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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

生物と無生物のあいだ

本の感想

 生命が「動的な平衡状態」にあることを最初に示した科学者はルドルフ・シェーンハイマーだった。私たちの身体のありとあらゆる部分、臓器や組織だけでなく、一見固定的な構造に見える骨や歯ですらも、貯蔵物と考えられていた体脂肪でさえ、常に分解と合成が繰り返されている。与えられた形状を保ちながら、分子のレベルでは流動している。一年ほど経てば、かつて自分の一部であった原子や分子はもう私たちの内部には存在しない。自らの感覚に従えば、肉体というものは外界と隔てられた個物としての実感があるように感じるだろう。だが分子のレベルでは、私たち生命体はたまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。あくまで私たちは肉体としての「平衡」を維持しながらも、分子は絶えず高速で入れ替わっている「動的」な流れを持つ。流れが、流れつつも一種のバランスを持った系(システム)を保ちうること。これが「動的平衡ダイナミック・イクイリブリアム)」である。

 この本はサントリー学芸賞を受賞したが、動的平衡という考え方がどうというよりも、本書で見るべきところは研究者達のエピソードだろう。著者の福岡伸一さんは、第一線で分子生物学に関わってきた研究者であるとともに、詩的な言葉を使って文章を綴れる人だ。高橋源一郎よしもとばななが高く評価しているのもうなずける。どうでもいいが、本書に載っている著者の顔写真が僕の理系の友人に似ている。彼は理系の学部で女性との接点がなく、風俗に行って風俗嬢に入れ込んでしまった。そこで彼は、人間の細胞は分子レベルではすぐに入れ替わるから、風俗嬢だって二、三年何もさせなければ新品になるさ、みたいなことを言っていたような気がする。本当にどうでもいい。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

 

  生物学の場合、何よりも重視するべきなのは観察である。しかし、観察によって相関関係を見つけることはできても、そこに因果関係を立証することはできない。因果関係は、「介入」実験を行ったとき初めて立ち現れる。介入実験とは、原因と思われる状況を人為的に作り出し、予想される結果が起こるかどうかを試す実験だ。 

 しかし、実験には必ず例外や偏差が含まれる。それは、例えば特定の物質の採取ミスや保存条件の不備、サンプル調整時の誤りや顕微鏡観察の不手際など、単なるミスなのかもしれないし、もっと別の生物学的意味を持つ現象かもしれない。

 実験をしていて、自分の思うような結果に反するものが観測された場合、大部分は自分の理論と整合性があるのだが、ほんの一部、自分にとって邪魔な結果が観測された場合、研究者からすればその結果をなかったことにするのは容易い。実験の手続きの途中にミスがあったのだろうと、うまく出来た結果だけを提示すれば自分の唱える説の説得力は増す。そういった誘惑に、誰もが抗えるわけではないだろう。

 新千円札の肖像画である野口英世を知らない日本人はほとんどいない。梅毒、ポリオ、狂犬病、トラコーマなどの病原菌を培養したと発表し、多くの論文をものにして一時はノーベル賞もうわさにのぼった。西アフリカで自らの実験対象だった黄熱病にかかってこの世を去り、今でも国民的偉人として認知されている。数々の病原菌の正体を突き止めたという野口の主張のほとんどは、今では間違ったものとしてまったく顧みられていない。

 

『野口の研究は単なる錯誤だったのか、あるいは故意に研究データを捏造したものなのか、はたまた自己欺瞞によって何が本当なのか見極められなくなった果てのものなのか、それは今となっては確かめるすべがない。けれども彼が、どこの馬の骨とも知れぬ自分を拾ってくれた畏敬すべき師フレクスナーの恩義と期待に対し、過剰に反応するとともに、自分を冷遇した日本のアカデミズムを見返してやりたいという過大な気負いに常にさいなまれていたことだけは間違いないはずだ。その意味で彼は典型的な日本人であり続けたといえるのである。』と著者は野口英世を評価する。

 

 数々のエピソードの中で特に面白かったのが、DNA二重らせん構造の発見に関するものだ。研究者は何よりもまず論文の内容で評価されるのだが、「ネイチャー」や「サイエンス」など著名な科学誌のみならず、論文発表の場となるすべての専門誌では「ピア・レビュー」という方式で掲載論文採択の決定を行う。ピア(peer)とは同業者ということであり、同業者による判定は、細分化されすぎた専門研究者の仕事を相互に、できるだけ公正に判断する唯一の有効な方法になる。同じだけの専門性を持った者でないと、それがどのような価値を持つのか理解できないのだ。しかし、研究の世界は「一番最初にそれを発見したのは誰か」がすべてで、二番手には居場所も栄誉も与えられないシビアな世界である。もし自分が評価すべき内容の論文をたまたま審査する立場で見て、それが今、自分も進めている仕事を一歩先にまとめあげたものだったとしたら、論文の細部に難癖をつけ、採択までの時間を稼ごうしたくなるのは当然だろう。そういったことを防ぐための措置は取られているらしいが、研究者の世界はとても狭いもので、編集委員会自体が同業者で構成されていたりするし、論文の著者名が黒塗りされていたとしても、用語の使い方や主張、引用文献リストからすぐに当人が割れてしまうのだ。

 この「ピア・レビュー」にまつわる問題にていて、二十世紀最大の発見、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによるDNAの二重らせん構造の発見にも、疑惑がつきまとう。

 DNAの結晶化に尽力し、DNAらせん構造に最も重要な寄与をなしたはずの才女ロザリンド・フランクリンは、1962年、ストックホルムで開催されたノーベル授賞式の栄誉にあずかることはできなかった。彼女は「ピア・レビュー」によって、自らのX線写真を盗み見られたのだ。その詳しい経緯は、とても面白いので本書を読んでもらいたい。彼女のような不遇な人物の名前を、多くの人の目に触れさせるのは大切なことだ。

 本書は、科学的な事実というよりも、偉大な研究者達の等身大の生き様、そして、研究者として筆者が実際に感じた空気、手触りのようなものをよく記述していると思う。

 

『その年の秋、私たちのチームは目的とするGP2遺伝子の特定とその全アミノ酸配列をアメリカ細胞生物学会で発表した。ライバルチームもその同じ学会で私たちとまったく同じ構造を発表した。同着だった。お互いの仕事の正しさが確認された瞬間でもあった。ヒト・ゲノムの全貌が明らかになった今となっては、それはジグソーパズルのささやかなワン・ピースでしかない。』

 

 生命の偉大さと、それを解き明かそうとする情熱。その間を揺れ動いた著者だからこそ書けた本なのだろう。文章だけを見ても読むに値すると思う。