も簡単なゲーミフィケーションの「手法」は、今まで述べたことの単純な応用だ。「冗長性の縮減」(入力から出力までの早い反応と、可視化などで出力が「確信」できる仕組み)を土台にして、社会問題の解決や教育やビジネスを行う上での何らかの要素をむりやりデータベース化し、合理的に「計画→実行→達成」できる場面を作り出せばいい

 問題は、それが僕たちにとってどのようなものであるか、ということだ。「ゲーミフィケーション」という「手法」が及ぶ領域は、次は経済活動だと僕は思っている。オンラインゲームで方法が確立され、ソーシャルゲームで「時間」と結びついたゲームの中の「合理性」が次に結びつくのは現実の「金」だろう。例えば、あるゲームをプレイし続けて、そこで獲得したものを使えば現実に売っている商品が値引きされるとする。(クーポン券なんかも似たような仕組みかも)そうなれば、ゲームの内側に限っての「合理性」だったものが外と結びつき、その「合理的」な正統性は飛躍的に高まる。それがごく微小なものであれ、「ゲームをやってお金を稼げる」ことになるし、さらにそのゲームが良くできたものなら、自然と人は集まるだろう。

 現状のRMTなどもそうだが、エンターテイメントの中に少しだけプレイヤーがリアルなお金を稼げる仕組みを実装すれば、「合理的」な「おもしろさ」はぐっと高くなる。ゲーム内でのグレードを得るために課金をすることが「合理的」な人もいるだろうし、ネトゲ廃人のようにずっとゲームに時間を費やして小銭を稼ぐことを「合理的」だと思える人も飛躍的に増えるだろう。(ただ金を消費するだけの今のネトゲにこれほど人がいるのだ)ゲームの間に広告を挟んでもいいし、製作者である元締めが儲かる仕組みにするのは簡単だと思う。しかも、「金」がベースになってさえ入れば、そのゲームという土台に色んなものを上乗せすることができる。(AKBの総選挙でこれほど無防備に金が動いている現実を考えれば恐ろしくなる)



 安易な未来予想はできないのだが、今のソーシャルゲームに対して疑問も不快感も抱かない人が増えてくれば、こういう仕組みはいずれ出てくると思う。

 もちろんゲーミフィケーションには良い部分もたくさんある。これからのイノベーションは何かと考えたとき、それは技術的なものよりも、人に機会を与えたり意識のあり方を変えたりする制度的なものになるような気がする。例えば、まったく勉強に興味のない人にモチベーションを与えたり、出会いの機会がない人にマッチングのチャンスを作ったりなど。そしてそれを実現する可能性のある仕組みの筆頭がゲーミフィケーションだろう。

 DeNAなんかがやろうとしているのは、もとはガチャの最も金を落とさせる確率操作を目的としていたビックデータの手法で、それを教育に応用して、学習に対するモチベーションを高め、なるべく効率よく脱落しないような教育手法を開発することだ。それはそれでやるべきだろうし、良い成果もでるかもしれない。

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 ただ、それは手放しで賞賛できるものでは決してないと思う。なぜなら、そういった一連の「手法」自体が、今ある価値観をより強固に、逃げ場なくしてしまうからだ。それが「手法」である限り、結局は「合理的」な行動を至上の価値とする主体を生み出し続けることになる。そして、その「手法」が教育という部分で評価されれば、躊躇うことなくビジネスの世界にも入り込んでくるだろう。



 ゲーミフィケーションなどと言わなくても、そもそも、今僕たちがいる現実、この社会こそが、すでにどうしようもないくらいに「ゲーム」だ。僕たちは、均質な一人のプレイヤーとして、冗長な部分を無視され、合理的に行動することを求められる。ここまでソーシャルゲームが普及する理由は、それが社会に求められているものの反映だからかもしれない。現在の社会におけるゲームのトッププレイヤー達はこぞって合理的な一連の行動の大切さを説くだろう。僕たちの「理想」は、ゲームの中において容易に実現される合理的な行動と二重写しになっている。僕が危惧するのは、ゲーミフィケーションというものが「手法」である限り、既存のゲームを再生産し続け、その内部での「効率」は上がるにしろ、僕たちをより逃げ場なくゲームに結びつけ、ゲームの外側にあるものを見えなくさせるのではないかということだ。



 僕はずっとゲームをしてきた人間だが、疑うまでもなくゲームというのは強力で、それを社会に持ってきたときに与えることになる影響は大きいだろう。ただ、それが良い結果をもたらすとは限らない。しかも、人間の弱い部分につけこんで金を巻き上げているソーシャルゲームや、某アイドルグループなどゲーム的な仕組みは、プレイヤーの愛着など、悪いとは言えない部分も内側に含んでいるから批判するのは難しい。ゲームの内側にいる人達の「合理性」を外側から批判することは基本的にできない。

 だから、僕たちはゲームの仕組みそのものを何らかのやり方で変えようとしなければならないのだ。そしてそれは、同じようなゲームをつくりだしたり、もとのゲームの機能を強めるような「手法」であってはならない



 ゲーミフィケーションを考えるとき、僕たちは、日本のゲームの原点の部分に立ち戻るべきだと思う。それは、子供向けの「おもちゃ」として作られてきたということだ。「パッケージ」としての和ゲーの特徴を詳しく説明してきたが、たぶん「管理」とか「保護」とか「作為」という言葉に良いイメージを持つ人は少ないだろう。それでも、僕たちは現実における「ゲーム」に何かしら影響を与えようとするときに、自分自身の「作為」を考えるべきだ。ゲームのプレイヤーとしてうまく振る舞うことでもなく、ゲームの支配者になることでもなく、ゲームに参加する他のプレイヤーのことを考えること、それを「作為」と呼ぼう

 「手法」から「作為」へ、それが僕の考えるゲーミフィケーションだ


 子供に対して何かを作ろうとするとき、安易に人を殺したり依存させたりするようなものは作らないだろう。僕たちの「ゲーム」とは、丁寧で、遊び心に溢れた、祈りのようなものだった。もちろんゲームの製作者が何を考えていたのかなんて僕にはわからない。それでも、そこに「作為」がある限り、ゲームをするということはそれを作った人達とのやり取りでもあったのだ。



「ゲーマー」にできること

 今まで、かなりたくさんのゲームをやってきたと思う。僕自身、ゲームによって得たことはたくさんあると思うが、ゲームをしていた時間の数分の一でも勉強などに費やしていたら、今とはちょっと違った人生があったのかな、と思ったりもする。それでも、素晴らしい日本のゲームに囲まれて育ったことに対しては感謝するしかない。そして、それをなんとかして肯定するために、いささか空想的で大きな話になってしまった。ゲームの合理性が拡大していくというのは単なる僕の予想なので、首をかしげる人も多いと思う。それでも、僕は同じような世代で同じようなゲームをしてきた人に、こういう話をしたかった。



 これから、僕たちは「ゲーム」というものをよく考えなければいけないときがやってくると思う。僕たちは現実ですでに避けがたくゲームのプレイヤーだが、ゲームの中で勝ち上がることだけを目的にできるような時代じゃない。そのゲームは、ネトゲのサービス終了のようにいつか破綻するだろう。あらゆる制度が疲労し、崩壊しかかっているのは皆に知られている通りだが、もうとっくに破綻するべきゲームを僕たちはプレイし続けている。そして、ゲームは内側の合理性の中にプレイヤーを回収し、離そうとはしない。良いゲームを"真面目に"遊んでこなかった人こそ、これからは無防備にゲームに巻き込まれ、傷つけられてしまうかもしれない。小さな頃からゲームを遊んできて、その恩恵を受けた僕たち、あの時あまり真面目ではなかったゲーマーだからこそ、「ゲーム」に対抗する責任がある。そう考えたい。


 冒頭で、これからは「ゲーマー」が必要な時代だと僕は言った。ここで言う「ゲーマー」は、ソーシャルゲームにハマってしまうような人達のことではない。僕たちはそんな安易でなんの作為もない仕組みをゲームだとは認めなかったはずだ。僕が想定するゲーマーは、宮本茂とか、冨樫義博とか、自分の「作為」をゲームの中に込めようとする人のことであり、その「作為」を受け取ろうとするプレイヤーのことだ。



 ゲームの中にあった「手法」の部分が、否応なく力を増して社会に広がっていく。僕たち一人ひとりがゲームのプレイヤーであると同時に、ゲームを変える可能性を持っている。僕たちは自分の「作為」をゲームの中に込めようとするべきだ。そして、誰かが誰かのために込めた「作為」を読み取りたい。かつてゲームを「攻略」するとはそういうことだったはずだ


 これからの時代は、「ゲーム」に反旗を翻し、自分の「作為」をそこに込めようとする人間こそ「ゲーマー」と呼ぶべきだと、僕は考えている。



 僕たちが今いる現実は、ある一面ではゲームであり、ある一面ではゲームではない。当たり前だが、現実の「ゲーム」はそんなに単純でも簡単でも平等でもない。だからこそ、僕たちが遊んできた「ゲーム」というものがあった。ゲームの中にある合理性が、現実で夢想されているものの写し絵だとしたら、僕たちはそのゲームに追従するのではなく、ゲームを踏み台にして冗長な現実に立ち向かうべきだ。現実の行き着く先がゲームであってはならない。僕たちはゲームから冗長な現実に踏み出さなければならない



 ゲームが持っていた独特の定型、お決まりのパターンや、お使いみたいなイベントなど、ゲームの中のだらだらした部分は、合理的な速度に対して冗長なものだった。プレイヤーはそれを退屈でうっとおしく思うし、ソーシャルゲームでは切り捨てられる部分だ。だがそれは、意図したわけではなくとも、それなりに倫理的な役割を持っていたと思う。ゲームの中に冗長な部分があるからこそ傑作になっている作品もある。

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例えばICOやワンダと巨像はそういう作品だ。(以前ICO、ワンダと巨像について書いた記事



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どうぶつの森もそのようなゲームだと言えるかもしれない。(以前どうぶつの森について書いた記事



 ゲームが持っていた定型の冗長な部分は、ソーシャルゲームではできるだけ省略されている。たしかに、そのほうが「ゲーム」的だろう。かつての「ゲーム」的でないゲームから、今の「ゲーム」らしいゲームを批判するというのは、なんだかおかしな話のように思われるかもしれない。でも、ゲームには恐ろしい力があって、僕は誰よりもそれを疑わない。そして、ゲームは子供向けの「おもちゃ」から大人向のためのビジネスに変わってきている。子供向けに作られたとき、そこには、「祈り」があった。その祈りが剥奪されたとき、ゲームは単なる「手法」になり、もともと持っていた親切さとプレイヤーを惹きつける一連の様式は、人の弱い部分につけこんで金をむしりとるシステムとして働いてしまうそしてその「手法」としての「ゲーム」は、現在社会のいたるところにある「ゲーム」と結びつこうとしている。だから、もう子供ではなくなってしまった僕たちは、かつて僕たちが遊んだ「ゲーム」の持っていた「祈り」や「物語」や「儀礼」を取り戻そうとしなければならない

 結局のところ、システムを構築しようとするときに、一定の「良識」を織り込む必要があるという、ごくごく月並みな話にすぎないが、ただ、そのためのヒントがゲームの中にたくさんあると僕は思っている。




 具体的にどうすればいいのか、という話はここではできなかった。でもそれは後々このブログで書いていくつもりだ。ただ、一つの方法として、考え方として、僕たちはもっとゲームについて語ったり論じたりしたほうがいい。「合理的」な「ゲーム」に対抗するために、自分がゲームをしたときの体験を人と共有するというのは有効な手段だと思う。

 大切な部分は、思い通りになる部分を積み重ねていくことではなく、「うまくいかない」体験にこそある。そういう意味で、僕はゲーム実況というジャンルにも希望を持っている。なぜなら、自分が思った通りのことをひたすら繰り返す合理的な楽しみは人とは共有できないからだ。人が延々とソーシャルゲームをやるところを見ても面白くないだろう。人気実況動画にソーシャルゲームを扱ったものはほとんどない。ソニーや任天堂がだんだん実況動画を認める方向に動いてきているのは正しい選択だと思う。


 「作為」を考えるとき、ゲームをするという体験を人と共有するという試みは、遊びとしてのゲームでも、実社会における「ゲーム」でも、だんだん重要になってくると思う。僕がこの記事を書いたのも、自分がゲームについて考えたことを共有したいという思いがあった。もし、単なるゲーム好きの一般人がブログに書いたこんなに長く「冗長」な記事を最後まで読んでくれる人がいたとしたら、それは僕の文章がどうこうというよりも、今まで遊んできた素晴らしいゲームのおかげだろう。そういうゲームで遊んできた僕たちこそ、これから「ゲーム」について考える必要がある。そのきっかけとなればいいと思って、僕はこの文章を書いた。そして、これからもゲームについて色々と書いていくつもりなので、もしよかったら、たまに見に来てください。(もしこれを最後まで読めた方がいるなら、)本当に長い間お疲れ様でした!!

 ありがとうございます。またね(^^)



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