読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

謎と暗号で読み解くダンテ『神曲』

本の感想

 ダンテの『神曲』については、松岡正剛が、『神曲』の構造をコンピューターによってシステム化できるんじゃないか、というようなことを書いていたのを見たことがあって、本書を見たときにはそういう部分に対する期待があった。だが『謎と暗号で読み解く』というのは明らかにタイトル詐欺で、踏み込んだ解釈をしているわけでも読み方が冴えているわけでもない。著者はイタリア文学者の松村真理子で、まあ普通の解説書。ただ、神曲は詩的な表現で書かれているし、長いし、理解するには前提となる知識が求められるので、さっと読める解説書があるのは良いことだと思う。

 

謎と暗号で読み解く ダンテ『神曲』 (角川oneテーマ21)

謎と暗号で読み解く ダンテ『神曲』 (角川oneテーマ21)

 

 

 『神曲』はイントロダクションの1歌、地獄編の33歌、煉獄篇の33歌、天国篇の33歌からなる100歌にも及ぶ壮大な抒情詩である。 

 自分自身を主人公とし、ダンテは、永遠に赦されることのない罪を犯したものが集う『地獄』、生前の罪を贖罪した後に天国へ迎えられるようになる『煉獄』、そして祝福された者達が集う『天国』を生きたまま巡り、地上に戻ってくる。

 何が面白いかと言うと、ダンテの『地獄』めぐりには様々な歴史上の偉人、当時の有名人が登場するからだ。地獄は罪の重さによって受ける罰が違うのだが、一番浅いところには、偉大な詩人であるホメロスホラティウスオウィディウス、ルカヌス、ウェルギリウスの魂がある。なぜ彼らが地獄へ堕ちたかというと、罪を犯したわけではないがキリスト教の洗礼を受けていないから、真実の信仰を持たなかったからということになる。ただここはリンボ(辺獄)と呼ばれ、ひどい苦しみを受けるわけではなく、ただため息が聞こえる穏やかな世界だ。地獄でのダンテの案内人となるヴェルギリウスもここの住人である。偉大な詩人たちは、ダンテを見るとほほ笑み、その輪の中にまねきよせる。ダンテを古代の偉大な作家達の継承者として、第6番目の詩人として自分たちの系譜に位置づけている。……これ、自分で書いてるからね? 自分を物語の主人公にして、偉大な作家たちを地獄に落とした挙句、彼らがダンテを見て自分たちの輪に加えるところを自分で書いちゃう。いろいろと凄い。もちろん、ダンテは世界で最も偉大な古典作家と言ってもいいほど評価されているわけで、自負のあらわれということになるのだろうけど。

 クレオパトラ、トロイア戦争の引き金となったヘレネとパリス、騎士物語のトリスタン、ダンテと同時代に生き、禁じられた恋のために命を落としたパオロとフランチェスカ、トロイの木馬を考案したオデュッセウスローマ教皇ボニファティウス8世、さらに、いさかいや分派を生み出した罪で八つ裂きの刑を受けているイスラム教創始者ムハンマド、恩人に対する裏切りの罪で地獄の最も重いところに収容されているユダ、ブルータス、カシウス、などなど。歴史上の偉人、空想上の英雄、当時誰もが知っていた有名人が『神曲』にはたくさん登場する。地獄に堕ちた彼らの苦しみをダンテはまざまざと見せつけられることになる。(もちろん、そういう体で物語を自分でつくっている)悪人だから地獄に堕ちるというわけではない。当時、善良な心を持ちながらもキリスト教的な罪を犯してしまった人はたくさんいた。だからこそ、様々な人間の相が反映されていて、神曲という物語は深みを帯びている。

 ダンテはフィレンツェを追放されて放浪したりと、色々と憂き目に会っていて、そこでダンテの恨みを買った人物は地獄でひどい目にあわされている。誰をどんな地獄にマッピングするかというのはダンテの采配で、当時の歴史解釈や、同じ時代の人々に対する評価が如実にあらわれている。そしてそれが地獄の残虐な罰として、恐ろしさとともにどこかユーモラスな怪物たちの描写として、音律の整った壮大な抒情詩として語られる。これが面白く無いはずがない! 現在まで読み継がれているもの頷ける。ダンテの神曲の中でも『地獄』は特に人気があるらしい。

 『煉獄』は、中間的な死後の世界で、そこで贖罪を果たせば天国に行くことができる。それのためにはこの世とのつながりが大事で、煉獄で会う死者たちは、ダンテが地上に戻ったときに、自分のことを語り継いでくれるように頼む。この世の人々に自分の天国行きを祈ってもらうためだ。ちなみに、煉獄というのは聖書に根拠があるわけではなく、カトリック教会の免罪符販売などに利用された。プロテスタントは煉獄の存在を認めていない。ダンテの神曲に出てくる『煉獄』が人々の意識に与えた影響は大きい。

 

 あの世の世界を巡るダンテの神曲は、ベアトリーチェという一人の女性のために綴った詩である。ダンテと彼女は結婚していたが、お互い24歳のとき、ベアトリーチェは病気で息を引き取った。

 神曲において、主人公ダンテを魂の滅びから救い出し、救済のための彼岸への旅を望んだのはベアトリーチェである。過去から現在までの壮大な歴史を描き、あらゆる歴史上、空想上の人物を登場させながらも、最も重要な役を果たすのは、死別してしまった最愛の人ベアトリーチェなのだ。ダンテは自分の恋人を、天使達に囲まれ、聖なる車の列に伴われる聖女のように描く。ベアトリーチェはすでにダンテとは違う、天使の領域に達してしまっている。

 人間を超越した天使たちのコニュニケーションは、美しい姿と望みの炎だ。存在するだけで、光り輝く鏡に映し合うだけで、天使たちはお互いを理解することができる。言葉は必要としない。天使たちのいる天国には至福の魂と光が満ち溢れている。天国に登っていくほど、その光は強くなる。天国にいるベアトリーチェも輝きながら神に愛され、人間を超越した高い知性を備えている。

 肉体を備えたまま天国に入ってきたダンテには、最初はまぶしくてベアトリーチェに目をやることもできない。しかしぼんやりとした霞の中から、彼は愛の力を感じる。ベアトリーチェのような上位の存在は、ダンテに比べれば何でも知っている。ダンテはただひたすら彼女を賛嘆する。彼女の美しさは人間を超えてしまった、神によってしか完全に理解できない美しさだ。あらゆる偉人や有名人と語り合い、描ききってきたダンテは、ベアトリーチェを理解する知性が自分には足りないという形で、彼女の超越性を強調する。

 

 問いに答えることなく、私は目を上げた。 

 そこで私は見た、彼女の永遠の光が自らを輝かせている。

 光輪を輝かせている姿を。

 

 雷が轟く空の彼方の高みから、 

 生きた人間の視線が遠く離れた 

 深海の深みにまで注がれるよりも、

 

 私の眼差しはベアトリーチェから遠かった。

 されど、何ものも、彼女の姿が、 

 私のところにとどくのをさえぎることはなかった。

 

 

 ベアトリーチェは人間を超越した、ダンテから遥か遠い存在だ。しかしその眼差しは何にもさえぎられない。その眼差しによって、彼女の高みに接することができる。ダンテの巡礼の旅の結末は、至高の天における「神を見る」というクライマックスなのだ。

 ダンテは聖母に対するかのように、ベアトリーチェに感謝を捧げ、自分の魂が死の時に赦されるようにと祈る。プラトン的と言えるかもしれない、恋人ベアトリーチェに感じた恋の超越性を、ダンテは壮大な抒情詩として歌った。

 人間の、時代の、神の、あらゆるものを取り込んだような、世界最高の文学と評される『神曲』は、たった一人の女性に捧げられた愛だったのだ。

 

 神曲は、当時多くの知識人が理解できたラテン語ではなく、多くの人々が話すのに用いていた「イタリア語」によって綴られた。正しくは、ダンテがいたからこそ「イタリア語」が生まれた。イタリア語が生まれるために『神曲』が果たした役割は、どんな言語を例に考えても他に例が見つからないほど大きい。『神曲』のことばのリズムは、イタリア語を話す人達にとって、今も直接的に心に響く。700年経った今でも、『神曲』の中の90パーセントの語彙が現在のイタリア語話者に理解可能だという。

 ラテン語は当時の公式な言葉であり、地域的により広くより学識のある読者に訴えかけることができた。当時の俗語であった「イタリア語」は、書き言葉としてまだまだラテン語の豊かさには及ばなく、その地盤も危うかった。この50年、100年の間に、どれだけの語彙が消えては生まれ、変わっていっただろうか。俗語というものがどんどん変化してしまうものであることを、ダンテは知っていた。

 

 もしこの世から旅だった者たちが、1000年経ってから自分たちの町に戻ってくるとしたら、彼らにとって耳慣れない言葉のゆえに、異邦人たちに町が占領されたと思うだろう。

 

 『神曲』は恋人ベアトリーチェを描く恋愛詩であるとともに、学者ではなくとも魂の高貴なる人々の「魂の救済」をめぐる物語でもある。

 イタリアでは、『神曲』は義務教育の間さんざん勉強させられるし、高校や大学でも必修科目だ。イタリアの広場では今でも『神曲』が高らかに歌われている。14世紀はじめに書かれ、一人の女性に捧げられた恋愛詩を、町の人々がその音の響きと意味に感動して共感できる。こういったあり方が今でもイタリアの人々に共有されているというのは、部外者の僕からしても感動してしまうものがありますよね。