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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

ふしぎなキリスト教

本の感想

 もし、キリスト教の「わかっていない度合い」を調べるとしたら、ある程度近代化した社会のなかで日本人はトップになるだろうと大澤真幸は言う。それは日本人の頭が悪いというのではなく、日本があまりにもキリスト教とは関係のない文化的伝統の中にあったことがその原因である。しかし、近代の根拠になっている西洋の中でキリスト教が持つ影響は極めて大きい。社会学者の大澤真幸が、同じく社会学者で宗教に造形が深い橋爪大三郎に疑問を投げかける対談形式で本書は書かれている。キリスト教が持つ考え方の根本の部分を、他の宗教や文化とも比較してわかりやすく解説する。説明するときに使われる橋爪大三郎の比喩がいちいち良い感じである。本書は2012年の新書大賞第1位に選ばれているが、間違っている箇所も多いらしく、批判のまとめサイトなどができ、さらに、ふしぎな「ふしぎなキリスト教」という批判本まで出版さている。僕にどちらが正しいか判断する能力はないが、批判サイトを見ていると明らかにやばい奴の書き込みもあって、それはそれで面白い。やはり宗教が絡むことだけあって、批判する側も熱心になるのだろう。色々言われているらしいが、僕はけっこういい本だと思った。

 

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

 

 

 キリスト教を理解したいと思うとき、最強にユダヤ教があってそれからキリスト教が出てきたという視点が必要になる。ユダヤ教とキリスト教は、「ほとんど同じ」である。ただ、イエス・キリストがいるかどうか、そこだけが違う。

 ユダヤ教は、律法、つまり法律が最重要視される。ユダヤ教の法律とは「厳密ルール主義」で、ユダヤ民族の生活のルールをひとつ残らず列挙して、それをヤハウェの命令(神との契約)だとする。衣食住、生活歴、刑法、民法、商法、家族法、さらに日常生活の一切合切が法律になる。なぜそんなことをするのかというと、それは、ユダヤ人があまりにも過酷な状況にさらされてきたからだ。

 もし日本がどこかの国に占領されて、どこか知らない土地に連れ去られてしまったとする。そういった状況で、百年たってもその子孫が日本人のままでいられるのはどうしたらいいか。その方法として、日本人の風俗習慣をなるべくたくさん列挙するというものがある。正月には雑煮を食べて、餅はこう切って、鶏肉とほうれん草を入れて……、など、そういったものをぎっしり書いた本をつくり、それを天照大御神との契約にする。これを守ってくらしていけば、百年、千年経っても、日本人は日本人のままでいられるかもしれない。ユダヤ人がやったのはこれと同じことで、モーセの律法をまとめた「モーセ五書」に、食べていいものと食べてはいけないもの、安息日、割礼、服装など、いろいろと書き込んだ。こうやって一神教の神との契約をつくり、それを守っていけば、国家が消滅してもまた再建できる。政治情勢がどうであろうと信仰が持続できる。実際、こうやってユダヤ教は自分たちの社会を二千年にわたって保ってきた。ちなみにイスラム教も、生活のルールを定める宗教法をワンセットで持っているという点ではユダヤ教とよく似ている。

 ユダヤ教からキリスト教が生まれた過程で何が起こったのか。ユダヤ教は生存戦略として法律を最重要としたので、当然、法律重視である。しかし、時代を経るにつれて、もとの法律では無理がある部分がたくさん出てくる。ヤハウェとの契約(律法)を守る人が救われるのだが、現実的にそれを守れない人が大勢いる。しかも、ユダヤ民族でない人はそもそも最初からチャンスがない。そこに、イエス・キリストが登場して、新しいゲームが始まる。

 律法のゲームから愛のゲームへ、それがキリスト教の始まりだ。

 イエス・キリストは単なる預言者ではなく、神の子である。神は被造物である人間たちの外部にあるのだが、自分の子であるキリストを地球に降り立たせることによって、人々に介入する。

 イエスは最初、ただの人の子として現れるのだが、人間の罪を背負って惨めに死んでしまう。そして復活し、天へ登っていく。やがて再臨し、人々に裁きを下す。イエス・キリストは人間に殺されたので、復習する権利がある。人間はどんな罰を受けても文句は言えない。しかし逆に、キリストには人間を許す資格がある。イエス・キリストは人間として死刑になったので、人々が持っている罪をかわりに受け、人々の受けるべき罰はなくなってしまったとも考えられる。人々は罰を受けるのか、それとも免除されたのか、その裁量を持つのはイエス・キリストである。イエス・キリストが再臨する「主の日」に、最後の審判を行う。このエピソードは、一神教的な神との間の契約に、イエス・キリストというワンクッションを置いたことを意味している。これによって契約は更新され、モーセの律法は効力停止になり、イエスの教えが重視される。

「イエスさん、あなたは律法に詳しいが、あんなにたくさんあるモーセの律法で大事なのはどれでしょう」と聞かれたとき、イエスは、「第一は、心をこめて、あなたの主である神を愛しなさい(『申命記』6章4〜5節)」。第二は、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい(『レビ記』19章18節)。律法はこの二つに尽きている」と答える。イエス・キリストを通すことによって、律法のゲームから愛のゲームへの転換が、新約聖書とともに実現する。愛は律法と違って、無条件にチャンスを与える。イエスは純粋愛を説き、呼びかけの対象をアブラハムの子孫(ユダヤ民族)以外にも広げた。そして、呼びかけに応えるのに、割礼やほかの、どんな具体的な行動も必要ないことにした。ひたすら愛が重要になる。

 キリスト教は、一神教なのに、ユダヤ法やイスラム法などにあたる宗教法がないという変種なので、その内実は学説のようなものになる。例えば三位一体説(ゴッドとイエスと聖霊が一体)のようなものだが、にわかには理解しにくく、論理的にもそれほどの合理性もない。一方のイスラム教などは、キリスト教よりもはるかに合理的な体系を持っている。歴史を振り返れば、中世くらいまではイスラム圏のほうがカトリック世界よりも、技術の面でも思想の面でもずっと先行していた。しかし、極めて首尾一貫性が高く合理的な宗教であるイスラム教が、近代化の過程では、結局キリスト教に主導権を奪われてしまった。それはキリスト教徒が自由に法律をつくれたからだと橋爪大三郎は分析する。

 社会が近代化できるかどうかの大きな鍵は、自由に新しい法律をつくれるかどうかだ。新しい法律をつくろうとするとき、ユダヤ人が考えることは、まず、これはユダヤ法に書いてあるかどうか。イスラム教徒が考えることは、これはクルアーンに書いてあるか、スンナに書いてあるか、イスラム法的に正しいかどうか。キリスト教はそんなことは考えず、禁止されていないことは「できる」と考える。そのため、キリスト教社会は銀行をつくり、利子をとって、企業に当座預金の講座を設定して、小切手を切らせて、手形を割り引いて……みたいなことが可能になった。このようにして、キリスト教が近代化の先陣を切ることになる。

 また、近代の哲学や自然科学もキリスト教から生まれたと言われている。ユダヤ教、イスラム教の優秀な知識人は、まず自分達の宗教法の解明と発展を考える。一方、キリスト教は宗教法がないので、どう生きれば神の意思に沿うことになるのか、途方にくれる。祈りの生活を送ってみたり、神学をやったり、哲学や自然科学に手を出したりと、そういった葛藤から目覚ましい成果が生まれてきた。

 キリスト教と他の宗教と違うのは、この世界に置き去りにされているという点だ。依拠する法律がなければ、自分達で別の拠ってたつものを考えなければならない。自然法という概念を考えだしたのもキリスト教だが、なぜわざわざそんなものを考えださなければならなかったかというと、宗教法を持っていないからだ。

 西欧社会、近代社会におけるキリスト教は、意識に登らない形で強く働いている。近代社会の最もベースになるような制度やアイデアや態度が、一見キリスト教を脱しているようでいて、かなり深い部分、キリスト教的な前提の上でつくられている。キリスト教のふしぎなところは、「キリスト教から脱したと見えるその地点こそが、まさにキリスト教の影響によって拓かれている」と大澤は主張する。

 たとえば、カントは自身が厳格なプロテスタントだが、哲学をするときは神の存在を括弧にいれている。カントの哲学の説を受け入れるかどうか、それを正しいものと見なすかどうかというときに、読者はキリスト教徒である必要はない。だがカントの「定言命法」はキリスト教の考えかたに強く影響されている。「意志の格率」を普遍化するというのは、すべての人を人格として尊重する、ということと同じであり、それはカント風にアレンジされたキリスト教的隣人愛である。「ヘーゲル弁証法」はもっとあからさまにキリスト教の論理を取り組んだものになっていて、三位一体説を下敷きにしたものである。マルクス主義は唯物論を標榜し、キリスト教や他の宗教と関係ないことになっているという認識は日本でよくされがちだが、橋爪に言われると、神がいないだけで、ほとんどキリスト教と同じだそうだ。教会の代わりに共産党があり、共産党はカトリック教会のように一つでなければならない。それは世界全体が歴史法則に貫かれているからで、やがてやってくる世界革命は、キリスト教における終末とよく似ている。プロレテリアとブルジョアの二分法も、救済されるかされないかの二分と同じだ。このように、マルクス主義を生み出してしまうのもキリスト教の重要な性質のひとつになる。ふつう世俗化というと、宗教の影響を脱することを言うのだが、キリスト教は世俗化において一番影響を発揮するという構造になっている。そういうふうになった宗教はほかにない。このような話を聞くと、キリスト教はたしかにふしぎだ。

 キリスト教の部分だけをまとめたが、本書では仏教や儒教、イスラム教などにも色々と言及していて、日本がそれらとはどう違うか、どうして日本人は彼らの考え方を理解できないのか、ということも橋爪大三郎が明快な比喩で語っている。対談形式ながらもわかりやすく整理されていて、楽しく読めるので、読んでいない人は読んでみて損はないと思う。