しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

何か間違ってると思うし気にいらない

一つ一つ詳細を書くのは差し支えがあるのだけど、社会人になってから、「それって役に立つの?」という種類の問い方をする人が世の中にたくさんいることがわかった。目的が曖昧なままでも手段が問われるのだ。

役に立つかどうかで言えば、「大量虐殺に役立ちます!」みたいなこともあるわけだし、目的や価値をすっとばして手段として優れていることが求められる状況は、貧しいし危険だ。

人類には、目的さえ明確なら、なんとなくなんとかしてしまう力がわりとあると思う。一方、目的が狂っているとき、積みあがるはずだったプラスのぶんがマイナスになってしまうこともあり得る。

個人レベルでも、手段でなく目的をもう少し意識してみていいのかもしれない。
何の利害も理念も共有していない人間に従事することは自分の目的ではないな、というくらいの最低限の常識的な感覚を手放さないために。

しかし、「目的は何か?」「何が価値なのか?」といった類の、当たり前で本質的であるはずの問いは、一笑に付されるものになってしまった。「そんなものはないよ」といった成果が一度掲げられた経緯もありつつ、今は、手段として優れているか(役に立つか)、という訪ね方をせざるをえなくなっているのだろう。

別に僕は、「役に立つのか?」という質問に難癖をつけたいわけではない。多くの場合、そこには何らかの含意が前提とされているはずだ。もちろんビジネスの場であれば目的は明白だし。
ただ、もっと普遍的に「役に立つ」と言うときの場合、みんなが何を前提にしているのかといったら、「発展」なのではないかと僕は思う。他にもあるかもしれないが、少なくとも大きな共通項の一つではあるだろう。

記録を更新したりとか、新しい発見や発明をしたりなんかは、みんな善いものだと思ってるんじゃないだろうか。
しかし、それによって大多数がいい思いをしているのかというと、そうとも限らない。

「より効率的に」「より便利に」を求め、消費者のニーズを拾い、技術や知見がアップデートされて生産効率なんかも上がっていていいはずなのに、僕たちは親世代より良い暮らしを期待できないと言われている。夫婦で4、5人子供を産むといった、50年ほど前なら誰でも手が届いたようなことが、今ではとてもハードルの高いものになっている。

原因は色々あるにしても、そもそも、僕たちは楽をするべきだと思っていないのだろう。(楽をしたいと思ってはいても。)
楽になるという未来を素朴に信じることができないし、人間である以上は何かしらの苦悩があると確信している。
「楽になった人間」という言葉から連想されるのはディストピアだ。

もちろん今だって楽ではない。

この時代の困難は、「なんとか生き延びていく」が否定されていることだ。我慢しているだけでは、必要最低限の承認と充実すら与えられない。
「諦めが必要」とか「生活水準を落とせば楽勝」と言う人がいて、しかし実際にそうしようとしたときには、何かと難癖をつけてそれを貶めようとする人達が湧いてくる。

誰もが自発的に、計画し実現することが求められる。一方で、計画性といったものの見事な失敗を突きつけられているし、これからツケを支払っていかなければならない。だが、その種の理不尽、不安や憂鬱は、どこか明確な形で捉えにくいところがある。

今の時代の、微妙で掴みどころのない困難は、まだ対抗策が確立されていないどころか、正確な認識がおぼつかない。

目から耳から入ってくる様々な「規範」は、まだそれと認識されていなかった時代の病原菌のようなものだ。
衛生観念が根付いていない場所で身体の弱い人間から死んでいくのに対して、今は、情報感度の高い繊細な人間、「規範」をしっかり真に受けてしまうだけの良識を持った人間が、前途を絶たれる。

無関心な人間はその影響を受けずに、まともに考えてしまう人ほど過剰に取り入れて被害を被る。規範にはそういう性質がある。

「十分な環境を与えられないし、産んだ子を不幸にしてしまいそうだから、出産を諦める」というのは、その典型的な症状だろう。しかも恐ろしいことに、その決断と宣言が病原を再生産する。

子供をしっかり育てようとする人が出産を踏みとどまる一方で、何も考えない人かほど無計画にたくさん作る、といった種類の人類のクソ仕様は、抑圧やレールが消えて自由に投げ出される社会で、どんどん顕在化していくのかもしれない。

人を傷つけたくない女性の優しさが逆に利用されるとか、丁寧にふるまう男性ほどモテないとか、倫理観や良識があるほどビジネスで負けるとか、何かに熱中すればするほどキモい顔になっていくとか。

より致命的な例で言えば、仕事と恋愛の話。
僕は今、けっこうがんばって働いてたりするのだけど、今みたいな生活をしてたら彼女つくる余裕とかマジでない。
恋愛や育児にはコストがかかるが、それを無視して働いて、仮に何らかの成功を収めてしまうことは、普通の男女が結婚して子供を育てていける社会を破壊することに繋がらないだろうか。

少子化や過剰労働など日本の事情に照らし合わせて考えるなら、恋愛や子育てにしかるべき時間と労力を支払った上で、仕事に参加するというのが、ルールと良識に適ったことなのではないか。

もちろん何の仕事をするかにもよるだろうが(と言い訳しておく)、いわゆる「合成の誤謬」というやつで、デートする時間や寝食を削って営利活動をしても公共のためにはならない。ましてや勤め人がそれをやるなんて以ての外だ。

しかし、「恋人もつくらず、子供も育てずに一生懸命働くのは社会悪」といった、今の社会が生み出した怯むほどの残酷さを、いったいどう扱えばいいのか?

このようなものは、違う視点から眺めればいっそ清々しいものでもあるのだろうし、少し離れた未来からは、それなりに納得を持って説明されるのかもしれない。
でも、僕たちは渦中にいるのだ。それが生きていくということなら、そんな中で、なんとかやっていくしかない。

そして、「なるべく機嫌よく生きようとする」といった、シンプルで酷な解決案を拒否してしまう人間は、それなりの代償を支払わなければならないのだろう。

やはり、何かが間違っていると思うし、気にいらない。なんとなく。
この期に及んで、明るく気分よくという以上のものがあると、どこかで考えてしまっている。

僕は今日誕生日で26歳になって、自分の限界は感じるし諦めのようなものもある。
何か間違っていると思う。思うんだけど、実は案外、世界はうまくできてるんじゃないか、というのもある。そういう世界の優しい弾力みたいなものがあって、そこにあやかればいいのだろうけどそれでも、反対側に走り出すときの一抹の爽快さをあてにしてしまった。今も多分まだその延長にいる。

どこに帰着するのかはわからないにしても、やっていくしかない。人は学校を離れて社会に出ると7割くらいの語彙を失ってやっていくしかなくなる。


P.S.

だらだらと駄文を書いてひさしぶりにブログやってる感。

最近まったくブログのモチベーションみたいなものがなく、そう言えば誕生日にブログ書いてたなあ、っていうのと、ここ2ヶ月くらい何も更新してないので書いた。

ちなみに今日で26歳になった。24とか25のときは、また一つ歳をとるのか……(絶望)みたいな感じだったけど、今は何も思わない。無感覚だ。

今後の目標は、とりあえずまともな社会人になること!
そして目標と矛盾するようではあるけど、ブログも再開してちょっとずつ更新していこうかなあ、と思ってはいる。

今後ともよろしく。