しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

【ICO】冗長なゲームという逆説【ワンダと巨像】

 ゲームはクリアしなければいけないものだと思っていた。今はゲームをやる時間がなくて困っているが、当時の僕は時間だけがたくさんあり、買えるソフトは限られていた。否応なく一つのゲームをやりこむようになる。買ったゲームをクリアしないままにしておくなんてもってほのかだった。

 とにかく、一度買ったゲームとはとことん付きあおうと思っていた。クリアするまでは絶対に攻略本も見ない。そういったやりかたでゲームと向き合えたのは幸運だった。お金を出して買ったゲームは意地でもクリアする。そういう心構えは大事だと思う。オンラインゲームやソーシャルゲームに見られる基本料金無料なんて、とんでもない話に思える。

 

f:id:skky17:20140219234610j:plain

 

 ICOを買ったのは中学生のころで、ゲームショップで中古品を漁っていて、手にとった。中古にしてはそれなりの値段がしたはずだが、どういうわけか、パッケージの絵が気に入ってしまったのだ。風車と、長く伸びる二人の影。そのときの僕の直観は間違ってはいなかった。

 それでも、ちょっとプレイしてみた時点で、高いお金を出して買ったのは失敗だと感じていた。女の子と手を繋ぐというコンセプトが恥ずかしい。僕の家は居間にしかテレビがなかったので、親がいるときは気恥ずかしくてプレイしにくかった。アクションの操作性も、あまりよくない。特に任天堂のゲームに慣れていた僕は戸惑った。多様な戦略性や選択肢が用意されているわけでもない。パズルや謎解きなどのギミックも、特別目を見張るものはない。というより、少し乱暴すぎると言ってもいいかもしれない。

 でもやっているうちに、良いゲームだと思った。進展もなくただ城をうろうろしても、無駄な時間を過ごしたとは思わなかった。それは後から思い返して、僕にとって大切な時間だった。

 ICOをクリアしたので、ワンダと巨像も当然やった。直接の続編ではないが、同じ作者、同じ制作チームの作品であることは明白だった。儚くて美しい世界観や、不親切で理不尽な感じが似ていた。アクションは壮大で奥深くなり、前作よりずっと厳しいゲームになっていた。ワンダと巨像も、ICOに勝るとも劣らない良作だと言える。

 

f:id:skky17:20140219235139j:plain

 

 この二作品は人を選ぶ。つまらない、よくわからない、ただの雰囲気ゲーだと言う人もいれば、熱狂的な崇拝者(おそらく僕もその内の一人だが)も大勢いる。国内のみならず海外のファンも多く、天才ゲームデザイナー上田文人の名は一気に知れ渡った。

 上田文人は、ゲームクリエイターの中ではよく自分の考えを喋る人だという印象がある。僕も手に入るものはだいたい読んでいるはずだが、その中でも印象に残っているのは、あるインタビューでの記者からの問いかけ ―ICOやワンダにおいては、他のゲームによく見られる剣や防具やキャラクターなどの詳細な設定がないということ― についての返答だ。 

剣などに情報があったりキャラクターに歴史があったりというのは、可能な限りゲームにリアリティーを与えようとしているんだと思います。説明や、登場キャラクターが話すというやり方は、一つの方法なのでしょうが、私が私のゲームで選ぶのは、イメージ自身のリアリズムにフォーカスする方法です。

 ICOは、説明書にあるとおり、「いつだかわからない時代の、どこだかわからない場所でのお話」だ。その世界観には、現実の風景と具体的に重なりあうものが省かれている。ワンダと巨像でもそれは同じだ。「イメージ自身のリアリズムにフォーカスする方法」という上田文人の言葉の持つ意味、感覚は、ゲームをプレイすればなんとなくわかる。

 ICOなら、「この人の手を離さない。僕の魂ごと離してしまう気がするから」というキャッチフレーズのとおり、自分の意志と力を大きく超えた悲劇に見舞われた少年と少女が、ただ手を繋ぐというイメージ、一つの美しい観念からゲームが生み出されている。

 ワンダと巨像では、「最後の一撃は、せつない」とあるように、巨像によじ登り、しがみつき、爽快であるとともに後ろめたくもある一撃を加えるというイメージがまずある。それが、少女のために過酷な闘いに身を投じる青年の悲しい物語になっている。そういったイメージは、非現実的なゲームの世界でありながら、同じものが僕たちのなかにありありと、リアルな感覚として息づいている。それが前提であるが故に、ICOもワンダも、これほどまでに多くの人を捉えて離さないゲームであることができるのだ。

 この二作品に共通するテーゼは、何より、ゲームを最後までやり遂げ、エンディングを見なければいけない、ということだろう。途中でやめてしまっては意味が無い。過程を楽しめた、なんて言ってはいけない。そして、ゲームとはそうあるべきなのだ、と思わせるだけの力を持っている。霧の城の崩壊と、空中庭園から鷹が飛び立つシーンは、ゲーム史上最も美しいエンディングのトップ2をいまだに譲ってはいないように思える。これらのゲームを途中でやめてしまった人はいても、クリアしてエンディングを見た後に損をしたと思う人は誰もいないだろう。

 クリアまでの道筋は、まっすぐ伸びている。他のほとんどのゲームが持つ、戦略性、寄り道、賑やかな登場人物との会話などは、(ちょっとした隠し要素はあるにしても)ほとんど見られない。攻撃力などステータスという概念も希薄で、敵を倒しても経験値やドロップがない。ゲームのシステムだけを見れば、始まりから終わりまでの一本道をひたすら進むことになっている。非常にストイックなゲームだ。そして、そこにはゲームにおける一つの逆説があらわれている。

 

 コンピューターゲームに共通する特徴として、入力から出力までの距離の短さがある。それは現実世界の冗長さと対比される。ぼんやりとした緩慢な現実の感覚に対して、ゲームでは、ボタンを押すなりスティックを倒すなりすれば、キャラクターが動いたりコマンド画面が切り替わったりする。コントローラーを使った自分の入力が、画面に表示される出力として確信される。それがゲームにおける魅力を構成している。アナログ的で緩やかな時間が続いていく、とらえどころのない現実に、システムを介した速度で切り込みを入れていく。入力から出力までの円滑な手続きそれ自体が力を持つ。コントローラーでの自分の入力が出力となってすぐ画面に現れる面白さ、ゲームはそれを要素として成り立っている。

 

 そういうふうにゲームを捉えると、ICOやワンダと巨像においては、ある種の逆説が見えてくる。二作品とも、後から道筋を振り返ると、とてもシンプルなゲームだ。はっきりとした一本道で、よけいなものは削ぎ落とされている。

 しかし、だからこそ、ゲームが生まれてくる過程で切り離されてきたはずの現実の冗長さが蘇っている。他のゲームと比べて、まるでゲームではないみたいに、時間の流れが遅いのだ。電子技術がもたらす円滑な手続きを元にして構成されるゲームの中で、冗長な現実の空気が表現されている。

 

f:id:skky17:20140219234713j:plain

 

 ICOは、生贄として古城に閉じ込められた角を持つ少年イコが、その城の中で幽閉されていた少女ヨルダと出会うところから物語が始まる。二人の間では言葉が通じないが、イコはヨルダの手を取り、城の中を歩き始める。恐ろしくも美しい城の中を、少女と手をつなぎながら探索する。

 ゲームの目的としては非常にシンプルで、城の仕掛けを解きながら脱出をはかろうとする。ただそこには、ゲームの世界とは思えない緩やかな時間がある。木漏れ日や、鳥のさえずりや、浮かび上がる影や、自分のものではない少女の足取りがある。まるで本当に、ゲームではなく実際に少女と手をつないでいるように(経験したことはないけど!)冗長で、とりとめのなく、確信が持てないのだ。そういった現実を、ゲームの中で、僕たちは体験することができる。

 

f:id:skky17:20140219234802j:plain

 

  ワンダと巨像はアクションの要素が強いゲームだが、ICO以上に、ゲームの中に冗長な時間が紛れ込んでいる。主人公ワンダは、生贄となって失われてしまった少女モノの魂を取り戻すため、入ることの許されない古の地で巨像と闘う。巨像は禁断の土地の各地に散らばっていて、全部で16体いる。愛馬アグロに乗ってそれぞれの巨像を倒しに向かう。ゲームの内容は巨像との闘いのみで、他の要素はほとんどない。道中で出てくるザコ敵も、会話をしてくれるNPCもいない。

 アクションRPGの途中を省きボス戦だけをピックアップしたゲームだとよく説明される。これだけを聞くと、非常にシンプルで、よけいなものが削ぎ落とされているように思うだろう。だが実際にゲームをプレイしてみると、非常に時間の流れが遅い。主人公の目的と被さるように、重々しい空気がそこにある。よくあるゲームのように、延々と経験値を稼ぐ作業をしているわけでもない。一直線に目的まで進もうとしているはずだ。それにも関わらず、時間の流れは徒労に満ちている。それは禁を犯して少女を救おうとする青年の険しい道のりそのもののように重苦しい。

 アクション性が優れている、とは言えないかもしれない。むしろ、不親切で理不尽な部分が強い。多くのゲームをやりこんだプレイヤーほどそう思うはずだ。なぜなら、入力から出力までの円滑な手続きを志向しているゲームとは一線を画しているから。巨像との闘いは、ゲームとしてではなく、現実とリンクするような形で、苦しい。そこには現実の、確信を持つことのできない苛立たしさとやるせなさが漂っている。作中で最大のカタルシスであるはずの巨人への止めの一撃さえ、はっきりとした確信を持つことができない。そういったことをテーマにして作られたゲームだと言える。

 

f:id:skky17:20140219234851j:plain

 

 ICOもワンダも、他のゲームと比べて、快適ではない。ゲームとして考えたときに、不自然に思えるほど冗長だ。しかしこの二作品の優れた部分もまたそこにある。

 ゲーム本来が志向している速度、円滑さに対して、遅いということ、冗長だということ。それはゲームらしく無く、受け入れられにくいというのもわかる。だが、少女と手をつないで歩くイメージ、後ろめたさと共に巨像に剣を突き刺すイメージ、そういった観念からゲームが組み立てられているから、大切な部分を決して外すことがない。冗長な部分こそが、ゲームとしての大切な体験になり得る。プレイをしていてそれがわかれば、つらくてもコントローラーを置く気にはならないだろう。

 

 もちろん、ゲームとは何も考えずに楽しむものだという考えもあるし、ICOやワンダだって、普通にプレイしていて楽しい。それでも、ゲームをプレイする上で、そのゲームという表現の奥に何があるのか、僕たちが感じていることの向こう側に何があるのか、という問いかけも、たまには必要なんじゃないかと、僕は思ったりする。ソーシャルゲームなんかが興盛を極めているような昨今においては特に……。

 

f:id:skky17:20140219234935j:plain

 

 ストーリーや表現についても、いろいろと思うことがあるのだが、詳しく書くつもりはない。それは、もしこの記事を読んで、ICOやワンダをやったことがない人がいたらプレイして欲しいと思うからだ。どちらも一風変わっている。ゲームなのに、ぎこちなく冗長だ。限りなくシンプルな構成なのに、そこにある空気には現実と同じように多様な感情や意味合いが含まれている。エンディングまでやってほしいと思う。そこまでに費やした時間は、決して無駄ではなかったと思えるだろう。

 

f:id:skky17:20140219235028j:plain

 

  僕が当時、ICOやワンダと巨像とまともに向き合えたのは運が良かった。たぶん、まっとうな少年になるためにやらなければいけないゲームというのがあるのだ。優しくなりたいとか、強くなりたいとか、身近な人との何気ない時間を大切にしようと思えるようになるゲームだ。もともと性根が歪んだ人間である僕がこういったゲームに出会っていなかったら、もっと酷いことになっていたに違いない。

 

 次回作である「人喰いの大鷲トリコ」が今どのような状況なのかはわからない。いろいろと事情があるのだろう。それでも、発売するとなるとひと騒ぎしてしまうと思う。

 最近は、忙しいということもないのだけれど、ゲームに割ける時間がそんなにない。今までゲームばかりしてきたツケが回って、もっと他のことをしなければいけないような気がしている。

 それでも、「トリコ」が発売されたなら、絶対にやらなければいけないのだ。気が重くて、他にやることが山積みでも、なんとか重苦しいゲームの世界に踏み込んで、最後までクリアしないといけない。現実逃避ということではなく、ゲームの中にある現実と向き合うために。……もちろん、そういうことができるのは幸福だということでもあるのだけれど。

 

 

f:id:skky17:20140219235013j:plain