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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

僕は毎晩、眠るために死ぬことを考える

ライフハック


 これはライフハック記事である。眠れない人のために、僕なりの眠る方法を教える。昔は眠るのが苦手で、すぐに眠れる人が羨ましいなあ、とずっと思っていた。工夫を重ねて、「うまく眠る」という感覚と方法を段々と自分のものにできたような気がしている。少なくとも、最近はよく眠れている。そのちょっとしたコツみたいなものを書いていきたいと思う。


 経験がある人ならわかると思うが、眠れないというのはなかなかつらいものがある。

 眠たいはずなのに眠れない。布団に入っても気分が高ぶって色々なことを頭に浮かべてしまう。いっそのこと眠らなければいいと思うが、必ず翌日や翌々日がつらくなる。6時間眠れると思っていたのに、なかなか眠れなくなり、残り時間が5時間、4時間、3時間と減っていって、どうしてこれほど眠れないのだろうとイライラしてくる。イライラすると余計に眠れなくなるという悪循環に陥る。もちろんいつかは眠ることになるのだが、そのときに今まで眠れなかったぶんが祟って長時間眠り込んでしまったり、起きても疲れが取れていなかったりする。

 眠れないからといって短時間睡眠で済むわけでもないらしく、うまく眠れなかったぶんだけ朝起きるのがつらくなる。眠るべきときに眠れなくなり、眠ってはいけないときに強烈な眠気が襲ってくる。眠れなくて苦労している間、膨大な時間を無駄にしているような気がする。だからと言って、僕はおクスリが嫌いなので睡眠薬を使う気にはなれなかった。もちろん人によって状況は違うし、本当に眠れない人は使うべきだと思う。


 眠れないときの対処法はググったりすれば色々でてくる。規則正しい生活をする。副交感神経を優位にする。ストレッチやマッサージや半身浴をする。ホットミルクを飲む。寝ようとする前にPCやスマホなどをいじらない。照明や枕や布団にこだわる……などなど、色々あるのだろう。ただ僕がここで述べたいのは、眠るための準備ではなく、眠ろうとしているまさにその最中のこと、布団に入って目を瞑った後の問題だ。


 布団に入り、眠ろうとする。そこには「眠ろう」という意識があるはずだ。すぐに眠れる人はその「眠ろう」という意識の途中で、そのまま眠ってしまえるのだろう。でもそれがなかなかできない人もいる。

 ずっと「眠ろう」という意識を続けていれば、やがては眠れるのだろうとは思う。ただその意識を維持できる時間はそれほど長くなく、眠れない人はその集中力が途切れて別の思考が紛れ込んでしまうから問題なのだ。長い間「眠ろう」を持続させようとしても、それ自体に集中力を発揮しようと躍起になってしまい、かえって眠りから遠ざかってしまうこともよくある。


 僕は空想癖やら妄想癖がある人間で、「眠ろう」という意識が途切れてしまったあとはひたすら色んな想像を巡らすことになる。ふとしたきっかけで知り合った美女との馴れ初めから結婚までの場面場面を頭の中でシミュレートしたり、ある分野で著しく業績を上げてインタビューを受けドヤ顔で人生を語ったりと、まあ色んなバリエーションがあって、頭の中が忙しい。一度空想が始まってしまうと、どんどん眠りが遠ざかっていく。

 その安楽な空想は自然と沸き上がってくるので、なかなか対処するのが難しい。本を読んだりキーボードを打っているときは「目の前のものに集中する」という形でその空想を追い払うことが可能なのだが、眠ろうと目を閉じているときには、空想がここぞとばかりに頭へ攻め入ってくる。

 空想というもの、どんな種類であれ、ある種の観念が目を瞑った自分の頭の中に浮かび上がってくるという事実は、もう受け入れるしかなかった。問題は、その中に眠るときに適したものと適さないものがあるということだ。


 長年の実地的な研究により突き止めたのだが、眠りを妨げるのは「言葉」を伴った空想だ。とくに、会話や議論がそうだ。自分の頭から次々と浮かんでくる言葉は非常に厄介で、布団に入って目を瞑ると、色んな言葉が思い浮かんでしまう。そして、その言葉に引きずられるようにして空想の輪郭やストーリーができはじめ、それが言葉での思考を加速させ、どんどん眠りから遠ざかっていってしまう。特定の誰かや空想の人物との会話を思い浮かべたりして、そこから色んな話しがまた浮かんできたりもするし、一番悪いパターンは、何かを批判する論法を組み立て始めてしまうときだ。本なりテレビなりウェブなりにでてきて考えや主張などを論破しようと頭が動き始めてしまって、その理屈が声になって頭を駆け巡りだすと、まず眠れない。布団に入りながら徹夜を覚悟しなければいけないくらいだ。

 やってみればわかるが、何の言葉も思い浮かべない、というのは(それを意識すればなおのこと)非常に難しい。解決策として言われているのが、「あー」などとずっと頭の中で特定の声だけを発するとか、慣れ親しんだ歌を頭の中で再生するとか、羊を数えるとかして、有機的な言葉が生まれてくる余地をなくしてしまおうという方法だ。僕もそれらを試したことがあるが、なかなかうまくいかなかった。言葉を押しとどめようとする試みも、それ自体がある種の力みと集中を求めるので、何か別の自然な方法が必要だった。


 目を瞑ったとき、言葉を頭に浮かべないこと、そのテクニカルな解決策として僕がずっとやっていたのは、「エロいことを考える」というものだ。会話や議論よりも強力な内容の空想や妄想を上から覆い被せてしまうというやり方だ。

 布団に入り目を瞑って、エロいことを考えながら眠る。意外だと思われるかもしれないが、案外これがよく眠れるのだ。エロい妄想は、簡単に頭に浮かびやすく、強力で、そこには言葉が伴わない。素朴に考えれば、「エロいこと考えてたら逆に寝れなくなるだろ」と思われるだろうが、眠れるんだから仕方がない。それは僕が現実にあるべき高揚から隔てられているからなのかもしれないが、女たらしの友人に「布団の中でエロいこと考えてたら案外よく眠れたりしない?」と聞くと「それな(╭☞•́⍛•̀)╭☞」という返事が返ってきたこともある。

 もちろん客観的な裏付けなどあるわけがない。ただ、僕自身の感覚として語らせてもらえば、エロいことを考えるというのは有効な手法だし、このやり方には本当に長い間お世話になった。

 それならこの記事のタイトルも「僕は毎晩、眠るためにエロいことを考える」でいいと思うのだが、それはそれでちょっとアレだし、エロい妄想というやり方には一つ大きな欠点がある。


 エロい妄想の欠点は、眠るためには便利なのだが、その妄想自体から離れることが難しくなるということだ。

 やはり人間である以上、エロい観念にはどうしても惹きこまれてしまうもので、一度その泥沼に浸かってしまえばそこから抜け出すのが難しくなる。そして、その「エロ」と「眠り」が結びついているというのは大きな問題になる。というのは、朝起きるのが難しくなってしまうのである。

 布団に入って目を瞑った状態からエロいことを考えるというチャネルができあがってしまえば、朝にぼんやりと目を開けて、「さあ起きよう!」となるべきときまで、頭にはまだエロい想念がまとわり付いている。そして、「うーん、もうちょっと……」という感覚が、「もうちょっと寝ていたい」と「もっとエロいことをしていたい」という二つの意味を持つことになる。一つでも抗いがたいこれらの衝動が二つ同時に襲いかかってくるわけで、これに抗うのは至難の技だ。こうして、二度寝三度寝をしてしまうハメになる。(なんか、書いていてちょっと自信がなくなってきたんだが、こういうこと思うのってひょっとして僕だけ?みんなもそんな経験ない?)


 まあそんなこともあり、うまく眠る方法を探求していた僕が、ついに画期的な手法を見つけ出した。それこそが「死」という観念なのだ。

 自分が死ぬ瞬間を思い浮かべる、という強烈なことをするわけではなく、ただゆっくり、自分を死んでしまったものだと考える。もしくは、病床に伏していて、ゆっくり死につつあるのだと考える。

 死ねば何も残らない。死を目の前にすれば今悩んでいることなんてなんの意味があるだろう。自分の意識はほんの些細なもので、今にもそれは消えてしまうのだと考える。言葉も他者も会話も議論も、過去も未来もない。

 「もう死にたい……」とふと思う願望。すべてから解法されて楽になれるという愉悦。明日が来ることはなく、死んでしまって目覚めることはないのだという、絶望であり希望でもあるイメージ……。もちろんそれは、否が応でも明日が来るという布団の中の安心感に支えられているものだ。

 やってみるといい。コツさえ掴めば不思議とよく眠れるし、何より、朝をすがすがしく迎えられる。自分が死んだという観念は、性的な幻想と違って後に引きずることはない。エロい妄想から入ったときよりも深く眠れることが体感的にわかる。


 僕がエロい妄想から「死」というイメージに辿り着いたのは、それほど突拍子もないことではないと思う。ジョルジュ・バタイユは性行為のことを「小さな死」と言ったし、ご存知の通りタナトス(死)とヒュプノス(眠り)は兄弟である。


 「死」を思い浮かべるのは、逆説的だが、その向こうにある明日を迎えるためだ。長く夜を引き伸ばすのはつらい。死んだと思って眠ってしまえばいい。ぐっすり眠ってしまいさえすれば、僕たちは明日を迎えられるのだから。



二年来、死は人間たちの最上の真実な友だという考えにすっかり慣れております。

―ぼくは未だ若いが、おそらく明日はもうこの世にはいまいと考えずに床に這入った事はありませぬ。而も、僕を知っているものは、誰も、僕が付合いの上で、陰気だとか悲しげだとか言えるものはない筈です。僕は、この幸福を神に感謝しております。

(モーツァルト,父親に送った手紙,1787年4月4日付)



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