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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

【MOTHER】と【ポケモン】と、あのときの冒険


 人前でゲームをするのは、躊躇いがある。僕は、携帯ゲームやソーシャルゲームを電車の中や公共の場所でしないことにしている。みっともなく思っているというよりは、後ろめたさがある。そして、その後ろめたさに固執してもいる。

 子供の頃、僕の家では平日にゲームをするのは禁止だった。テレビゲームをしてしまうと絶対に怒られるので、自分の部屋でこっそりゲームボーイをしていた。親が気づいていないはずがないので、少しくらいならと黙認されていたのだと思う。はじめてやったのは、ポケモンの赤バージョンだった。


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 部屋の隅でこっそりやるポケモンだからこそ、独特のリアリティーを感じていた。一人で旅立った少年相応の心地よい孤独と高揚が、後ろめたさと共にあった。

 僕たちは、本当にゲームの中を旅していたはずだ。移り変わる景色や、街の風情や、人との会話や、ポケモンとの出会いや、そこにある世界の空気を感じることができた。初代の、まだ色もついていない荒いドットと電子音の世界の中には、鮮やかな広がりが果てしなく続いていた。かすれた、乱雑な、ゴツゴツとしたゲームボーイの画面だったからこそ、想像力の入り込む余地が十分にあった。淡い色合いはいつも切なく、一つ一つの思い出が染みこんでいった。森は薄暗かったし、洞窟はじめじめしていた。怪しげな建物は埃っぽく、海の前に立つと薄く潮の香りがした。僕たちは、部屋の中にいながら、それをちゃんと感じていた。

 ゲームだけではない。アニメも放映された。カードゲームも、漫画も発売された。たくさんのポケモングッズがあった。みんなが学校でポケモンの話をしていた。新作がでるたびに騒ぎになった。広がっていくポケモンの世界と、僕たちの成長と、語りと、思いは、リンクしていた。様々な感情が途方もなく重なりあい、混ざり合っていった。


 今は、初代や金銀のBGMを聴いただけで涙が出そうになってしまう。日常のふとした合間に、あの頃の思い出の堆積が浮かび上がってくることがある。僕たちのノスタルジーのいくらかは、ポケモンで占められているのではないだろうか。そこには、あのときの冒険の匂いがあった。子供部屋の隅っこにも、ゲームボーイの画面の中で一つ一つ回った街の空気にも、冒険と共に感じた匂いのようなものが染み付いていた。



 あの頃は疑いようのない一つの世界だったゲームソフトが、画像とテキストを組み合わせた、単なるデータの張りぼてでしかないことを、今の僕たちはもう知っている。熱中しているポケモンの育成やバトルが、計算と確率と選択の遊びにすぎないことを、攻略データを片手に持った僕たちは、わかりすぎるくらいわかっている。

 新作のポケモンが出ても、初めてゲームに触れるありのままの世界に飛び込んでいけるわけではない。没入している自分とは別に、前作までの経験や記憶や思い出と、それ以上に、ゲーム以外にもたくさんの厄介なものを背負い込んでしまった現実の僕たちの、小ずるく俯瞰した視点がどうしても入りこんでくる。任天堂とゲームフリークの特定のメンバーがつくった作品として、採算や評価や様々な屈託を抱え込まざるを得ない一つの会社から発売されたゲームソフトとして、つまらない比較や検討の中に位置づけなければ、僕たちはもうそれを認識することができない。ただ、それでもなお、「ポケモン」というものが気になってしかたがない自分がいる。新作が出るたびに説明のつかない胸騒ぎがしてしまう。困ったことに、あのときの冒険の匂いが、まだ薄れてくれない。



 ポケモンの開発者である田尻智は、かつて「むしとり少年」として東京の郊外で育ち、失われていった自然を投影するような形でポケモンをつくった。数多くのポケモンたちとその体系は、デジタルの世界に生まれ変わった自然だった。そして、田尻智がそのフォーマットとして選び、ゲーム作りの参考にしたのが、糸井重里の発想から生み出された「MOTHER」という任天堂のゲームソフトだ。


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 「MOTHER」と「MOTHER2」はポケモンより前に発売されたゲームソフトだが、僕がプレイしたのはポケモンより後の、ゲームボーイアドバンスでリメイクされた「MOTHER1+2」だった。

 MOTHERは、それ自体が一つの発明であり、希望のようなソフトだった。当時のゲームらしいもの、RPGらしいものに対して、みごとに抗っている。RPGにおける数値の処理に付随しがちな冷酷さを、まったく逆の、明るい色合いに変えてしまった。

 凶悪なモンスターは、奇妙で、どこか憎めないキャラクターになった。荒廃した世界が、無頓着でどこか気の抜けている人達の日常に変わった。険しいはずの道のりは、賑やかで楽しい冒険になった。登場人物には温かみがあり、メインは戦闘ではなく、未知のものとの出会いだった。ゲーム自体が一つの歌であり、祈りのようなものになっていた。


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 小さな少年少女の冒険であり、「おとなも こどもも おねーさんも。」とあるように、かつて少年と少女だったことのあるすべての人達に与えられた物語だった。小さな子どもたちが、自分の街を飛び出し、いくつもの街をまわり、たくさんの人達と出会いながら世界を旅する。そのゲームの原型を確立したのがMOTHERというゲームソフトだ。糸井重里の才能も相まって、MOTHERは唯一無二の世界観を構成しているのだが、ポケモンはそこを引継ぎながらも、独自のシステムをつくりあげていった。


 もしポケモンがMOTHERから出発したのでなければ、ここまでのヒット作にはならなかっただろう。単なる育成やバトルシステムの出来のよさからは説明のつかないものがある。どうして僕たちはこれほどまでにポケモンが好きなのか、どうしてポケモンでなければいけないのか、という問題だ。

 たたかう相手になるモンスターは、仲間でもある。現実や空想の生き物や、身の回りのささやかなものがモチーフになり、ポケモンという世界の中で僕たちの手元に息づく。現実なり、空想なりの、色んな人達と遊び、語り合って、僕たちのなかのポケモンが作られていった。

 その原点は、冒険と出会いだったはずだ。僕たちは、何も知らず、最初の街から一歩を踏み出して、そのめくるめく世界に足を踏み入れたはずだ。


 僕たちの冒険が終わってしまったのか、それともまだ途中なのか、それはわからない。ただ、MOTHERから始まったポケモンの世界は、今なお、広がり続けている。次の世代や、次の次の世代のために、冒険の舞台が新しくつくり出される。

 育成や、バトルや、様々な遊びやネタ、新しいシステムが継ぎ足されていった。どんどん、成長し続けている。単純に新しいタイトルが出て仕組みが複雑になったという意味だけではなく、前に出たすべての作品を踏まえながら、その体系を増やし続けているという点で。今なお、これほどまでに多くの人々から愛されているという、それだけで、ポケモンの世界は大きくなり続けている。


 かつて、ここまで巨大で複雑なムーブメントは、どこにも存在したことがなかった。ゲームやアニメやグッズなどの市場の大きさだけではない。少しネットで検索してみれば、どれだけポケモンに対して語れることがあるのか、どれほど多くの人がポケモンと積極的に関わろうとしているかがわかるだろう。ストーリー、育成、バトル、それぞれのポケモン、技、特性、それぞれの登場人物、ちょっとしたネタや、どんなことでも、これほどまでに語ることがあり、語られているゲームは他にない。

 小さなゲームボーイの画面から始まったそれぞれの冒険が、ポケモンに関わった色んな人達の思いが、響きあい、混ざり、積み重なっていく。製作側の人達でさえも、その流れと様式に従って世界を継ぎ足し、整備していくのだろう。ポケモンとは何であるかという核心を掴むのは、もう誰にもできなくなっているのかもしれない。ポケモンについて何かを語ろうとするとき、過去から続くそのあまりにも膨大な堆積の前に、僕はただ立ち尽くすことしかできない。

 渦中にいる僕がその正体を捉えられるわけもないし、外側からの分析はもっとあてにならないだろう。もちろん、ポケモンについて何かを理解する必要なんてないのかもしれない。僕たちはただ祈りのようなものをこめてそれを見守り、ゲームをプレイし続け、語り続けるしかないのかもしれない。それはそれで、何の問題もない。


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 ずっと、ポケモンが続いて欲しいと思う。都合の良い未来を想像するなんて馬鹿らしいことだと思いながらも、仮に僕が父親になれたとして、自分の子供がポケモンをやっていたらすごく嬉しいだろうな、と考えてしまう。同じものではないのだろうけど、かつて自分が経験したものの一端が引き継がれていることに対して、喜ばしく感じるはずだ。そして、その子供が産んだ孫もポケモンをプレイしていて、そのときは全部で何匹のポケモンがいるのだろう、僕はちゃんと全部覚えるので尊敬されるだろうな……なんて妄想が広がっていく。

 もちろん、そんな考えを下の世代に押し付けるのは危険だ。初期のたどたどしさや、粗いグラフィックの情緒を知っているからと言って、それを知らない人達に対しては何の自慢にもならない。ただ、そのときの思いなりなんなりが、何らかの形で続いていって欲しいとは思う。そういう思いだけは、切実に持っている。


 今の小さな子どもたちにとって、ポケモンとはどのようなものなのか。それは最も重要な問いであると同時に、僕たちが積極的に関与すべきことではない。だって、MOTHERやポケモンの親たちは小どもをそっと見守っていたんだから。そして僕たちも、ゲームの世界にいる間はあのときの少年少女であるはずだから。




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 これからポケモンはどうなっていくのだろうか? はっきりとしたことは誰にもわからない。ただ、もとをたどれば、それは子どもたちの冒険と出会いだったはずだ。糸井重里の言葉を借りるなら、「奇妙で、おもしろい。そして、せつない」冒険だった。その原点は、いつまでたっても祈りのようなものだ。最初の街から踏み出す一歩と、その先に待ちかまえているであろう語り尽くせない世界の広がり。そういう感覚がなくならなければ、それでいいんじゃないか。



 大学生や社会人になって、ポケモンにハマりだす人は多い。僕のまわりにもたくさんいる。ただのデータだとわかっているはずなのに、一体どこからそんな熱意と執着がやってくるのだろう?


 あのときの冒険の匂いが、染みついて離れないのだろうか。




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