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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

プラトン入門

本の感想

 文系の学問をある程度真面目にやろうと思えば、まず始めに取り組むのがプラトンアリストテレスだろう。『プラトン入門』だけでなく、ちくま新書の入門シリーズはどれも良書だと思う。久しぶりに読み返してみるとすごく面白かった。著者は竹田青嗣さん。現象学の人ということで色んな本を出していて、プラトンについても独自の見方を展開しているが、それがすごく面白い!勉強になる本かどうかより、読んでいて面白いっていうのはすごく大事なことだと思う。

 

プラトン入門 (ちくま新書)

プラトン入門 (ちくま新書)

 

 

 プラトンはヨーロッパ哲学最大のビックネームだが、それ故に誤解されている部分も多い。

 プラトンの思想の鍵になるのが『イデア』という概念だ。あらゆる事物は、その本質である『イデア』を持っている。例えば、人は三角に握られたオニギリを三角形だと認識する。しかし、それは正確な三角形ではなく、ぶつぶつした米の塊である。三角定規みたいなものでも、細かく見ていけば完全な『三角形』と言うわけにはいかない。現実の世界に『完全な三角形』などなく、それは形而上的な概念としてしか存在しない。それにも関わらず、人がオニギリを見たときにそれを三角形だと思うのは、『三角形』の『イデア』というものを生まれつき持っているからだ。この考えはあらゆるものに当てはまる。具体的な『美しい人』や『美しいもの』を私たちは認識することができるが、『美しい』というもの自体は現実世界には存在しない。それは私たちが思い描く概念であり、イデア界にある普遍的なものだ。個別の具体的なものたちは、自らの存在の根拠をその『イデア』から受け取っている。もともと私たちの中に普遍的な『イデア』が備わっているからこそ、私たちは『三角形』や『美』や『善い悪い』などを認識することができる。そしてプラトンは、様々な『イデア』があるなかで、最も上位にあり、すべての『イデア』の元になっているイデアを『善のイデア』だと考えた。

 この有名なイデア論は、現代ではヨーロッパ思想最大の悪役であるかのように捉えられている。なぜなら、『超越的なもの』、『普遍的なもの』があらかじめ人間に先立って存在するという思想は、世界全体の摂理についての絶対的真理が存在するという理念に転用され、ファシズムスターリニズム、世界戦争など、未曾有の惨禍を巻き起こす土台になったと考えられているからだ。現代思想においてプラトンは、様々な災厄を引き起こした悪しき形而上学の源泉として批判されてきた。しかし、著者の竹田青嗣は、こういった批判はプラトンの思想を誤解した通俗的なプラトン批判に過ぎないと主張する。

 

 『絶対』や『真理』という言葉に対し、現代に生きる人は拒否反応を起すだろう。そんなものは存在しない、と。それは全くもって正しい。プラトンの考えは『絶対』や『真理』の思想の元になったと捉えられ、批判されてきた。しかし竹田青嗣に言わせれば、それはプラトンを読み違えているだけで、プラトンの『イデア論』の考え方の核にあるは『普遍的思考』、もっと詳しく言えば、『普遍性を探求する思考のためのフレームワークの提示』ということになる。『絶対的』ではなく、『普遍的』であることが重要なのだ。

 宗教と哲学について、宗教は世界を物語で説明しようとするのに対し、哲学は抽象概念を使ってそれを行う。

 宗教的な世界説明の物語においては、それが真実であるかどうかは問題ではなく、その物語に権威があり、それが共有されていればそれでいい。宗教では、その物語に対しての解釈が積み重ねられていくことはあるが、物語の出どころについて疑問を発するのはタブーになっている。宗教による世界説明はそれを共有する共同体の外を一歩出ると、たちまち説得力を失ってしまう。

 一方で哲学は、物語を用いず、『抽象概念によって世界を説明するというルール』を設定する。一、多、有限、無限、変化、不動、などの抽象概念は物語と違い、どの共同体にも共有できるので、共同体が違っても共通するルールを定めることができる。誰でもアクセスすることができる基盤をつくったときに、哲学が始まる。哲学の『普遍的思考』とは、さまざまな共同体を超えて共通理解をつくりだそうとする思考の不断の努力のことだ。それは、より普遍的なものへと向かっていくことのできる道筋を示すということであって、唯一の絶対的なものが存在するという独断的な信念では決してない。このような絶対性と、『普遍的な思考』を混同すると、プラトンが示した『普遍性』という、哲学において最も重要なものを腐らせてしまうことになる。

 プラトン認識に先立つ絶対的なイデア』という形而上的概念をこしらえて、『世界には一つの真理がある』という危険な考えを生み出した、そう考えるのはよくありがちな通俗的プラトン批判だ。

 現実世界にはない『イデア』という概念を想定したことによって、(辿りつくことはできないのだが)そこに向かっていくことができるようになる。例えば、より『善い』方向に向かえる可能性のための思考を重ねていくことができる。そのような基盤が『普遍的な思考』というフレームワークの上に哲学というゲームとして整備されている。そう考えるのがプラトンの思想の正しい捉え方だと、竹田青嗣は主張する。

 

 プラトンの著書を読みその思想を素朴に考えると、「絶対的な概念の世界であるイデア界こそが世界の本質で、不完全な感覚の世界にあるものはイデア界の影にすぎない。人間の『理性』にはイデアが備わっているから、物事の『本質』を捉えることができる」みたいな感じになるのが一般的な解釈ではないだろうか。竹田青嗣の考えはアクロバティックな読み方だとは思う。でも面白いし、説得力がある。

 プラトンイデア論でうまく示したのは、人間があらゆるものを認識しようとするとき、その本質を考えようとしてしまう癖があるということだ。『美しい』とは何か、『善い』とは何か……。完璧な答えはないかもしれないけど、僕たちはそれを考えるのをやめない。

 プラトンは『イデア』の中でも、その最も根本をなすもの、『イデアの中のイデア』を、『善のイデア』とした。これが『真のイデア』ではなく『善のイデア』だということが大切なポイントである。『善いこと』を求めるのは魂の欲望であり、人は『普遍的な思考』を辿って『善』にたどり着くことができる。人間にはもともと『善いものを求める(考えてしまう)欲望』が備わっているということが重要で、プラトンの思考の本質は、決して『絶対的な真理』が必要だということではない。

 

 プラトン的なものを否定した現代思想の方法論である『構造主義』は、研究する内容の構造を抽出し、分析する。それは『普遍的なものなど存在しない』という考えを前提にしている。なぜなら、構造を抜き出すというためには特定の方向からの視座が不可欠だからだ。世界をうまく説明できるようになるのかもしれないが、竹田青嗣に言わせれば、ある種の開き直りのようなもので、プラトンが提示した優れた考え方を受け継いではいないのだ。それは正統な『哲学』ではない。

 『普遍的なものなどない』とシニカルに言うこと自体は何の意味もない。『善い』ものについて『考えることができること』、そこに向かって、誰もがアクセスできる『普遍的な思考』を行うこと、それが哲学において最も大切なことなのだ。

 

 

 哲学は、単に概念によって「原理」を探求するだけのゲームではなくなり、言語をきたえることによって考え方を普遍化してゆく独自の思考方法として再生された。この新しい思考の方法こそプラトンが愛知(フィロソフィー)と命名したものにほかならない。まさしくプラトンはこの方法の創始者だった。

 現代思想のシーンでプラトンは、しばしば悪しき西洋形而上学の源泉として批判されてきた。しかしここでいわれる「形而上学」とは、繰り返し見てきたように、何らかの権威によって特定の理念を特権化し、絶対化するような思考のことである。そしてそれを言語相対主義によって越えようとする試みは、必ずシニシズムに帰着する。あらゆる種類の形而上学に本質的に対抗しうるのは、「絶対」主義に対置された相対主義ではなく、「普遍的な思考」ということ以外ではありえない。プラトンがわたしたちに示しているのは、まさしくそのような思考の原理なのである。

 

 

 本書は『プラトン入門』という題だが、ギリシャ哲学から現代思想まで、かなり広い射程で哲学というものについて考えている。哲学という方法の原型について立ち戻ろうとするとき、常にその中心にプラトンがいる。プラトン入門=哲学入門と言っても過言ではない。ちょっと哲学っぽいことを勉強してみたいなあ、という方には、ぜひ最初にこの本を読むことをおすすめする。